前半
月曜日の朝、デスクの上に予約票がなかった。
代わりに、ミラが受付カウンターの前に立っていた。タブレットを持って、坂口を待っているような顔をしていた。
「おはようございます」
「おはようございます」坂口はコーヒーを机に置いた。「今日は予約票がないですね」
「今日は訪問案件です」
「訪問」
「はい。今回のクライアントは、こちらに来ることができません」
「なんで来れないんですか」
「サイズの問題です」
坂口は少し考えた。
「グラーク様より大きいんですか」
「比較になりません」
ミラはタブレットを操作して、一枚のカードを坂口に渡した。
名刺サイズの、薄い白いカードだ。表面にはひと言だけ書かれていた。
*ヴェルダ=オルドリン。東の山脈、第七峰。*
「これを握って、目を閉じると、現地に転送されます」
「転送」
「はい」
「精度はどのくらいですか」
ミラはわずかに間を置いた。
「おおむね問題ありません」
「おおむね、というのが気になりますね」
「ご心配なく」
三回目の「ご心配なく」だった。この言葉を言うとき、ミラは毎回少し早口になる。それに気づいていたけど、今日は指摘しないことにした。
「レオンさんは」
「今日は転送案件のため、同行できません。現地集合も、グリフィンが近づけない地形なので難しいと」
「一人ですか」
「はい」
坂口はカードを眺めた。
ヴェルダ=オルドリン。確か、古龍だとミラから聞いていた。全長二十メートルを超える、推定八百年の古龍。洞窟に住んでいて、近づく者を恐怖で追い払う存在。
グラークのとき、足がすくんだ。
今回は、それ以上かもしれない。
「ミラさん、俺に選択肢はありますか」
「それは坂口さんが決めることです」
四回目だった。
坂口はコーヒーを飲み干して、カードを握った。
---
目を閉じた。
三秒ほど、何も起きなかった。
次の瞬間、足元の感触が変わった。フローリングから、岩の固い感触になった。
空気が変わった。オフィスの空調の匂いじゃなくて、冷たくて湿った、岩と土の匂いだ。
暗い。
坂口はゆっくりと目を開けた。
周囲は岩壁だった。天井も岩で、高い。どこかから光が差し込んでいるが、その光源が見えない。洞窟の中にいることは分かった。
入口は、どこだ。
きょろきょろしながら、坂口は周囲を確認した。
そして気づいた。
壁が、おかしい。
岩の壁に、絵が描かれていた。
目の前の壁一面に、びっしりと。動物、人間、空、海、山、木、星。すべてが細い線で描かれていて、細部まで丁寧に仕上げられている。写実的なのに、どこか哀愁が漂う。
坂口は壁に近づいた。
見れば見るほど、すごかった。
一頭の馬が描かれていた。躍動感があって、鬣の一本一本まで描かれていた。その隣に、小さな村の風景。村人の表情まで、ちゃんとある。その奥に、嵐の海。波の形が、本物みたいだ。
いつから描いているんだろう、とぼんやり思った。
八百年、ここにいたなら。
「……なぜ、逃げない」
声が来た。
低い、地鳴りのような声だった。
坂口は声のした方向に、ゆっくり振り返った。
暗がりの中に、二つの光があった。
琥珀色の、大きな光だ。
目だ、と気づいた瞬間、全身の毛が逆立った。
暗がりから、巨大な頭が現れた。深緑と金が混じった鱗が、薄い光を受けてかすかに輝いている。鼻先だけで、坂口の全身より大きい。
足が、動かなかった。
逃げようとしたわけじゃない。ただ、動けなかった。
「なぜ、逃げない」
もう一度、声が来た。
同じ言葉だった。不思議そうな声だった。怒っているわけじゃない。ただ、純粋に分からないという声だった。
「……足が動かないんです」
坂口は正直に答えた。
しばらく沈黙があった。
「正直な人間だな」
「嘘をつく余裕がないです」
また沈黙があった。
今度は少し、質が違う沈黙だった。
「ここは、洞窟の奥だ。入口は、三百メートルほど後ろになる」
「転送の精度が、おおむねだったので」
