第三話
冬真はひとしきり吐いてから、ゲホゲホと咳き込んだ。口の中が酸っぱい。腰の水袋を手に取って、顔をしかめる。――俺、今、どうやって外したんだ?考えるまでもなく、自然に手が動いて、口元に水袋を持ってくる。そしてまた、当然のように腰に水袋を戻す。
再び、胃がねじれそうになる。気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。冬真の意志を無視して、勝手に身体が動いている。それなのに、自分はそれを当然だと思っている。意識しなければ、不自然だと思えない。
冬真は、身体を横に投げ出した。そこでしばらく呼吸を繰り返して、気分を落ち着ける。ここでうずくまって吐いてたって、事態は何も前進しない。
――次に確認すべきことは、分かっている。
冬真はぼんやりと星空を眺めて、薄く笑った。
「ゲームの時は、何とも思わなかった、んだけどなぁ」
立ち上がって、川の傍から運んできた、木の枝を拾う。相変わらず、ずっしりと重い。筋力1なのだから当然だ。これは、ゲームでは尖った木の棒という名前で、このフィールドでだけ拾える、練習用武器なのだ。推奨筋力3なので、筋力1で持てば、スタミナと敏捷にペナルティが入る。
ずるずると引きずって、草原の方へ歩みだす。この先に、非敵対――人間に対して襲いかかってこない、角ウサギがいるはずだ。レベル1の、これまたゲームルールを学ばせるための敵である。それを3匹倒せば、レベル2に上がるはずだ。もしもゲームと同じ仕様なら、だが。
歩いていると、ぴょこぴょこ動く影が見えてくる。いた。小学校で飼っていたウサギを思い出す。それより一回りも大きく、額には角がある。動物は嫌いじゃない。……でも。
「仕方、ないよな」
冬真はすぐ傍まで歩いていく。練習用の敵だから、人間が近づいても逃げることはない。冬真は尖った木の棒の尖端を、ウサギの上に構えた。木の棒の重さで、少しでもダメージが出てくれることを祈って。息を吸って、そのまま下に振り下ろす。笑えるくらいゆっくりとしか動かない。動けない。
ウサギの顔が、ぐりんと冬真に向いた。角を向けて、とびかかってくる。ドスリ、という音と、激痛と、衝撃。見下ろせば、角が、冬真の胸に埋まっている。そのまま、角ウサギが、血に濡れた角を抜いて、下に落ちる。
もう一度、地面から飛びあがって、今度は、首に。痛みと、衝撃と、生ぬるい感覚と。全てが入り混じって、やがて、何も感じなくなった。
* * * *
冬真は、真っ暗な世界に立っていた。風も匂いも温度も、何も感じない。ふいに、灰色の画面が視界いっぱいに出てくる。そこにはこう書かれていた。
すぐにリスポーンしますか?※60秒後に自動的にリスポーンします
その下には、『はい』と書かれたボタンがご丁寧にハイライトされている。
冬真は、無造作にボタンに指をやった。とたんに、視界いっぱいの満天の星と、土と草の匂い、肌寒さと、肌をくすぐる草の感触――五感が一斉に戻ってくる。
痛みと衝撃と恐怖の記憶がよみがえって、冬真は激しく咳き込んだ。胃も頭もぐるぐるして、おかしくなりそうだ。冬真は死んだ。確かに死んだと思うのに、また、ここへ戻ってきた。
この世界で、最初に目を覚ました場所。このゲームの、初期リスポーン地点だ。手に握っていたはずの尖った木の棒はなくなっている。腰の水袋だけが、たぷん、と、変わらない感触を冬真に伝えた。
――初期装備以外のアイテムロストと、レベル初期化。それが、このゲームの中で払う、死の代償である。
* * * *
【十一日目・朝】
ざり、ざり、ざり、がり……。土をかく音が、絶え間なく耳の中に響いている。
相沢冬真は、深さ1メートルほどの穴の底に跪いて、さらに深く穴を掘っていた。直径にして1メートルほどの穴である。
