前半
月曜日の朝、坂口誠は寝癖を直すことを諦めた。
洗面台の鏡で自分の頭を見て、三秒で結論が出た。
どうせ昼には崩れる。二十年間、毎朝同じことをやって、毎昼同じ結果になってきた。髪に使うエネルギーがあるなら、スーツのシワを伸ばす方がまだマシだ。
朝七時四十分。最寄り駅から会社まで徒歩八分。この八分が、一日の中でいちばん頭の回る時間だった。
今日の午前は新規クライアントが二件、午後は求人企業との打ち合わせが一件。どれも、気が重い。
一件目は三十代の営業職の男性で、事前アンケートに「とにかく今の会社を辞めたい」とだけ書いてあった。理由はなし。こういうタイプは、本音が出るまでに時間がかかる。
二件目は二十代の女性で「やりたいことが分からない」という相談だ。これも長くなる気しかしない。
坂口は小さく溜息をついてから、ビルの入口に手をかけた。
引いた。
扉が、重かった。
いつもは軽く開く自動ドアが、なぜか手動になっている。力を込めて引くと、ぎぎ、と古びた音がした。
……なんか変だな、と思いながら中に入った。
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まず、匂いが違った。
コーヒーメーカーとプリンターのトナーが混じったいつもの匂いじゃない。湿った土と、どこか甘い煙のような、妙な匂いがする。
次に、音が違った。
キーボードの音も、電話の音も、同僚たちのざわめきも、何もない。静かだった。ただ、完全に無音でもなくて、どこか遠くから低い唸りのような音がかすかに聞こえてくる。
坂口はゆっくり顔を上げた。
受付カウンターはあった。形は、いつも通り。
ただ、カウンターの向こうに座っている人間が、違った。
黒髪ボブカットの、落ち着いた雰囲気の女性だ。見た目は三十代くらい。スーツを着て、タブレット端末を持ちながら坂口を見ている。
額に、小さな角が二本生えていた。
坂口は三秒ほど、その角を眺めた。
コスプレかな、と思った。
でもどう見ても作り物じゃなかった。肌と完全に一体化していて、根元に血管みたいなものまで走っている。
「お待ちしておりました、坂口誠様」
女性が言った。声は事務的で、無駄がない。
「……どちら様でしょうか」
「ミラ・カルディナと申します。この紹介所の管理担当です」
「紹介所」
「はい」
「ここ、キャリアブリッジですよね」
「以前はそうだったようですね」
少し間があった。
「現在は、異世界人材紹介所です」
坂口はもう一度、オフィスを見回した。
デスクの配置は同じ。自分のデスクも同じ場所にある。パソコンも、コーヒーメーカーも、ホワイトボードも、全部いつも通りの場所にある。
でも壁の色が、なんか違う気がする。窓の外の景色が、妙に霞んでいる。天井が、昨日より高くなってる気がする。
「あの」
「はい」
「俺、頭おかしくなりましたか」
「いいえ」
ミラの右の口角が、一ミリだけ上がった。
「ご正常です」
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五分後、坂口は自分のデスクでミラの説明を聞いていた。
異世界では、職業が「生まれつき決まっている」らしい。勇者は勇者として、魔王は魔王として生まれてくる。その職業に就くのが当然、という制度が何千年も続いてきた。
ところが近年、それが限界に来ているという。
生まれついた職業と本人の適性が、どんどん噛み合わなくなってきているらしい。その結果として、勇者が魔王を倒せない、魔王が世界征服をやる気になれない、精霊が願いを叶えることを拒否するという、前代未聞の事態があちこちで起きているとのことだった。
「……つまり、異世界人の転職を手伝えと」
「転職だけではありません。キャリア相談、適性診断、自己理解のサポートも含みます」
「なんで俺なんですか」
「あなたが、最もよく聞ける人間だったからです」
「聞ける」
「異世界人は感情が強い分、自分の本音を言語化することがとても苦手です」
ミラは続けた。
「聞いてもらえた経験が、ほとんどない者ばかりです。だからこそ、あなたが必要でした」
坂口は少し考えた。
「断ったらどうなりますか」
「もとの会社に戻れます」
「それは助かる」
「ただし、戻った三日後にリストラが実施される予定です」
坂口は黙った。
「……それは知ってました」
「でしょうね」
ミラはタブレットを操作して、一枚の羊皮紙をデスクの上に置いた。
今日の予約票だった。達筆な文字でこう書いてある。
*相談内容:勇者、続けるべきか否か、至急*
*氏名:レオン・アルヴァレス*
*時刻:午前十時*
「あと二十分です」
立ち上がりながら、ミラが言った。
「面談室のご準備を」
「待ってください、俺まだ承諾してないですよ」
「それは坂口さんが決めることです」
それだけ言って、ミラは受付カウンターに戻っていった。
坂口はしばらく羊皮紙を眺めてから、引き出しを開けた。
赤いボールペンが入っていた。いつも使っている、安物のやつだ。
異世界に来ても、引き出しの中身は変わっていなかった。なぜかそれだけで、少し落ち着いた。
坂口はボールペンを手に取り、棚から白紙の面談シートを一枚抜いた。
名前の欄に、レオン・アルヴァレスと書いた。
「……まあ、話だけ聞いてみるか」
誰にともなく呟いて、面談室のドアを開けた。
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午前十時ちょうどに、ドアがノックもなしに開いた。
入ってきた青年を見て、坂口は思った。
ああ、確かに勇者って感じだな、と。
身長は高くて均整が取れている。金色の髪を無造作に束ねて、青い目が澄んでいる。腰に剣を差した鎧姿で、見た目だけなら絵本から抜け出してきたみたいだ。
でも表情が、違った。
眉が下がっている。口元が不安そうに結ばれている。目の下がうっすら赤い。泣いてたか、眠れてなかったか、たぶんどっちかだ。
鎧の胸あたりに、緑色のシミがついていた。野草か何かだろう。
青年は室内をざっと確認してから、坂口を見た。
「あの、こちらが……転職エージェント、さんですか」
「はい。坂口といいます。どうぞ、座ってください」
青年は少し迷ってから、椅子に座った。背筋は伸びているけど、それが緊張のせいだというのは一目で分かった。
「レオン・アルヴァレスさんですね」
「はい。急に来てしまってすみません。予約は、したんですけど」
「大丈夫ですよ。今日はどんなご相談ですか」
レオンは少し間を置いた。
坂口は待った。
最初の沈黙を埋めようとしちゃいけない。この間に、相手は言葉を探している。急かしたら、本音じゃない言葉が出てくる。それが二十年間で覚えた、一番大事なことだった。
「僕、勇者に向いていないと思うんです」
レオンはそう言ってから、すぐに付け加えた。
「……でも、間違ってるかもしれないんですけど」




