後半
坂口はしばらく、その言葉の余韻の中にいた。
見てほしくなかったと言えば、嘘になる。
八百年生きてきた龍が、洞窟の奥で三百年間描き続けた。誰も来なかった。来ても逃げた。それでも描き続けた。
その理由が、今少しだけ見えた気がした。
「誰かに見てもらったことは、一度もないんですか」
「ない」
「三百年間、一度も」
「一度も」
坂口はメモ帳を開いた。
書くことが多すぎて、どこから書けばいいか分からなかった。ひとまず、一行だけ書いた。
*三百年間、誰にも届いていない。*
「ヴェルダさん、なぜ描き続けたんですか」
「なぜ、とは」
「誰も見に来ない。来ても逃げる。それでも描き続けた理由が、あったんじゃないかと思って」
ヴェルダはしばらく黙った。
洞窟の中で、どこか遠くから水の滴る音がした。
「……やめられなかった」
「やめられなかった」
「描いている間だけ、時間が違う速さで流れる。八百年生きてきて、そういうものに出会ったのは、これだけだった」
坂口はその言葉を、静かに受け取った。
描いている間だけ、時間が違う速さで流れる。
それは、好きだということだ。理屈じゃなくて、体がそう知っている、ということだ。
「ヴェルダさんにとって、絵を描くことはどういうことですか」
「どういうこと、とは」
「仕事ですか。趣味ですか。それとも、別の何かですか」
ヴェルダはまた黙った。
今度の沈黙は、長かった。
坂口は急かさなかった。八百年分の言葉を引っ張り出すには、それくらいの時間が要る。
「……生きている証拠、かもしれない」
「生きている証拠」
「我がここにいた、ということの。誰も来なくても、この壁に残る。我がいなくなっても、絵は残る」
坂口はメモ帳に書いた。
*描くことが、存在の証明。届けたいのではなく、残したい。*
書きながら、少し考えた。
残したい、と届けたい、は別物だ。ヴェルダは「残したい」から描き続けた。しかし「見てほしくなかったと言えば、嘘になる」とも言った。
残したい気持ちと、届けたい気持ちが、両方ある。
でも届けようとしてこなかった。届けることを、諦めていた。
「ヴェルダさん、一つ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「この絵を、誰かに見てもらうことを考えたことはありますか」
ヴェルダは少し動いた。
「考えた、ことはある」
「でも、しなかった」
「できなかった」
「なぜですか」
ヴェルダの琥珀色の目が、坂口を見た。
「我の姿を見れば、みんな逃げる。絵を見てもらう前に、逃げられる。三百年間、そういうことが続いた」
「逃げられた回数を、覚えていますか」
「……数えていない。ただ、あるとき数えるのをやめた」
「数えるのをやめた、というのは」
「期待するのをやめた、ということだ」
坂口はその言葉を、しばらく眺めた。
期待するのをやめた。
それが、今のヴェルダの核心だった。諦めたのではなく、期待することそのものを手放した。そうしないと、続けられなかったから。
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「ヴェルダさん、俺は今日、この絵を見ました」
「見た」
「逃げませんでした」
「逃げられなかっただけだろう」
「最初はそうです」坂口は少し笑った。「でも今は、逃げたくないです。もっと見ていたい」
ヴェルダは動かなかった。
「この絵を、他の人間にも見てもらえないか、と思っています」
「他の人間に」
「はい。俺一人が見ただけじゃ、もったいない」
ヴェルダはしばらく、坂口を見ていた。
「どうやって。我の姿を見れば、逃げる」
「それは、考える必要があります。ただ、方法は絶対にある」
「根拠は」
「ないです」
正直に言った。
「根拠はないんですか」
「今はまだ。でも、問題を解決するのが俺の仕事なんで。方法を一緒に考えさせてもらえますか」
ヴェルダはしばらく黙っていた。
洞窟の中の沈黙は、オフィスの沈黙と全然違う。もっと重くて、もっと深い。
「……信用していいのか、お前を」
「分からないです」坂口は言った。「ただ、俺はここに来て、この絵を見て、すごいと思いました。それは本当のことです」
「本当のことだと、なぜ分かる」
「俺が嘘をつく理由がないから」
また沈黙があった。
ヴェルダの目が、じっと坂口を見ていた。
値踏みではなくなっていた。何か別のものを確かめているような目だった。
「……続きを、聞かせろ」
「方法の話ですか」
「ああ」
坂口はメモ帳を開いた。
まだ何も書けていないページだった。
「一つだけ確認させてください。ヴェルダさんは、誰かに絵を見てもらいたいですか。正直に」
ヴェルダはすぐには答えなかった。
でも今度の沈黙は、さっきより短かった。
