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今日どうだった、と聞いてくれる人  作者: ジェミラン
第四章「誰も見に来ない美術館」

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8/9

後半

 坂口はしばらく、その言葉の余韻の中にいた。


 見てほしくなかったと言えば、嘘になる。


 八百年生きてきた龍が、洞窟の奥で三百年間描き続けた。誰も来なかった。来ても逃げた。それでも描き続けた。


 その理由が、今少しだけ見えた気がした。


「誰かに見てもらったことは、一度もないんですか」


「ない」


「三百年間、一度も」


「一度も」


 坂口はメモ帳を開いた。


 書くことが多すぎて、どこから書けばいいか分からなかった。ひとまず、一行だけ書いた。


 *三百年間、誰にも届いていない。*


「ヴェルダさん、なぜ描き続けたんですか」


「なぜ、とは」


「誰も見に来ない。来ても逃げる。それでも描き続けた理由が、あったんじゃないかと思って」


 ヴェルダはしばらく黙った。


 洞窟の中で、どこか遠くから水の滴る音がした。


「……やめられなかった」


「やめられなかった」


「描いている間だけ、時間が違う速さで流れる。八百年生きてきて、そういうものに出会ったのは、これだけだった」


 坂口はその言葉を、静かに受け取った。


 描いている間だけ、時間が違う速さで流れる。


 それは、好きだということだ。理屈じゃなくて、体がそう知っている、ということだ。


「ヴェルダさんにとって、絵を描くことはどういうことですか」


「どういうこと、とは」


「仕事ですか。趣味ですか。それとも、別の何かですか」


 ヴェルダはまた黙った。


 今度の沈黙は、長かった。


 坂口は急かさなかった。八百年分の言葉を引っ張り出すには、それくらいの時間が要る。


「……生きている証拠、かもしれない」


「生きている証拠」


「我がここにいた、ということの。誰も来なくても、この壁に残る。我がいなくなっても、絵は残る」


 坂口はメモ帳に書いた。


 *描くことが、存在の証明。届けたいのではなく、残したい。*


 書きながら、少し考えた。


 残したい、と届けたい、は別物だ。ヴェルダは「残したい」から描き続けた。しかし「見てほしくなかったと言えば、嘘になる」とも言った。


 残したい気持ちと、届けたい気持ちが、両方ある。


 でも届けようとしてこなかった。届けることを、諦めていた。


「ヴェルダさん、一つ聞いてもいいですか」


「なんだ」


「この絵を、誰かに見てもらうことを考えたことはありますか」


 ヴェルダは少し動いた。


「考えた、ことはある」


「でも、しなかった」


「できなかった」


「なぜですか」


 ヴェルダの琥珀色の目が、坂口を見た。


「我の姿を見れば、みんな逃げる。絵を見てもらう前に、逃げられる。三百年間、そういうことが続いた」


「逃げられた回数を、覚えていますか」


「……数えていない。ただ、あるとき数えるのをやめた」


「数えるのをやめた、というのは」


「期待するのをやめた、ということだ」


 坂口はその言葉を、しばらく眺めた。


 期待するのをやめた。


 それが、今のヴェルダの核心だった。諦めたのではなく、期待することそのものを手放した。そうしないと、続けられなかったから。


---


「ヴェルダさん、俺は今日、この絵を見ました」


「見た」


「逃げませんでした」


「逃げられなかっただけだろう」


「最初はそうです」坂口は少し笑った。「でも今は、逃げたくないです。もっと見ていたい」


 ヴェルダは動かなかった。


「この絵を、他の人間にも見てもらえないか、と思っています」


「他の人間に」


「はい。俺一人が見ただけじゃ、もったいない」


 ヴェルダはしばらく、坂口を見ていた。


「どうやって。我の姿を見れば、逃げる」


「それは、考える必要があります。ただ、方法は絶対にある」


「根拠は」


「ないです」


 正直に言った。


「根拠はないんですか」


「今はまだ。でも、問題を解決するのが俺の仕事なんで。方法を一緒に考えさせてもらえますか」


 ヴェルダはしばらく黙っていた。


 洞窟の中の沈黙は、オフィスの沈黙と全然違う。もっと重くて、もっと深い。


「……信用していいのか、お前を」


「分からないです」坂口は言った。「ただ、俺はここに来て、この絵を見て、すごいと思いました。それは本当のことです」


「本当のことだと、なぜ分かる」


「俺が嘘をつく理由がないから」


 また沈黙があった。


 ヴェルダの目が、じっと坂口を見ていた。


 値踏みではなくなっていた。何か別のものを確かめているような目だった。


「……続きを、聞かせろ」


「方法の話ですか」


「ああ」


 坂口はメモ帳を開いた。


 まだ何も書けていないページだった。


「一つだけ確認させてください。ヴェルダさんは、誰かに絵を見てもらいたいですか。正直に」


 ヴェルダはすぐには答えなかった。


 でも今度の沈黙は、さっきより短かった。


「……見てもらいたい」


「ありがとうございます」


 坂口はメモ帳に書いた。


 *本人の意志、確認。見てもらいたい。*


「ヴェルダさんの姿を見て逃げる、というのが一番の問題ですよね」


「そうだ」


「ということは、最初に絵を見てもらって、その後でヴェルダさんを知ってもらう、という順番なら、どうですか」


「絵を先に、ということか」


「はい。ヴェルダさんが描いた、ということを伏せて、まず絵だけを見てもらう。気に入った人間が、次に作者を知りたいと思う。そのときに、初めてヴェルダさんのことを伝える」