冬真の腕は、機械的に同じ動作を繰り返して、ただ動く。爪が剥がれ、地面を掻くたびに激痛が走っても、乱れることなく、規則的に地面をかいて、少しずつ窪みを作っていく。土には冬真の血が混じっている。
冬真は歯を食いしばりながら、その様子を見下ろしていた。穴を掘りたいと願うだけで、冬真の身体は勝手に動いてくれる。特別な意志の強さがなくとも、痛みで勝手に力が抜けたりはしない。――実にありがたい。
ざり、ざり、ざり……。指先は痺れて、痛み以外の感覚がなかった。喉が渇いて気持ちが悪い。空腹感と合わせて、頭がぼんやり、くらくらする。今回の作業が終わったら、スタミナ切れで倒れて、そのまま死ぬのかもしれない。
一定回数の動作を繰り返した後、冬真は、その場所に倒れこんだ。世界がぐらぐらと揺れて、どこが上か下かも分からない。目の前が暗くなっていく。吸い込まれるように意識が消えて、そして。
冬真は、少し離れた地点で起き上がった。無言で自分が先ほど死んだはずの穴に歩み寄って、慎重に足を下ろす。冬真の体力を考えると、降り方を間違えただけで死ぬ。無事に穴の底に着くと、再び跪いて、機械的な動きで土を掻きだす。
筋力が1しかないし、体力も1しかない。だから動作は休み休みだし、掻きだす土の量もわずかだ。それでも、少しずつ、穴は深くなっていく。
もう十日ほど、冬真は穴を掘っていた。死ぬまで掘って、リスポーンしたら、また穴を掘る。その繰り返しだった。食べ物の入手ができないので、基本的に飢え死にだ。死ねば水袋の中身は復活するから、喉が乾いたら、それだけ飲んでいる。
排泄はしない。ゲームでも排泄はしなかったから、これがこの世界の摂理なのかもしれない。服を脱ごうと試したこともあったが、腕が全く動かず、それが気持ち悪くてまた吐いた。
ざり、ざり、ざり……。この十日間、穴を掘りながら、冬真は何度も同じことを考えた。この世界から脱出する方法。――そして、このゲームを渡した和樹との会話を。
――『後悔するぞ』『恨むなよ』
脳裏には、和樹の警告が蘇る。一カ月半も前のやり取りだ。詳しくは覚えていないが、和樹の態度は大げさでおかしかった。深く考えなかったのは、冬真も徹夜と試験明けで、ハイになっていたせいだ。
それでもそのとき感じた違和感は、頭に残っている。前日に会っていたのに久しぶりと言ったり、前日に食べたカレーを久しぶりだと喜んだり。――絶対に、おかしい。和樹も、この異世界に来ていたのだと考えれば、説明がつく。
だとすれば、ここで時間を過ごしても、現実には反映されない可能性が高い。ステータスはどうだ?魔王を倒せるほどのステータスを持って帰還したなら、あんな感想になるか?冬真だったならむしろご褒美として喜ぶ。現実世界にしてたった一日で、超人レベルの身体能力を得られたことになるのだから。
ざり、ざり、ざり……。もし和樹がこの世界に来ていたのだとしたら、それでも、冬真にこのゲームを渡したのか。どうして……。いや、やめよう。そんなことは、本人に聞けばいい。
大体、和樹はこのゲームを冬真に渡すことを渋っていたし、魔王を倒すのだって、止めようとしていた。『ちょっと待て』そのログを見たのに、聞かずに先に進んだのは冬真である。
そんなことよりも、ずっと大事なことがある。和樹が、この異世界に来ていたのだとしたら。――地球に戻る方法が、あるということだ。和樹が実は和樹の皮を被った悪魔だった、などというオチでなければ、だが。
やはり、和樹には悪意はなかった、と思う。地球に戻れると分かっていたからこそ、ゲームを捨てずに冬真に渡したのだ。せがんだのは冬真だし。――それでも。
「恨むに決まってるだろ、クソ野郎……」
冬真は何度目か分からない泣き言を呟く。呟かずには、いられなかった。……あと二回くらい死ねば、この穴は完成するだろうか?
