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今日どうだった、と聞いてくれる人  作者: ジェミラン
第三章「燃え尽きた精霊」

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5/10

前半

 木曜日の朝、予約票を見た坂口は少し首を傾げた。


*相談内容:風を吹かせることに、疲れた*

*氏名:シルフィ・エア*

*時刻:午前十一時*


 風を吹かせることに、疲れた。


 意味は分かる。分かるけど、なんとも言えない気持ちになる文章だった。


「ミラさん、シルフィさんって、どんな方ですか」


 受付に向かって聞いた。


「風の精霊です」


「精霊というのは、どういう仕事をしているんですか」


「人間や異世界の住人が願いを込めて風を呼ぶと、その願いを叶える形で風を吹かせます。作物を育てる風、旅人を導く風、嵐を鎮める風。様々です」


「ずっとそれをやってるんですか」


「生まれたときから、そう定められています」


「休みは」


「ありません」


 坂口はコーヒーを一口飲んだ。


「……それは、疲れますね」


「でしょうね」


 ミラは右の口角を一ミリ上げて、タブレットの操作に戻った。


---


 午前十一時ちょうどに、面談室のドアがそっと開いた。


 今までのクライアントと、入り方が違った。


 レオンはノックなしに入ってきた。グラークはノックをしてから堂々と入ってきた。シルフィは、ドアを少しだけ開けて、中を確認してから、おそるおそる入ってきた。


 坂口は立ち上がった。


「いらっしゃいませ。坂口といいます」


 入ってきた女性を見て、坂口は一瞬、言葉を探した。


 白銀の髪が、肩のあたりでふわりと浮いていた。重力に従っていない。服は白を基調とした薄い布地で、動くたびに揺れる。目は薄い水色で、光の当たり方によって色が変わりそうだった。


 ただ。


 髪が、垂れていた。


 肩のあたりで浮いているのではなく、普通の人間の髪のように、重力に従って下がっていた。


 それから、目の下にクマがあった。


 精霊にクマができるとは思っていなかったので、坂口は一瞬、そこから目が離せなかった。


「シルフィ・エアさんですか」


「はい。あの……突然すみません。予約はしたんですけど、こういうところに来たのが初めてで」


「大丈夫ですよ。どうぞ、座ってください」


 シルフィは椅子に近づき、ゆっくりと座った。


 座った瞬間、小さく息を吐いた。疲れ切った人間が椅子に座ったときのような、あの音だった。


---


「今日は、どんなご相談ですか」


 坂口は聞いた。


 シルフィはしばらく膝の上の手を見ていた。


「疲れた、というか……うまく言えないんですけど」


「うまく言えないところから、話してもらえますか」


「はい」


 シルフィは少し間を置いた。


「最近、風を吹かせることが、できなくなってきていて」


「できない、というのは、体が動かないということですか」


「動くんです。やろうと思えば、できる。でも……やる前から、ものすごく重くて。朝起きると、今日も願いが来るんだと思って、それだけで疲れてしまって」


「毎日、どのくらいの数の願いに応えているんですか」


 シルフィは少し考えた。


「日によって違うんですけど、少ない日で二十件くらい。多い日は、百件を超えることもあります」


「百件」


「農作物の季節とか、嵐の時期とか、特に多くて」


「それを、毎日」


「生まれたときから、ずっと」


 坂口はメモ帳に数字を書いた。


 二十から百件、毎日、休みなし、生まれたときから。


 これを人間界の労働に換算したら、完全にアウトだ。労働基準法どころか、人間としての基本的な生存権の問題になる。


「シルフィさん、最後に休んだのはいつですか」


 シルフィは首を傾げた。


「休む、というのは」


「何もしない時間です。願いに応えない時間」


「……それは、していいんですか」


 坂口の手が、止まった。


「していいかどうか、ということですか」


「精霊は、願いを叶えるために存在していますから。休むということは、その役割を放棄することになって」


「放棄じゃないですよ」


 坂口はメモ帳を置いた。


「休むことは、放棄じゃないです」


 シルフィは坂口を見た。


 少し驚いたような目をしていた。


「そう……なんですか」


「人間界でも、昔は休むことを悪いことだと思っている人間がたくさんいました。今でもそういう人はいます。でも休まずに動き続けると、体が壊れます。精霊も、同じじゃないですか」


「でも、壊れても動かなければいけないと思っていました」


「なぜですか」


「壊れても動けるうちは、動くべきだと思っていたので」


 坂口は少し黙った。


 壊れても動けるうちは、動くべき。


 この考え方、人間界にもある。よく聞く言葉だ。そしてその考え方が、一番危険だということも、二十年間でよく見てきた。


「シルフィさん、今の自分の状態を、どう思いますか」


「……よく分からないです。疲れているのは分かるんですけど、これが普通なのか、普通じゃないのかが」


「普通じゃないです」


 坂口はきっぱり言った。


「目の下にクマができていて、朝起きるだけで疲れて、やる前から重い。それは普通じゃないです」


「でも、みんなそうじゃないですか」


「みんな、というのは」


「精霊仲間も、みんな疲れているみたいで。疲れているのが普通だと思っていました」


「みんなが疲れているなら、全員が限界に近いということです。それは普通の状態じゃないですよ」


 シルフィはしばらく、坂口の顔を見ていた。


 何か言おうとして、止まった。


 また言おうとして、また止まった。


 坂口は待った。


「……誰かにそう言ってもらったのは、初めてです」


 シルフィの声が、少しだけ揺れた。


---


「少し聞いてもいいですか」


「はい」


「願いを叶えることが嫌いですか」


 シルフィは少し考えた。


「嫌い、ではないと思います。叶えた後に、喜んでもらえると、うれしい気持ちはあります」


「でも、今は重い」


「はい。嫌いじゃないのに、重い。だから余計に、自分がおかしいのかと思って」


「おかしくないですよ」


 坂口は続けた。


「好きな仕事でも、やりすぎれば重くなります。むしろ好きだから、断れなくて、やりすぎてしまうことが多い。シルフィさんも、そのパターンだと思います」


「断れない、というのは」


「願いが来たとき、断ったことはありますか」


 シルフィは目を丸くした。


「断って……いいんですか」


「いいです。絶対に」


「でも、断ったら、相手が困って」


「困ります。でも、シルフィさんが壊れたら、もっと多くの相手が困ります。長く続けるために、断ることが必要なんです」


 シルフィはしばらく、その言葉を受け取っていた。


「断り方が、分からないです」


「練習できますよ」


「練習」


「今ここで、やってみますか」


 シルフィは少し躊躇してから、頷いた。


「じゃあ、俺が願いを言います。シルフィさんは、ノーと言ってみてください」


「は、はい」


 坂口は少し間を置いてから、言った。


「南から風を吹かせてほしい」


 シルフィは口を開いた。


 息を吸った。


 そして言った。


「もちろんです」


 一瞬の間もなく、出てきた。


 シルフィは自分で気づいて、手で口を覆った。


「……また言ってしまいました」


「大丈夫です。もう一回やりましょう」


「はい」


「北から風を吹かせてほしい」


 シルフィはまた口を開いた。


 今度は少し、時間をかけた。


 眉が寄った。唇が動いた。


 そして言った。


「お任せく——」


 途中で止まった。


「……お任せく、で止まりました」


「進歩です」


「進歩ですか、これ」


「大きな進歩ですよ」


 坂口は真顔で言った。


 シルフィは少し困ったような顔をしながら、でも口元がわずかに緩んだ。


 今日、初めて見せた表情だった。

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