「……見てもらいたい」
「ありがとうございます」
坂口はメモ帳に書いた。
*本人の意志、確認。見てもらいたい。*
「ヴェルダさんの姿を見て逃げる、というのが一番の問題ですよね」
「そうだ」
「ということは、最初に絵を見てもらって、その後でヴェルダさんを知ってもらう、という順番なら、どうですか」
「絵を先に、ということか」
「はい。ヴェルダさんが描いた、ということを伏せて、まず絵だけを見てもらう。気に入った人間が、次に作者を知りたいと思う。そのときに、初めてヴェルダさんのことを伝える」
ヴェルダは少し考えていた。
「絵だけを、どこに置く」
「人間が集まる場所に。市場でも、広場でも。あるいは——」
坂口は少し考えてから、続けた。
「この洞窟を、そのまま見せる場所にする、というのはどうですか」
「この洞窟を」
「壁一面に絵がある。入口付近の明るい場所なら、日中は光も入る。ここ自体が、すでに美術館みたいなものじゃないですか」
ヴェルダは動かなかった。
長い沈黙だった。
「ただ」と坂口は続けた。「入口に何かを置く必要があります。ここに絵があります、見に来てください、という案内を。そして最初の何回かは、ヴェルダさんがいない時間に来てもらう方がいいかもしれない」
「我がいない時間」
「まず絵を好きになってもらってから、作者と会う。その順番の方が、逃げにくい」
ヴェルダはしばらく、その言葉を反芻していた。
「……逃げにくい、か」
「絵が好きだと思った後に、作者が龍だと分かる。そのとき、最初から龍だと知っていた場合より、受け取り方が変わると思います」
「変わるか」
「変わります。人間は、知っているものを怖がるより、知らないものを怖がる生き物なので。絵を通してヴェルダさんのことを少し知った後なら、姿を見ても全部が怖いわけじゃなくなる」
ヴェルダはまた黙った。
坂口は待った。
この沈黙は、考えている沈黙だ。拒絶じゃない。受け取ろうとしている沈黙だ。
「……うまくいくと思うか」
「うまくいかない可能性もあります」坂口は正直に言った。「でも、試してみなければ分からない」
「試して、また逃げられたら」
「そのときは、また一緒に考えます」
ヴェルダの目が、少し動いた。
「何度でも、か」
「それが仕事なので」
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帰り際、坂口は洞窟の入口付近でもう一度、壁の絵を見た。
嵐の海の絵の前で、少し立ち止まった。
波の一つ一つが、ちゃんと違う形をしている。同じ波が一つもない。三百年間、この龍は本物を見て、本物を覚えて、壁に刻んできた。
「ヴェルダさん」
「なんだ」
「この海、実際に見たことがあるんですか」
「ある。二百年ほど前に、一度だけ山を下りた」
「それを、ずっと覚えていたんですか」
「忘れられなかった」
坂口はその答えを聞いて、もう一度絵を見た。
忘れられなかったから、描いた。残したかったから、描いた。そして本当は、誰かに見てほしかった。
三百年間の、その全部が、この壁にある。
「絶対に、届けましょう」
坂口はそう言ってから、転送カードを握った。
ヴェルダは何も言わなかった。
ただ、琥珀色の目が、坂口を見ていた。
さっきより、少しだけ、光が強くなった気がした。
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オフィスに戻ると、レオンが受付のミラと話していた。
坂口の顔を見て、レオンが言った。
「大丈夫でしたか。転送、うまくいきました?」
「洞窟の奥に出ました」
「奥に」レオンは少し青ざめた。「それ、ヴェルダさんの真横じゃないですか」
「真横でした」
「逃げなかったんですか」
「逃げられなかっただけです」
ミラが、右の口角を一ミリ上げた。
坂口はミラを見た。
「次から、精度を上げてもらえますか」
「善処します」
「善処、ですか」
「おおむね」
坂口は天井を見上げた。
メモ帳を開いて、今日の最後の一行を書いた。
*才能は、届けなければ存在しないのと同じだ。しかし届けるためには、届く順番がある。*
ボールペンを置いて、坂口は椅子に深く座り直した。
窓の外の、霞んだ景色を見た。
四件目のクライアントを終えて、少しずつ分かってきたことがある。
この仕事は、転職させることじゃない。その人間が、自分の持っているものに気づいて、それが届く方向に向けてやることだ。
レオンは、自分の中にあるものが見えてきた。グラークは、それを話せる場所を見つけ始めた。シルフィは、自分のペースで届けることを練習し始めた。ヴェルダは、届けること自体を諦めるのをやめた。
全員、まだ途中だ。
でも、向き始めた。
それで十分だ、と坂口は思った。