「おおむね」
「俺もそう聞きました」
ヴェルダは少し動いた。巨大な体が動くたびに、空気が揺れる。
「入口付近に出るはずだったのか」
「そうらしいです。すみません、突然洞窟の中に来てしまって」
「謝ることではない」
坂口は少しずつ、呼吸を整えていた。
逃げない、というより、逃げられない状況が続いているうちに、少しだけ慣れてきた。巨大な目が、じっと坂口を見ている。恐ろしいのは恐ろしいが、その目に悪意がないのは分かった。
「……お前が、転職エージェントか」
「そうです。坂口誠といいます。今日は、お話を聞きに来ました」
「転職したいわけではないが」
「それでも構いません。まず話を聞かせてもらえますか」
ヴェルダはしばらく、坂口を見ていた。
八百年生きてきた目で、坂口を値踏みしているような視線だった。
「……この絵を、見ていたな」
「見ていました」
「どう思った」
坂口は壁を改めて見た。
馬の絵、村の風景、嵐の海。どれも、ため息が出るほど丁寧に描かれている。
「すごいと思いました」
ヴェルダは動かなかった。
「本当に、そう思うか」
「思います」
「……本当に」
三回目だった。
確認している、というより、信じ切れないような聞き方だった。
「本当に思います」坂口は壁に近づいた。「この馬、鬣の一本一本まで描いてあって。この波の形も、本物みたいで。誰が描いたんですか」
ヴェルダは少し間を置いた。
「……我だ」
「あなたが描いたんですか」
「そうだ」
坂口はもう一度、壁を見た。
全長二十メートルを超える龍が、この緻密な絵を描いた。
「どうやって描くんですか。体が大きくて、細かい作業が難しそうで」
「前足の爪を使う。細かい作業のために、短く削っている」
ヴェルダが前足を少し動かした。
岩のように分厚い爪だったが、先端だけが薄く、滑らかに整えられていた。長年、壁に当て続けて削れたような跡がある。
「八百年間、ずっと描いてきたんですか」
「ずっと、ではない。描き始めたのは、三百年ほど前だ」
「きっかけは」
ヴェルダは少し黙った。
「暇だった」
坂口は少し笑いそうになった。こらえた。
「暇だったんですか」
「この山に来てから、誰も近づかなくなった。人間も、他の魔物も。静かすぎて、何かしないといけないと思った。それで、壁に描き始めた」
「最初から、こんなに上手かったんですか」
「最初は、ひどいものだった」
ヴェルダが体を動かして、洞窟の奥の方を示した。
「奥の壁に、最初の頃の絵がある」
坂口は暗がりの奥を見た。かすかに、線のようなものが見える。
「見てもいいですか」
「……好きにしろ」
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奥の壁の絵は、確かに全然違った。
線が太くて、形が歪んでいた。馬らしきものが描かれているが、足の数が合っていない。人間らしきものは、頭が体より大きい。
それでも、描こうとしていたものは分かった。
「これは、馬ですか」
「そうだ。最初に描いたものだ」
「足が六本ありますね」
「気づいたのは、描き終わってからだった」
「でも、描こうとしていたのは分かります」
ヴェルダはしばらく黙った。
「三百年で、あそこまで上手くなったんですか」
「時間だけはあった」
「時間だけじゃないと思いますよ」
坂口は入口付近の壁を見た。さっき見ていた、嵐の海の絵だ。
「三百年間、誰にも見せずに描き続けた」
「誰も来なかった。来ても、逃げた」
ヴェルダの声に、何かが混じった。
感情の色が、かすかに変わった。
坂口はその変化を感じながら、次の言葉を選んだ。
「誰かに見てほしかったですか」
ヴェルダはすぐに答えなかった。
長い沈黙だった。洞窟の中で、二人分の呼吸だけが聞こえた。
「……見てほしくなかったと言えば、嘘になる」
その言葉が、洞窟の壁に静かに染み込んだ。




