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結婚式で殺された私の新しい人生 ―青い目の男爵と令嬢の話―

作者: cfmoka

リリーナ・ハイゼンはその日初めて婚約者と顔を合わせる予定だった。


相手は、先の戦争で軍功をあげ、男爵に叙爵された平民出身の人物。

年齢は自分の倍以上離れており、完全に政略結婚だった。


リリーナの暮らすドレヴァニア王国は、深い森と険しい山々に囲まれ、王家と貴族たちが長く国を治めてきた。かつては貴族と民衆の地位が明確に隔てられていたが、次第に富裕な商家が力を持ち始め、政治や経済に影響力を及ぼすようになった。そして、王と貴族、名をはせた商家との微妙なバランスの上に、王国は成り立っていた。


今から約十年前、国境沿いの交易路を巡る小さな火種は、やがて紛争へと発展し、王国は長い戦火の時代に突入する。


六年にも及ぶ戦争で、国は疲弊していった。戦後、王家は戦時中に力をつけた商家の支えを借りつつ、かつての栄光を取り戻そうとしていた。


そんな中、歴史しかない伯爵家の令嬢と、軍功で名をはせた元平民の男爵との婚約が、王命により整えられたのである。





扉を開けると、朝の光が高い天井と木目の床をかすかに照らし、古びた机や額縁の影を柔らかく浮かび上がらせていた。家具や調度品は決して豪華ではないが、かすかな気品を感じさせる。


リリーナはそっと足を踏み入れた。まだ成長途中の身体ではあるが、背筋を伸ばし、ゆっくりと腰を折る。


「お待たせいたしました。リリーナ・ハイゼンでございます」


父の低い声が響いた。

「リリーナ、こちらに座りなさい。彼が婚約者のアルベルト・シュナイダー男爵だ」


リリーナは静かにアルベルトの向かいに腰をおろした。


アルベルトは三十歳、深い黒色の軍服に身を包んだ端正な男性だった。

椅子にゆったりと腰かけるその姿は、落ち着きと自信に満ち、規律ある軍人の威厳を静かに示している。


黒地の光沢を抑えた生地は体に自然に沿い、細身ながら鍛えられた上半身のラインを際立たせていた。肩章や金の飾緒は精緻にあしらわれ、几帳面さを感じさせる白い手袋は指先まできっちりと整えられている。

艶やかな黒髪がやや目元にかかり、切れ長の澄んだ青い瞳には冷静で知的な光が宿っていた。



だが、リリーナはその瞳を見た瞬間――全身に激しい電流が駆け抜けた。





――前世の記憶――。


自分が最も華々しく輝くはずだったあの日。白いドレスを纏い微笑む最中、突然の暴漢、そして叫び声。

焼けるような痛みが走り、耳の奥で自分の心臓が破裂しそうに響く。


ゆっくりと自分の身体が傾いていくのを感じる。


自分を抱える結婚相手の、その肩越しに見えたあの悲壮な顔。


青ざめた顔が恐怖に歪み、目を大きく見開き、口を開けて何かを叫ぶように震えながら、必死でこちらに手を伸ばしていた。

その姿が、かすれてきた視界にぼんやりと映る。


(なんといっているの?アルベルト?ああ……でも、もう…)






