後半
「もう一回、やってみますか」
「はい」
坂口は少し間を置いた。
「東から風を吹かせてほしい」
シルフィは口を開いた。
今度は、かなり長い時間がかかった。
眉が寄って、口元が動いて、息を整えて。十秒くらい、そのままだった。
そして言った。
「……む、難しいです」
「ノーは出てきましたか」
「出てこなかったです。でも、もちろんです、も出てこなかったです」
「それは進歩ですよ」
「本当ですか」
「もちろんです、が出てこなかったということは、自動的に動いていた部分が、少し止まったということです。そこに、考える余地ができた」
シルフィはその言葉を、ゆっくり受け取っていた。
「考える余地、ですか」
「ノーと言うのは、技術です。生まれつき得意な人間なんていない。練習して、少しずつできるようになっていくものです」
「そんなものですか」
「そんなものですよ。人間でも、断れない人間はたくさんいます。みんな苦労しながら、少しずつ覚えていきます」
シルフィは少し考えてから、言った。
「坂口さんは、断れますか」
「……まあ、それなりには」
「最初から、できましたか」
「全然できなかったですよ」坂口は苦笑いした。「若い頃は頼まれたら全部引き受けて、抱えすぎて、毎晩終電で帰って、それでも終わらなくて。三十代の半ばくらいに、このままじゃ続かないと思って、意識して断るようにしました」
「どうやって断ったんですか」
「最初は、物理的に無理なときだけ断るようにしました。今日は他の予定があって、時間的に無理です、という断り方なら言いやすかったので。それに慣れたら、少しずつ、気持ちの問題でも断れるようになってきました」
シルフィはその話を、静かに聞いていた。
「人間も、大変なんですね」
「大変ですよ。種族は違っても、たぶん、その辺の苦労は似たようなものだと思います」
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少し間があってから、シルフィが口を開いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「精霊が休む、というのは、具体的にどういうことですか」
坂口は少し考えた。
「何もしない時間を作ることです。願いが来ても、今日は対応しない、という時間」
「願いが来ても、対応しない」
「はい」
「それは、どうやって」
「人間界では、あらかじめ休む日を決めておきます。今日は休みます、という日を、先に決める。そうすると、その日に来た依頼は別の日に回せます」
「でも、精霊に休みの概念はなくて」
「だから、作ればいいんです」
シルフィは少し目を丸くした。
「作れるんですか」
「ルールは、変えられます。今までなかったから、これからも作れない、ということにはならないです」
シルフィはしばらく、その言葉を眺めているようだった。
受け取ることができているのか、できていないのか、判断が難しい表情だった。
「ただ」と坂口は続けた。「一人で決めても、周りが対応してくれないと難しいですよね。シルフィさんの周りに、相談できる精霊はいますか」
「仲間は、います。でも」
「でも」
「みんな同じくらい疲れていて。私が休むと言ったら、その分が仲間に行ってしまって」
「それは、仲間全員の問題でもある、ということですよね」
「……そうなりますね」
「シルフィさんだけの問題じゃない。精霊全体の、働き方の問題だ」
坂口はメモ帳に書いた。
*個人の問題ではなく、制度の問題。一人だけ休んでも解決しない。仕組みを変える必要がある。*
書きながら、頭の中で人間界の事例と照らし合わせていた。
これは、個人のキャリア相談というより、組織改革の話に近い。一人のエージェントが解決できる範囲を超え始めている気がする。ただ、今日できることをやる。それだけだ。
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「シルフィさん、一つだけ、今日から試してみてほしいことがあります」
「はい」
「願いが来たとき、すぐに応えないで、三秒だけ間を置いてみてください」
「三秒」
「はい。三秒で全部が変わるわけじゃないです。でも、自動的に動いていた部分に、少し隙間ができます。その隙間が、考える余地になります」
シルフィはしばらく、その言葉を反芻していた。
「三秒、ですか」
「やってみますか、今」
「……はい」
「南から風を吹かせてほしい」
シルフィは、一、二、三、と数えるように間を置いた。
そして言った。
「……もちろん——」
また出てきた。
シルフィはがくりと肩を落とした。
「出てきました」
「でも、三秒ありましたよ」
「意味ありましたか、三秒」
