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今日どうだった、と聞いてくれる人  作者: ジェミラン
第二章「六百年のキャリア」

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3/9

前半

 翌週の月曜日、デスクの上に予約票が置かれていた。


 坂口は朝のコーヒーを片手に、羊皮紙を手に取った。


*相談内容:魔王業、六百年目にして限界*

*氏名:グラーク・ヴォルモス*

*時刻:午前十時*


 魔王。


 坂口はその二文字を見て、少しの間、動かなかった。


 勇者が来たんだから、次は魔王が来ても驚かない。そう思っていたつもりだった。でも実際に予約票で見ると、やっぱり若干、心拍数が上がる。


「ミラさん」


 受付に向かって呼びかけた。


「はい」


「魔王って、どのくらいのサイズ感ですか」


「グラーク様は、二メートルを少し超えるくらいです」


「面談室、入りますか」


「入ります。ご心配なく」


「俺、食べられたりしないですよね」


 ミラは右の口角を一ミリ上げた。


「クライアントを捕食するエージェントは聞いたことがありません」


「俺が捕食される話をしてるんですが」


「ご心配なく」


 二回目の「ご心配なく」だった。これ以上聞いても同じ答えが返ってくる気がして、坂口はコーヒーを飲み干した。


---


 午前十時の二分前、廊下の方から足音が聞こえてきた。


 ずん、ずん、ずん、と、床が振動するような足音だ。普通の人間の足音じゃない。


 坂口は面談室の椅子に座り直して、ドアを見た。


 ノックが、三回あった。


 意外だった。ノックをするタイプか、と思った。


「どうぞ」


 ドアが開いた。


 入ってきた存在を見て、坂口は息を止めた。


 二メートルを超える体躯に、黒い甲冑。頭には大きな二本角。目は暗い赤で、かすかに光っている。顔の彫りは深く、六百年分の時間が刻み込まれたような風貌だ。


 声が出なかった。


 体が、動かなかった。


 原始的な本能が「逃げろ」と言っている。理性が「クライアントだ」と言っている。今は理性と本能が五分五分で、どちらも勝てていない。


 グラークは面談室に入ると、入口のあたりで立ち止まった。


 そして室内を見回してから、ある一点で目を止めた。


「この植物」


 低い声が、室内に響いた。床がかすかに振動した気がした。


「元気がないな」


 坂口はグラークの視線を追った。


 面談室の隅に置かれた観葉植物を見ていた。確かに、葉の先が少し茶色くなっている。水のやり過ぎか、日当たりが悪いのか、先週くらいから元気がなかった。


「……そうですね。なんか最近、調子悪くて」


「日が当たらないせいだ。窓際に移してやった方がいい」


「あ、ありがとうございます」


 魔王に観葉植物のアドバイスをもらっていた。


 その事実を処理するのに三秒かかってから、坂口は立ち上がった。


「坂口誠といいます。どうぞ、座ってください」


 グラークはゆっくりと椅子に近づき、座った。


 椅子が、みしりと音を立てた。


 面談室の天井が、いつの間にか高くなっていた。グラークの角が当たらないように、自動で調整されたらしい。さすがミラだ、と思った。


---


「今日は、どういったご相談でしょうか」


 坂口はボールペンを持ちながら、グラークを見た。


 正面から見ると、やっぱり迫力がある。ただ、さっきの観葉植物のくだりで少し緊張がほぐれていた。


「限界だ」


 グラークは、それだけ言った。


「もう少し、具体的に聞かせてもらえますか」


「魔王業が、限界だ」


「六百年やってきて、ということですか」


「そうだ」


 グラークはしばらく黙ってから、続けた。


「転職したいわけではない。何をしたいのかも、よく分からん。ただ、このままではいかん気がして、来た」


「なるほど」


 坂口はメモ帳を開いた。


 転職動機が曖昧なケース。これは珍しくない。むしろ、動機がはっきりしている方が少ない。「限界」という言葉の中に、何が入っているのかを丁寧に掘り下げていく必要がある。


「グラーク様、少し経歴を教えてもらえますか。魔王になったのは、いつ頃ですか」


「四百年ほど前だ。先代の魔王が引退して、わしが継いだ」


「それ以前は」


「一般の魔族だった。戦闘が得意で、部下を率いる能力があったから、先代に目をかけてもらった」


「魔王になることは、望んでいましたか」


 グラークは少し考えた。


「望んでいたと思う。若い頃は」


「今は」


「分からん」


 また、沈黙があった。


 坂口は待った。


 グラークの沈黙は、レオンのそれとは質が違った。レオンは言葉を探していた。グラークは何か、深いところにあるものを引っ張り上げようとしているような沈黙だった。


「最近、何かきっかけになるような出来事はありましたか」


「きっかけ」


「限界だと感じ始めたのは、いつ頃からですか」


「……百年ほど前から、じわじわと」


「百年」


 坂口の手が、思わず止まった。


 百年前から抱えてきたものを、今日初めて誰かに話しに来た。それがどういうことか、少し考えた。


「百年間、誰かに話しましたか、この気持ちを」


 グラークはわずかに目を細めた。


「誰に話す」


「部下とか、信頼できる相手とか」


「部下はわしを恐れている。弱音を見せれば、士気に関わる」


「同じ立場の人間は」


「魔王は一人だ」


「友人は」


 グラークは答えなかった。


 沈黙が、少し長かった。


 坂口はその沈黙の重さを感じながら、ペンを置いた。


 甲冑の胸のあたりが、わずかに動いた。呼吸を整えているのかもしれなかった。


「……友人は、もうおらん」


 声のトーンが、変わった。


 さっきまでの地を這う低音ではなく、少しだけ、重力が増した声だった。


「みんな、死んだ」


---


 坂口はしばらく、何も言わなかった。


 何か言わなきゃ、という衝動を抑えた。


 こういう場面で言葉を継ぎ足すのは、相手のためじゃなくて自分の居心地を良くするためだ。それは二十年間で学んだことの一つだった。


 グラークは続けた。


「魔族の寿命は、人間より長い。しかしわしほど長くはない。六百年生きてきて、仲間はみんないなくなった。先代の魔王も、若い頃に共に戦った者たちも、みんな」


「それは……長い時間ですね」


 気の利いたことが言えなかった。でも、気の利いたことを言おうとするのが間違いだと思った。


「部下は補充される。新しい魔族が来て、わしに仕えてくれる。悪い者たちではない。しかし」


 グラークはそこで止まった。


「しかし」と坂口は繰り返した。


「今日どうだった、と聞いてくれる者が、おらん」


 坂口はその言葉を、静かに受け取った。


 六百年生きてきた魔王が、面談室で言った言葉が、それだった。


 世界征服でも、部下の反乱でも、勇者への対策でもなかった。


 今日どうだった、と聞いてくれる者が、おらん。


「わしは魔王だから、弱音を吐けない。相談もできない。ただ、指示を出して、決断して、恐れられて。それが六百年続いた」


 グラークの赤い目が、テーブルの一点を見ていた。


「……疲れた」


 その一言が、面談室に静かに落ちた。


 坂口はメモ帳を閉じた。


 履歴書も、適性診断も、今日はいらない気がした。

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