リリーナはぎゅっと目をつむった。


――自分は前世でも、この人の目を見た。あの結婚式で、死にゆく瞬間に、目を見開いたままの彼の顔を。


「リリーナ……?」

冷ややかな父の声が応接室に響いた。


「……申し訳ございません。少し、緊張しただけです」

リリーナは平静を装うが、手のひらには微かに汗がにじんでいた。


向かいに座るアルベルトは、その様子をじっと見つめている。


「今日から、シュナイダー殿の婚約者として、家の名に恥じぬ行いをせよ」

「はい」

リリーナは静かに答える。父の冷たい視線に、胸の奥が少しひんやりとした。


深呼吸をして、リリーナは軽く微笑む。

「お父様、ご安心ください。私は、伯爵令嬢として、シュナイダー様の婚約者として、お役目を精一杯務めます」


父は一瞬眉をしかめたが、すぐに表情を消した。




このとき、リリーナの胸にひとつの疑問が芽生えた。


――なぜあの日、私は命を奪われたのか。

――そして、なぜ前世の記憶の最後に残っていたのは、結婚相手だったマーカスではなく、アルベルトだったのか。




◇◇◇




リリーナは応接室を出たあと、廊下の手すりにそっと手を添え、しばらく立ち止まった。


――あの顔、あの瞳…

あの頃の面影は確かに感じられるのに、戦火と年月を重ねて、精悍さを帯びた表情になっていた。


けれど、その眼差しだけは、昔と変わらぬ力を帯びていた。



リリーナは静かに自分の部屋へ向かう。

次々と胸に蘇るのは、前世の記憶だった。



前世のリリーナは、ドレスや一部宝石類も扱う高級洋服店の娘として、明るく華やかな少女だった。


結婚相手のマーカス、親友のカミラ、そしてマーカスの友人であるアルベルト――四人でお茶をしたり、街へ出かけたりする時間が、何よりの楽しみだった。


幼い頃からの知り合いだったマーカスは、商家の息子らしく明るく社交的で。

無邪気な笑顔を向けられるたび、胸の奥がちょっとだけ高鳴るのを感じることもあった。


十五歳の誕生日にプロポーズを受け、一年待って結婚式を迎える予定だった。


その日――皆の祝福の声に囲まれ、心からの笑顔を浮かべ⋯⋯

リリーナの前世、まだ16歳だった()()()の意識はかすかに揺れた。突然の衝撃と激しい痛み。


意識が遠くへ引きずられる――まるで、自分自身が少しずつ溶けていくかのように。


耳に飛び込む悲鳴や、訳の分からない恐怖の中で、リリアの視界に最後に映ったのは、マーカスの肩越しに見えたアルベルトの顔だった。


必死に手を伸ばすその姿を、リリアは薄れゆく意識の中、ただ見つめるしかなかった。





リリーナは幼い頃から、神童として周囲から注目を集めていた。


学問や礼儀作法、さらには身に着けるべきドレスコードに至るまで、まるで水が染み込むように自然と身につけていたのだ。


(ああ……そっか。リリアの時に身につけた知識や身体に染みついたマナーが、私の中に残っていたのね……)


そのおかげで、全てがすんなりと習得できたのか、とリリーナは思わず苦笑いを浮かべた。




両親は最初リリーナが一度で何でも出来てしまう天才ぶりに大変喜んだ。だが――年齢相応ではない態度の片鱗に気づくと、次第にどこか気味悪がるような視線で見つめることが増えていった。


今では、異質な存在として扱われることすらある。




リリーナはカーテンの影で小さく息を整える。


なぜ今、あの記憶がよみがえったのか――おそらく、思いがけずアルベルトと再会したからだろう。


マーカスや親友のカミラは、今どうしているのだろう?