「ありました。三秒前は、ゼロ秒で出てきてたじゃないですか」
シルフィは少し考えてから、確かに、という顔をした。
「……三秒、考えました」
「何を考えましたか」
「断ろう、と思いました。思ったんですけど、体が先に動いてしまいました」
「それで十分です」
「十分ですか、これで」
「断ろうと思えた、ということは、可能性があるということです。あとは体が追いついてくるのを待つだけです」
シルフィはまた、口元を少し緩めた。
坂口に会ってから、二度目の表情だった。
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面談の終わりに、坂口はいつもの質問をした。
「今日、来てみてどうでしたか」
シルフィは少し考えてから、答えた。
「怒られると思っていました」
「怒られる、というのは」
「疲れたとか、限界だとか、そういうことを言うと、もっと頑張れと言われると思っていました。精霊なんだから、と」
「誰かに、そう言われたことがあるんですか」
「……昔、仲間に言ったことがあって。そのときに、みんな疲れてるんだから、と返されて。それから、言えなくなりました」
坂口は頷いた。
「ここでは、そういうことは言いません」
「はい。それは、分かりました」
「それ以外は、どうでしたか」
シルフィはしばらく考えた。
「休んでもいい、と言ってもらったのが、一番うれしかったです」
「うれしかった」
「はい。誰かにそう言ってもらったのは、初めてだったので」
坂口はメモ帳に書いた。
*「休んでいい」という許可を、一度も与えられたことがなかった。許可を与えられる環境を作ることが、最初の処方箋。*
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シルフィが帰った後、坂口は面談室で少しの間、ぼんやりしていた。
レオンのケースは、自己理解の問題だった。
グラークのケースは、孤独の問題だった。
シルフィのケースは、制度の問題だ。
三件やってみて、共通点が一つある、と坂口は思った。
全員、自分の問題を、自分一人の問題だと思っていた。レオンは「向いていない自分」の問題だと思っていた。グラークは「弱くなった自分」の問題だと思っていた。シルフィは「頑張れない自分」の問題だと思っていた。
でも実際には、全員、構造の問題だった。
生まれついた職業という制度、魔王は孤独であるべきという不文律、精霊は休まないという前提。個人の問題じゃなくて、その人間が置かれた環境の問題だった。
それは、人間界でも同じだな、と坂口は思った。
転職相談に来る人間のほとんどが、「自分がダメだから」と思っている。でも話を聞いていくと、環境の問題であることが多い。本人の能力や性格の問題じゃなくて、その人間が置かれた場所の問題だ。
場所が変われば、別人のように輝く人間を、二十年間でたくさん見てきた。
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廊下に出ると、レオンが壁にもたれて立っていた。
次の訪問案件が午後にあって、その準備で来ていたらしい。
「お疲れ様です。今日のクライアント、大丈夫でしたか」
「大丈夫でした。精霊の方でした」
「シルフィさんですね。知ってます。よく旅の途中で風を吹かせてもらってました」
「どんな方だと思っていましたか」
「いつも穏やかで、どんな願いにも応えてくれて。なんか、すごい人だなと思ってました」
「そのすごい人が、ぼろぼろでした」
レオンは少し驚いた顔をした。
「そうだったんですか」
「休みなしで、生まれたときからずっと。断り方も知らなかった」
「……知らなかったんですね」
「知らなかったです。知ることができる環境じゃなかったんだと思います」
レオンはしばらく、その話を受け取っていた。
「なんか、僕と似てる気がします」
「似てますか」
「断れないというか……周りに気を遣って、本音を言えなくなるところ」
坂口はレオンを見た。
「よく気づきましたね」
「自分のことだったから、気づきやすかったのかもしれないです」
自分のことだったから、気づきやすかった。
それは、なかなか大事な言葉だ、と坂口は思った。
自分の問題と向き合うことで、他人の問題が見えるようになる。それは人間も、異世界人も、変わらない。
「レオンさん、だいぶ変わりましたね」
「そうですか」
「最初に来たとき、自分の話をするのが怖そうでした」
「今も、怖いですよ」レオンは少し笑った。「ただ、怖くても言っていいんだ、というのが、少し分かってきた気がします」
「それで十分です」
坂口はそう言いながら、歩き出した。
午後の訪問案件の準備がある。
異世界の働き方改革は、まだ始まったばかりだ。