 ヴェルダは少し考えていた。


「絵だけを、どこに置く」


「人間が集まる場所に。市場でも、広場でも。あるいは——」


 坂口は少し考えてから、続けた。


「この洞窟を、そのまま見せる場所にする、というのはどうですか」


「この洞窟を」


「壁一面に絵がある。入口付近の明るい場所なら、日中は光も入る。ここ自体が、すでに美術館みたいなものじゃないですか」


 ヴェルダは動かなかった。


 長い沈黙だった。


「ただ」と坂口は続けた。「入口に何かを置く必要があります。ここに絵があります、見に来てください、という案内を。そして最初の何回かは、ヴェルダさんがいない時間に来てもらう方がいいかもしれない」


「我がいない時間」


「まず絵を好きになってもらってから、作者と会う。その順番の方が、逃げにくい」


 ヴェルダはしばらく、その言葉を反芻していた。


「……逃げにくい、か」


「絵が好きだと思った後に、作者が龍だと分かる。そのとき、最初から龍だと知っていた場合より、受け取り方が変わると思います」


「変わるか」


「変わります。人間は、知っているものを怖がるより、知らないものを怖がる生き物なので。絵を通してヴェルダさんのことを少し知った後なら、姿を見ても全部が怖いわけじゃなくなる」


 ヴェルダはまた黙った。


 坂口は待った。


 この沈黙は、考えている沈黙だ。拒絶じゃない。受け取ろうとしている沈黙だ。


「……うまくいくと思うか」


「うまくいかない可能性もあります」坂口は正直に言った。「でも、試してみなければ分からない」


「試して、また逃げられたら」


「そのときは、また一緒に考えます」


 ヴェルダの目が、少し動いた。


「何度でも、か」


「それが仕事なので」


---


 帰り際、坂口は洞窟の入口付近でもう一度、壁の絵を見た。


 嵐の海の絵の前で、少し立ち止まった。


 波の一つ一つが、ちゃんと違う形をしている。同じ波が一つもない。三百年間、この龍は本物を見て、本物を覚えて、壁に刻んできた。


「ヴェルダさん」


「なんだ」


「この海、実際に見たことがあるんですか」


「ある。二百年ほど前に、一度だけ山を下りた」


「それを、ずっと覚えていたんですか」


「忘れられなかった」


 坂口はその答えを聞いて、もう一度絵を見た。


 忘れられなかったから、描いた。残したかったから、描いた。そして本当は、誰かに見てほしかった。


 三百年間の、その全部が、この壁にある。


「絶対に、届けましょう」


 坂口はそう言ってから、転送カードを握った。


 ヴェルダは何も言わなかった。


 ただ、琥珀色の目が、坂口を見ていた。


 さっきより、少しだけ、光が強くなった気がした。


---


 オフィスに戻ると、レオンが受付のミラと話していた。


 坂口の顔を見て、レオンが言った。


「大丈夫でしたか。転送、うまくいきました?」


「洞窟の奥に出ました」


「奥に」レオンは少し青ざめた。「それ、ヴェルダさんの真横じゃないですか」


「真横でした」


「逃げなかったんですか」


「逃げられなかっただけです」


 ミラが、右の口角を一ミリ上げた。


 坂口はミラを見た。


「次から、精度を上げてもらえますか」


「善処します」


「善処、ですか」


「おおむね」


 坂口は天井を見上げた。


 メモ帳を開いて、今日の最後の一行を書いた。


 *才能は、届けなければ存在しないのと同じだ。しかし届けるためには、届く順番がある。*


 ボールペンを置いて、坂口は椅子に深く座り直した。


 窓の外の、霞んだ景色を見た。


 四件目のクライアントを終えて、少しずつ分かってきたことがある。


 この仕事は、転職させることじゃない。その人間が、自分の持っているものに気づいて、それが届く方向に向けてやることだ。


 レオンは、自分の中にあるものが見えてきた。グラークは、それを話せる場所を見つけ始めた。シルフィは、自分のペースで届けることを練習し始めた。ヴェルダは、届けること自体を諦めるのをやめた。


 全員、まだ途中だ。


 でも、向き始めた。


 それで十分だ、と坂口は思った。

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