* * * *
【十二日目・朝】
冬真は、感情のない目で完成した穴を見下ろした。深さは150cmくらい。底をのぞき込んで、一つ頷くと、身ひとつで、草原に向かって歩き出した。
練習用の角ウサギがいるのとは90度くらい違う方向である。そちらにもぴょこぴょこ動く動物の姿がある。ただし、こちらは、角ウサギと違って毛皮が赤い。レベル3の獰猛ウサギである。名前から察することができるように、敵対生物である。キャラクターを見つけると、遠くからすっ飛んできてどつき殺す憎い奴だ。
この獰猛ウサギの生息地を抜けた先に最初の街があるはずだが、体力1敏捷1では、どうやってもこの草原を抜けることはできない。
冬真は、慎重に距離を推し量った。獰猛ウサギの敵感知範囲は、何メートルくらいだろうか。正直に言うと、ゲームとは距離感が違うので分からない。おおよそこのあたり、というところで立ち止まってはみたものの、振り返った獰猛ウサギは反応しない。
緊張で口の中が乾く。息が浅くなる。足を踏み出すのが嫌だ。襲われるのが分かっているのに、猛獣の前になんて進み出たくない。異世界に転移していきなり敵と戦える奴は、頭がおかしい。サイコパスだ。冬真は頭の中で罵倒する。しかし罵倒したところで、当然ながら現実は優しくなってくれない。
しばらくじっとりと獰猛ウサギを見つめて、やがて冬真は意を決して一歩を踏み出した。途端に、獰猛ウサギの目がぎょろりと冬真の姿を捉える。冬真は、無我夢中で身体を翻した。必死に走る。のろのろとしか動かない身体が恨めしい。
頼む、頼むから、もっと早く動け――背中に、どすりという衝撃と、一拍遅れた激痛がやってきて、冬真は前に倒れこんだ。もう一度、背中に衝撃。何度も、何度も。そして、また何も感じなくなる。
冬真はリスポーン地点から急いで起き上がった。すぐに自分を殺した獰猛ウサギの方向へ向かう。走っているつもりなのに、あっという間にスタミナが切れてのろのろとしか動けない。
草原の真ん中に、獰猛ウサギが佇んでいるのが見える。このゲームでは、魔物は追いかける相手がいなくなっても、20秒ほどそこに留まる仕様になっているのだ。
獰猛ウサギの視線が再び冬真を捉える。冬真は身体を翻して逃げる。追いつかれてまた死ぬ。二回ほど繰り返して、ようやく。冬真は、獰猛ウサギに追いかけられながら、穴の中に飛び込んだ。
ぐしゃりと、衝撃と激痛が腕に走った。多分折れた。そして、背中に衝撃と激痛。あっという間に気が遠くなって、何も感じなくなる。
* * * *
冬真は、尖った木の棒を掴んで、急いで落とし穴に向かった。木の棒は、穴を掘り始める前に拾い直しておいたものだ。
胸がばくばくする。手が震える。落ち着け。ここまでやったんだから、失敗するわけにはいかない。絶対に取り落とさないように、両手で棒を構えて、穴をのぞき込む。途端に、敵意に満ちた赤い瞳と目が合った。獰猛ウサギが即座にジャンプする。
冬真は、必死で棒を突き出した。穴から上がられたら終わりだ。ゲーム中では、落とし穴から上がってくることはなかったが、完全にないとは言い切れない。
何度か棒を突き出して、ウサギとぶつかる衝撃を手に感じて――やがて、ウサギはジャンプしてこなくなる。
音や、匂いが戻ってくる。はあ、はあ、という自分の息遣いが、やけに大きく聞こえた。
「……ステータス」
表示された灰色の情報欄には、レベル2と書かれている。能力値の横に、上矢印のボタンが出現していた。
冬真は、大きく息を吐いた。尻もちをついて、座り込んで、空を見上げる。――やりとげた。
そのまま地面に寝転がって、顔を覆う。熱いものが、眦から零れ落ちていく。
倒せる方法は、知っていた。ゲームだから、何回死んだって、ただ機械的にマウスをクリックすればよかった。途中で死んだって、やり直して獰猛ウサギを穴に誘い込めれば、それでよかった。
それが現実になるなんて、思わなかった――。
ようやっと、一歩。冬真は地獄を抜け出す足がかりを得た。