二人とも、元気で過ごしているだろうか――。


リリーナはふと窓の外を見つめる。


そこには、記憶の中のリリアとはまったく異なる、伯爵令嬢としての自分の姿があった。




◇◇◇




その日、アルベルトに誘われ、リリーナは戦後初めて公開された王立博物館を訪れることになった。


重い扉を押し開けると、展示室のひんやりとした空気が肌に触れる。

戦禍を免れ集められた絵画や調度品は、光を受けかつての輝きを取り戻していた。


「……初めて訪れました。国境にある地域は随分被害を受けたのでしょうね」

慎重に足を運びながら、展示物に目を向ける。


「そうだな。かなり長引いてしまったからな」


リリーナはふと顔を上げ、問いかける。

「シュナイダー様は…」

「アルベルトでいい」

「え?」

「シュナイダーは呼ばれ慣れていないからな。アルベルトで構わない」

「承知いたしました。では、アルベルト様――」

「何だ」


リリーナは、わずかに目線を下げる。


「軍功により男爵の爵位を賜られたとお聞きし、さぞ大変なご努力であったかと存じます。わたくしの家は、歴史だけが残された、何もない落ちぶれた伯爵家でございます」

「……」

「政略結婚とはいえ、アルベルト様には申し訳なく…」

「そんな事を気にしていたのか?」


アルベルトはそっとリリーナの背に手を置く。

「むしろ年の差を気にしているかと思っていた」

「え」

「このおじさんに、君みたいな貴族の令嬢が嫁ぐんだぞ?」

「あ」

「だいぶ周りには言われるだろうな…」

遠い目をしたアルベルトは、そっとリリーナの背を押し、回廊を先に進む。


「年の差…」

思わず呟いたリリーナを見て、アルベルトはフッと目元を和らげた。


「君はいつもそんなに落ち着いているのか?」

「落ち着いていますか?」

「だいぶな。とても13歳とは思えない」


そう言って、二人は突き当りの大きな絵画を見上げる。


リリーナは額縁の小さな傷に視線を落とした。

「この小さな傷がいつの物か分かりませんが……この傷もまた、過去を語っているのでしょうね」


アルベルトはほんの一瞬、目を見開く。

「……君、13歳にしては考えすぎじゃないか?」


リリーナは意味深に微笑む。

「ふと考えてしまうのです。過去に何があったのかと…」


アルベルトは軽く苦笑いを浮かべた。

「なるほどな……君と話していると、子ども扱いできないな」


「このドレスのレース、当時の流行を忠実に描いていますね」

「ほう?」

「この描かれている調度品の”ジェイド”も素晴らしいものです」


アルベルトは驚きの色を見せる。

「君……そんな事も分かるのか…」

「……昔から服飾や宝飾が好きでしたので……」


二人は館内をゆっくり歩きながら、展示品を見て互いに感想を交わす。

窓から差し込む光が二人の影を床に落とし、静謐な空気が二人を包んでいた。


「アルベルト様は戦時中、前線にいらっしゃったのですか?」


「君は…戦争のことも興味があるのか?」

アルベルトは少し怪訝そうな顔をした。貴族令嬢が好む話題ではないからだ。


「はい……どのような思いで過ごされていたのか、知りたくて」

リリーナは透き通った眼差しでアルベルトを見つめる。


アルベルトは少し間を置き、口を開いた。

「戦場でのことか……。いや、構わないが」


「ありがとうございます。お辛いことは無理にお話いただかなくても大丈夫ですので…」

リリーナの答えに、アルベルトは目を細めて頷いた。


「……君は、考えが大人びている」

「そうでしょうか…」


アルベルトは館内を歩きながら、約六年間にわたる戦争の話をした。

リリーナが小さな疑問を口にすれば、彼は真剣に答える。


やがてアルベルトは少し視線を逸らし、低く息を吐く。

「……君に正直に話しておこう。私は、結婚のことを考えられなかった時期が長くある」


リリーナは小さく眉を寄せる。


「なぜですか?」

「忘れられない人がいるんだ。だから、君を愛せるかどうか……正直、わからない」


リリーナはじっとアルベルトの目を見つめる。

戦時中に出会った人だろうか?

「その方に、思いを伝えなかったのですか?」


アルベルトは少し俯き、静かに答える。

「もう、だいぶ昔に……亡くなってしまったんだ」


リリーナは息を呑む。


少しの沈黙の後、アルベルトはそっと視線を戻した。

「だが、こうして君と話していると……ゆっくり時間をかけて、二人の関係を築いていけるのではないかとも思える」


「それは…光栄に存じます」

リリーナは微かに微笑んだ。


二人の間に、外からは説明できない不思議な空気が漂う。

互いの距離も、自然と縮まっていくのを感じながら、静かに歩みを進めた。




◇◇◇




ある日、リリーナはアルベルトを誘って、二人で街に出かけることになった。


立ち寄った喫茶店は、ダークオリーブのベルベットの椅子や、淡い光を反射する年月を重ねたウォルナットのテーブルが配置され、柔らかい燭台の光が落ち着いた空気を作っていた。


「よくここを知っていたな?」

アルベルトが席に案内されながら言う。


「はい、以前こちらのケーキがとても美味しいと伺って…」

リリーナは微笑みながら窓際の席に腰を下ろす。


メニューを見ながら、リリーナの指先が止まった。

(……やっぱりあった。これにしよう)


思わず口元がゆるむ。前世のリリアの時、何度も迷わず注文した“ベリーのタルト”を指名する。


「決まったのか?」

アルベルトの声に、リリーナはきちんと背筋を伸ばし、

「ベリーのタルトを一つ、お願いいたします」

元気よく答えた。


アルベルトは少し驚いたように目を見開き、微笑む。

「ベリーのタルト……わかった」


そのまま給仕の者にタルトと紅茶を二つ注文した。




リリーナはゆっくり窓の外を見つめた。


ここから見る景色はリリアの時と変わらない…

ゆっくりと視線をめぐらし、ふとあの頃と同じ看板に目を見開く。


「何か面白いものでもあったのか?」

アルベルトがリリーナの視線を追う。


「あの、あそこの看板が…」

「看板?」

「あの…『小さくても大きい服屋』……フフ、意味が分からない、フフフ」


リリーナはこらえきれず手をあてて笑い出した。


アルベルトは小さく驚く。

それはかつてリリアが同じように笑い転げていた看板だった。


「失礼いたしました」

微かに赤らめつつも、姿勢を正す。


運ばれてきたタルトにリリーナが小さく舌鼓を打つと、アルベルトの視線が自然と彼女の仕草に向く。

その瞬間、彼の脳裏にかすかに、かつてリリアが同じように大好きだったベリーのタルトを頬張っていた光景がよぎる。


(……何故リリアの面影と重なる?)

