前半
木曜日の朝、予約票を見た坂口は少し首を傾げた。
*相談内容:風を吹かせることに、疲れた*
*氏名:シルフィ・エア*
*時刻:午前十一時*
風を吹かせることに、疲れた。
意味は分かる。分かるけど、なんとも言えない気持ちになる文章だった。
「ミラさん、シルフィさんって、どんな方ですか」
受付に向かって聞いた。
「風の精霊です」
「精霊というのは、どういう仕事をしているんですか」
「人間や異世界の住人が願いを込めて風を呼ぶと、その願いを叶える形で風を吹かせます。作物を育てる風、旅人を導く風、嵐を鎮める風。様々です」
「ずっとそれをやってるんですか」
「生まれたときから、そう定められています」
「休みは」
「ありません」
坂口はコーヒーを一口飲んだ。
「……それは、疲れますね」
「でしょうね」
ミラは右の口角を一ミリ上げて、タブレットの操作に戻った。
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午前十一時ちょうどに、面談室のドアがそっと開いた。
今までのクライアントと、入り方が違った。
レオンはノックなしに入ってきた。グラークはノックをしてから堂々と入ってきた。シルフィは、ドアを少しだけ開けて、中を確認してから、おそるおそる入ってきた。
坂口は立ち上がった。
「いらっしゃいませ。坂口といいます」
入ってきた女性を見て、坂口は一瞬、言葉を探した。
白銀の髪が、肩のあたりでふわりと浮いていた。重力に従っていない。服は白を基調とした薄い布地で、動くたびに揺れる。目は薄い水色で、光の当たり方によって色が変わりそうだった。
ただ。
髪が、垂れていた。
肩のあたりで浮いているのではなく、普通の人間の髪のように、重力に従って下がっていた。
それから、目の下にクマがあった。
精霊にクマができるとは思っていなかったので、坂口は一瞬、そこから目が離せなかった。
「シルフィ・エアさんですか」
「はい。あの……突然すみません。予約はしたんですけど、こういうところに来たのが初めてで」
「大丈夫ですよ。どうぞ、座ってください」
シルフィは椅子に近づき、ゆっくりと座った。
座った瞬間、小さく息を吐いた。疲れ切った人間が椅子に座ったときのような、あの音だった。
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「今日は、どんなご相談ですか」
坂口は聞いた。
シルフィはしばらく膝の上の手を見ていた。
「疲れた、というか……うまく言えないんですけど」
「うまく言えないところから、話してもらえますか」
「はい」
シルフィは少し間を置いた。
「最近、風を吹かせることが、できなくなってきていて」
「できない、というのは、体が動かないということですか」
「動くんです。やろうと思えば、できる。でも……やる前から、ものすごく重くて。朝起きると、今日も願いが来るんだと思って、それだけで疲れてしまって」
「毎日、どのくらいの数の願いに応えているんですか」
シルフィは少し考えた。
「日によって違うんですけど、少ない日で二十件くらい。多い日は、百件を超えることもあります」
「百件」
「農作物の季節とか、嵐の時期とか、特に多くて」
「それを、毎日」
「生まれたときから、ずっと」
坂口はメモ帳に数字を書いた。
二十から百件、毎日、休みなし、生まれたときから。
これを人間界の労働に換算したら、完全にアウトだ。労働基準法どころか、人間としての基本的な生存権の問題になる。
「シルフィさん、最後に休んだのはいつですか」
シルフィは首を傾げた。
「休む、というのは」
「何もしない時間です。願いに応えない時間」
「……それは、していいんですか」
坂口の手が、止まった。
「していいかどうか、ということですか」
「精霊は、願いを叶えるために存在していますから。休むということは、その役割を放棄することになって」
「放棄じゃないですよ」
坂口はメモ帳を置いた。
「休むことは、放棄じゃないです」
シルフィは坂口を見た。
少し驚いたような目をしていた。
「そう……なんですか」
「人間界でも、昔は休むことを悪いことだと思っている人間がたくさんいました。今でもそういう人はいます。でも休まずに動き続けると、体が壊れます。精霊も、同じじゃないですか」
「でも、壊れても動かなければいけないと思っていました」
「なぜですか」
「壊れても動けるうちは、動くべきだと思っていたので」
坂口は少し黙った。
壊れても動けるうちは、動くべき。
この考え方、人間界にもある。よく聞く言葉だ。そしてその考え方が、一番危険だということも、二十年間でよく見てきた。
「シルフィさん、今の自分の状態を、どう思いますか」
「……よく分からないです。疲れているのは分かるんですけど、これが普通なのか、普通じゃないのかが」
「普通じゃないです」
坂口はきっぱり言った。
「目の下にクマができていて、朝起きるだけで疲れて、やる前から重い。それは普通じゃないです」
「でも、みんなそうじゃないですか」
「みんな、というのは」
「精霊仲間も、みんな疲れているみたいで。疲れているのが普通だと思っていました」
「みんなが疲れているなら、全員が限界に近いということです。それは普通の状態じゃないですよ」
シルフィはしばらく、坂口の顔を見ていた。
何か言おうとして、止まった。
また言おうとして、また止まった。
坂口は待った。
「……誰かにそう言ってもらったのは、初めてです」
シルフィの声が、少しだけ揺れた。
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「少し聞いてもいいですか」
「はい」
「願いを叶えることが嫌いですか」
シルフィは少し考えた。
「嫌い、ではないと思います。叶えた後に、喜んでもらえると、うれしい気持ちはあります」
「でも、今は重い」
「はい。嫌いじゃないのに、重い。だから余計に、自分がおかしいのかと思って」
「おかしくないですよ」
坂口は続けた。
「好きな仕事でも、やりすぎれば重くなります。むしろ好きだから、断れなくて、やりすぎてしまうことが多い。シルフィさんも、そのパターンだと思います」
「断れない、というのは」
「願いが来たとき、断ったことはありますか」
シルフィは目を丸くした。
「断って……いいんですか」
「いいです。絶対に」
「でも、断ったら、相手が困って」
「困ります。でも、シルフィさんが壊れたら、もっと多くの相手が困ります。長く続けるために、断ることが必要なんです」
シルフィはしばらく、その言葉を受け取っていた。
「断り方が、分からないです」
「練習できますよ」
「練習」
「今ここで、やってみますか」
シルフィは少し躊躇してから、頷いた。
「じゃあ、俺が願いを言います。シルフィさんは、ノーと言ってみてください」
「は、はい」
坂口は少し間を置いてから、言った。
「南から風を吹かせてほしい」
シルフィは口を開いた。
息を吸った。
そして言った。
「もちろんです」
一瞬の間もなく、出てきた。
シルフィは自分で気づいて、手で口を覆った。
「……また言ってしまいました」
「大丈夫です。もう一回やりましょう」
「はい」
「北から風を吹かせてほしい」
シルフィはまた口を開いた。
今度は少し、時間をかけた。
眉が寄った。唇が動いた。
そして言った。
「お任せく——」
途中で止まった。
「……お任せく、で止まりました」
「進歩です」
「進歩ですか、これ」
「大きな進歩ですよ」
坂口は真顔で言った。
シルフィは少し困ったような顔をしながら、でも口元がわずかに緩んだ。
今日、初めて見せた表情だった。




