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今日どうだった、と聞いてくれる人  作者: ジェミラン
第四章「誰も見に来ない美術館」

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7/10

前半

 月曜日の朝、デスクの上に予約票がなかった。


 代わりに、ミラが受付カウンターの前に立っていた。タブレットを持って、坂口を待っているような顔をしていた。


「おはようございます」


「おはようございます」坂口はコーヒーを机に置いた。「今日は予約票がないですね」


「今日は訪問案件です」


「訪問」


「はい。今回のクライアントは、こちらに来ることができません」


「なんで来れないんですか」


「サイズの問題です」


 坂口は少し考えた。


「グラーク様より大きいんですか」


「比較になりません」


 ミラはタブレットを操作して、一枚のカードを坂口に渡した。


 名刺サイズの、薄い白いカードだ。表面にはひと言だけ書かれていた。


*ヴェルダ=オルドリン。東の山脈、第七峰。*


「これを握って、目を閉じると、現地に転送されます」


「転送」


「はい」


「精度はどのくらいですか」


 ミラはわずかに間を置いた。


「おおむね問題ありません」


「おおむね、というのが気になりますね」


「ご心配なく」


 三回目の「ご心配なく」だった。この言葉を言うとき、ミラは毎回少し早口になる。それに気づいていたけど、今日は指摘しないことにした。


「レオンさんは」


「今日は転送案件のため、同行できません。現地集合も、グリフィンが近づけない地形なので難しいと」


「一人ですか」


「はい」


 坂口はカードを眺めた。


 ヴェルダ=オルドリン。確か、古龍だとミラから聞いていた。全長二十メートルを超える、推定八百年の古龍。洞窟に住んでいて、近づく者を恐怖で追い払う存在。


 グラークのとき、足がすくんだ。


 今回は、それ以上かもしれない。


「ミラさん、俺に選択肢はありますか」


「それは坂口さんが決めることです」


 四回目だった。


 坂口はコーヒーを飲み干して、カードを握った。


---


 目を閉じた。


 三秒ほど、何も起きなかった。


 次の瞬間、足元の感触が変わった。フローリングから、岩の固い感触になった。


 空気が変わった。オフィスの空調の匂いじゃなくて、冷たくて湿った、岩と土の匂いだ。


 暗い。


 坂口はゆっくりと目を開けた。


 周囲は岩壁だった。天井も岩で、高い。どこかから光が差し込んでいるが、その光源が見えない。洞窟の中にいることは分かった。


 入口は、どこだ。


 きょろきょろしながら、坂口は周囲を確認した。


 そして気づいた。


 壁が、おかしい。


 岩の壁に、絵が描かれていた。


 目の前の壁一面に、びっしりと。動物、人間、空、海、山、木、星。すべてが細い線で描かれていて、細部まで丁寧に仕上げられている。写実的なのに、どこか哀愁が漂う。


 坂口は壁に近づいた。


 見れば見るほど、すごかった。


 一頭の馬が描かれていた。躍動感があって、鬣の一本一本まで描かれていた。その隣に、小さな村の風景。村人の表情まで、ちゃんとある。その奥に、嵐の海。波の形が、本物みたいだ。


