後半
坂口はしばらく、グラークを見ていた。
六百年生きてきた魔王が、面談室の椅子に座って「疲れた」と言った。その光景が、妙にリアルで、妙に切なかった。
転職エージェントとして二十年間、いろんな人間の「疲れた」を聞いてきた。でもこれは、スケールが違いすぎる。
ただ、根っこは同じだ、とも思った。
年齢が六百歳でも、六十歳でも、「誰にも本音を言えない」という疲労感は、同じ形をしている。
「グラーク様」
「なんだ」
「少し、聞いてもいいですか。転職の話じゃなくて」
グラークはわずかに目を細めた。
「転職の話じゃないのに、ここに来た意味があるのか」
「あると思います」
坂口はボールペンをテーブルに置いた。手ぶらにした。
「百年前から、じわじわと限界だと感じてきた、とおっしゃいましたよね。その頃、何かあったんですか」
グラークはすぐには答えなかった。
長い沈黙だった。
坂口は急かさなかった。百年分の話を引っ張り出すには、それくらいの時間が要る。
「……仲間の最後の一人が、死んだ」
「仲間というのは」
「若い頃、共に戦った者だ。魔族の中でもひときわ強くて、よく笑う奴だった。わしより二百年ほど年下で、それでも三百年以上生きた。死ぬ前日まで、元気だった」
「その方と、どんな関係でしたか」
「……対等に話せる、唯一の相手だった」
グラークの声が、少し低くなった。
「あいつだけは、わしに気を遣わなかった。魔王だからといって遠慮もしないし、恐れもしなかった。飯を食いながら、今日の訓練はどうだったとか、あの部下はなぜああも要領が悪いのかとか、そういう話を、何百年もしてきた」
「その人が亡くなって、百年経った」
「ああ」
「百年間、そういう話を、誰かとしましたか」
「……しておらん」
坂口は頷いた。
百年間、誰にも言えなかった。その重さが、じわじわと「限界」になってきた。構造としては、シンプルだった。シンプルだからこそ、解決策もシンプルかもしれない。
ただ、今日それを言うのは早い。
今日は、聞く日だ。
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「魔王の仕事で、好きな部分はありますか」
グラークは少し意外そうな顔をした。
「好きな部分」
「はい。六百年やってきたわけですから、全部が嫌いではないと思って」
グラークはしばらく考えた。
「部下が育つのを見ることは、悪くない」
「具体的には」
「入ってきたばかりの若い魔族が、最初はひどいものでも、訓練を重ねるうちに一人前になっていく。その過程を見ることは、まあ……悪くない」
「悪くない、というのは、好きということですか」
「……そうかもしれん」
グラークは少し居心地悪そうにした。「好き」という言葉を使うことに、慣れていないらしかった。
「他には」
「決断を下すことは、得意だ」
「得意と好きは、違いますか」
「……違う、と思う。得意だから、やってきた。好きかどうかは、考えたことがなかった」
「今考えると、どうですか」
グラークはまた黙った。
今日の面談、沈黙の密度がすごく高い、と坂口は思った。でもそれが正しいと思った。六百年分を一時間で話せるわけがない。
「……決断そのものは、好きではないかもしれん」
グラークはゆっくり言った。
「決断した後に、うまくいったとき。部下が動いて、作戦が当たって、みんなが喜ぶとき。そのときは、悪くない気持ちになる」
「それは、好きということですよね」
「……そうかもしれんな」
グラークはそう言いながら、甲冑の胸のあたりに手を当てた。
無意識の動作に見えた。
坂口はその手元を見た。
甲冑の内側に、何か入っているのかもしれない。以前、ミラが「手紙を持ち歩いている」と言っていたのを思い出した。
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「一つ、確認させてください」
「なんだ」
「グラーク様は今日、転職したいと思って来たわけじゃない、とおっしゃいましたよね」
「そう言った」
「では、何のために来たと思いますか」
グラークは坂口を見た。
赤い目が、まっすぐ坂口を捉えていた。
「……わしが、それを分かっていれば、苦労しない」
「そうですよね、すみません。変な聞き方でした」
坂口は少し考えてから、言い直した。
「今日、ここに来てみて、どうですか」
「どう、とは」
「来てよかったですか」
グラークはしばらく、坂口の顔を見ていた。
何かを値踏みしているような目だった。信用していいのか確認しているような。
「……悪くない」
「どういう意味で悪くない、ですか」
「お前が、わしを怖がっていないから」
坂口は少し考えた。
「怖がってないわけじゃないですよ。最初は足がすくみましたし」
「今は」
「今は……まあ、慣れてきました。グラーク様が観葉植物を心配するタイプだと分かってから」
グラークは少し黙った。
それから、低い声で言った。
「……植物は、正直だからな」
「正直?」
「手をかければ応える。かけなければ枯れる。文句を言わないが、嘘もつかない」
「それが好きなんですか、植物」
「嫌いではない」
また「嫌いではない」だった。
坂口はなんとなく分かってきた。グラークは「好き」という言葉を使うのが苦手なんじゃなくて、「好き」という感情を持つことに許可を出せていない気がした。
魔王だから。威厳を保たなければならないから。弱いところを見せてはいけないから。
その鎧が、甲冑より分厚い。
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「グラーク様、今日話してみて、どうでしたか」
面談の終わりに、坂口は聞いた。
毎回、面談の最後に聞くようにしていた。感想を言語化することで、本人の中で何かが整理されることがある。
「どう、とは」
「百年間、誰にも言えなかったことを、今日少し話してみた。それで、何か変わりましたか」
グラークはしばらく考えた。
「変わった、とは言えん」
「そうですか」
「ただ」
グラークは坂口を見た。
「軽くなった気は、少しした」
坂口は頷いた。
「それで十分だと思います」
「十分か」
「今日は、全部解決しなくていいです。六百年分の話を、一時間で片付けようとしたら、それはおかしい。今日は、話し始めた日です」
グラークは少し目を細めた。
「また来てもいいのか」
「もちろんです。それがこの仕事ですから」
グラークは立ち上がった。
大きな体が、立ち上がるだけで部屋の空気が変わる。
ドアの前で、振り返った。
「坂口」
「はい」
「お前、怖くないのか。本当に」
坂口は少し考えた。
「怖いですよ。ただ」
「ただ」
「怖い相手の話を聞くのが、この仕事なんで。怖いから聞かない、はできないです」
グラークはしばらく坂口を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……そうか」
ドアが閉まった。
ずん、ずん、ずん、と足音が遠ざかっていった。
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面談室に一人残った坂口は、閉じたメモ帳をしばらく見ていた。
今日、履歴書は一枚も書かせなかった。適性診断も、求人票の確認も、何もしなかった。ただ聞いただけだ。
転職エージェントとして、それでよかったのか。
少し考えてから、よかったと思った。
転職させることが仕事じゃない。その人間が、自分の本当の問題に気づくことを手伝うのが仕事だ。グラークの問題は、魔王業への不満じゃなかった。孤独だった。百年間、誰にも言えなかった「疲れた」だった。
それが少し出た。
今日は、それで十分だ。
坂口はメモ帳を開いて、最後に一行書いた。
*転職ではなく、孤独の問題。話せる場所をつくることが、最初の処方箋かもしれない。*
ボールペンを置いて、坂口は立ち上がった。
面談室の隅の観葉植物を、窓際に移した。
日が当たる場所に置いてやった。
グラークの言った通り、そっちの方がいいだろうと思って。