 いつから描いているんだろう、とぼんやり思った。


 八百年、ここにいたなら。


「……なぜ、逃げない」


 声が来た。


 低い、地鳴りのような声だった。


 坂口は声のした方向に、ゆっくり振り返った。


 暗がりの中に、二つの光があった。


 琥珀色の、大きな光だ。


 目だ、と気づいた瞬間、全身の毛が逆立った。


 暗がりから、巨大な頭が現れた。深緑と金が混じった鱗が、薄い光を受けてかすかに輝いている。鼻先だけで、坂口の全身より大きい。


 足が、動かなかった。


 逃げようとしたわけじゃない。ただ、動けなかった。


「なぜ、逃げない」


 もう一度、声が来た。


 同じ言葉だった。不思議そうな声だった。怒っているわけじゃない。ただ、純粋に分からないという声だった。


「……足が動かないんです」


 坂口は正直に答えた。


 しばらく沈黙があった。


「正直な人間だな」


「嘘をつく余裕がないです」


 また沈黙があった。


 今度は少し、質が違う沈黙だった。


「ここは、洞窟の奥だ。入口は、三百メートルほど後ろになる」


「転送の精度が、おおむねだったので」


「おおむね」


「俺もそう聞きました」


 ヴェルダは少し動いた。巨大な体が動くたびに、空気が揺れる。


「入口付近に出るはずだったのか」


「そうらしいです。すみません、突然洞窟の中に来てしまって」


「謝ることではない」


 坂口は少しずつ、呼吸を整えていた。


 逃げない、というより、逃げられない状況が続いているうちに、少しだけ慣れてきた。巨大な目が、じっと坂口を見ている。恐ろしいのは恐ろしいが、その目に悪意がないのは分かった。


「……お前が、転職エージェントか」


「そうです。坂口誠といいます。今日は、お話を聞きに来ました」


「転職したいわけではないが」


「それでも構いません。まず話を聞かせてもらえますか」


 ヴェルダはしばらく、坂口を見ていた。


 八百年生きてきた目で、坂口を値踏みしているような視線だった。


「……この絵を、見ていたな」


「見ていました」


「どう思った」


 坂口は壁を改めて見た。


 馬の絵、村の風景、嵐の海。どれも、ため息が出るほど丁寧に描かれている。


「すごいと思いました」


 ヴェルダは動かなかった。


「本当に、そう思うか」


「思います」


「……本当に」


 三回目だった。


 確認している、というより、信じ切れないような聞き方だった。


「本当に思います」坂口は壁に近づいた。「この馬、鬣の一本一本まで描いてあって。この波の形も、本物みたいで。誰が描いたんですか」


 ヴェルダは少し間を置いた。


「……我だ」


「あなたが描いたんですか」


「そうだ」


 坂口はもう一度、壁を見た。


 全長二十メートルを超える龍が、この緻密な絵を描いた。


「どうやって描くんですか。体が大きくて、細かい作業が難しそうで」


「前足の爪を使う。細かい作業のために、短く削っている」


 ヴェルダが前足を少し動かした。


 岩のように分厚い爪だったが、先端だけが薄く、滑らかに整えられていた。長年、壁に当て続けて削れたような跡がある。


「八百年間、ずっと描いてきたんですか」


「ずっと、ではない。描き始めたのは、三百年ほど前だ」


「きっかけは」


 ヴェルダは少し黙った。


「暇だった」


 坂口は少し笑いそうになった。こらえた。


「暇だったんですか」


「この山に来てから、誰も近づかなくなった。人間も、他の魔物も。静かすぎて、何かしないといけないと思った。それで、壁に描き始めた」


「最初から、こんなに上手かったんですか」


「最初は、ひどいものだった」


 ヴェルダが体を動かして、洞窟の奥の方を示した。


「奥の壁に、最初の頃の絵がある」


 坂口は暗がりの奥を見た。かすかに、線のようなものが見える。


「見てもいいですか」


「……好きにしろ」


---


 奥の壁の絵は、確かに全然違った。


 線が太くて、形が歪んでいた。馬らしきものが描かれているが、足の数が合っていない。人間らしきものは、頭が体より大きい。


 それでも、描こうとしていたものは分かった。


「これは、馬ですか」


「そうだ。最初に描いたものだ」


「足が六本ありますね」


「気づいたのは、描き終わってからだった」


「でも、描こうとしていたのは分かります」


 ヴェルダはしばらく黙った。


「三百年で、あそこまで上手くなったんですか」


「時間だけはあった」


「時間だけじゃないと思いますよ」


 坂口は入口付近の壁を見た。さっき見ていた、嵐の海の絵だ。


「三百年間、誰にも見せずに描き続けた」


「誰も来なかった。来ても、逃げた」


 ヴェルダの声に、何かが混じった。


 感情の色が、かすかに変わった。


 坂口はその変化を感じながら、次の言葉を選んだ。


「誰かに見てほしかったですか」


 ヴェルダはすぐに答えなかった。


 長い沈黙だった。洞窟の中で、二人分の呼吸だけが聞こえた。


「……見てほしくなかったと言えば、嘘になる」


 その言葉が、洞窟の壁に静かに染み込んだ。

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