アルベルトは口元を抑え、慌てて咳払いをした。

声には出さずとも、胸の奥で抑えきれない驚きが広がっていた。

(彼女は13歳……リリアが亡くなったのは14年前……)


リリーナはそれに気づかず、

「ふふ……やっぱり、このお店のタルトは最高ですね」

タルトの甘さをゆっくり堪能している。


アルベルトは静かに座り、何か思案するようにリリーナを見つめていた。


ともすると親子ほど年の離れた二人に見えるアルベルトとリリーナは、周りの客からぶしつけな視線を向けられていたが。


リリーナは喫茶店の柔らかな光に包まれ、かつてのお気に入りのお店で旧友とゆっくりとした時間を過ごす幸せをかみしめていた。




喫茶店を後にした二人は、暫く周囲を散策する事にした。


「君はこの辺りは詳しいのか?」

突然の質問にリリーナはきょとんとした顔をする。


「…あまり街に出て歩くことはしていませんが…」

(リリアの時は出歩きまくってたけれど…)


「そうか?先ほどから道を間違えず進んでいるように見えたが。詳しいのかと」


(あ。)


「地図を…地図をよく眺めていましたので!」

「そうか…」

何かを探るようなアルベルトの視線を感じる。


リリーナはそっと顔をそらした。


「あそこの定食はよく食べに行っていた」

そういって指をさす方をみると、一軒のレストランがあった。


(あそこはカミラの家がやっているお店!!)

思わず背筋をのばし通りの向こうをピョンピョンと覗いてみる。


「今度食べてみるか?」

「はい!!!!」

年相応のその元気な返事に、アルベルト微笑みながら片方の眉を上げた。


(カミラ居るかしら?あれから随分たっているから、きっともう居ないわよね…でもおじ様やおば様はまだ居るだろうし!!)

リリーナの胸は、少しだけ期待と懐かしさで高鳴った。


その後も懐かしい街をリリーナは堪能する。

だが、リリアの家がやっていた店はすでにそこに無かった。


「ここには、友人の家がやっていた服飾店があったんだが……」

アルベルトの声がやや沈み、リリーナの胸に妙なざわめきを生んだ。


「戦争が始まってすぐ、商売が立ち行かなくなり……一家ごと地方へ移ってしまった」


「そうなんですね…」

リリーナは視線を落とした。

かつての家族の姿がもうここにないと知り、心のどこかがぽっかり空いたように感じられた。


「その友人が……俺にとって、忘れられない人だ」


思わず息をのむ。

静かな沈黙のあと、彼の瞳が彼女をまっすぐ射抜いた。


「リリアといった。親友の幼馴染で…俺の初恋の人だ」

「!!」


アルベルトの瞳は何かを堪えているように揺れていた。


「俺は未だにあの日の事を忘れられない」

「あの日…?」

「リリアは殺された。俺の目の前で。助けられなかった…」


「!…アルベルト様」

「手を尽くしたが出血が多くて、リリアの結婚式の日だったのに」

「……」

「どんどん冷たくなっていくリリアに叫ぶことしかできなかった」


アルベルトはそっとリリーナの右手をとった。

その確かにある温もりに目元が和らぐ。


リリーナは痛々しいアルベルトの姿にどうして良いのか分からなかった。

自分がアルベルトの傷になっている……


「アルベルト様…」

「アルベルト、で良い。様はいらない」

「いえ、それは…」

「以前はそう呼んでいただろう?」

「それはそうだけど…!!」


思わず左手で口元を押さえる。

自分の言葉遣いが、まるで“リリア”そのものになっていたから。


そして気づく。

アルベルトの言葉が、まるで確信を込めたものだったことに。


リリーナは目を見開いた。


「え…?」


「あとでマーカスのお店にも行くか?」

「……」

「かなり大きな商会になってしまったから、マーカスには会えないと思うが…」

「いえ、…いいわ」


リリーナはそっと街の賑わいを眺める。

――リリアが何度も訪れたあのお店。マーカスと交わした笑い声や、ちょっとした喧嘩、楽しい日常の記憶が断片的に蘇る


「アルベルトは…マーカスには会っているの?」

リリーナは小さく呟くようにいった。


「いや…実は戦場から戻ってからは一度会ったきりだ」

「え?」


「戦勝式の祝賀会で会った。それからは会っていない」

「そうなの?忙しかったの?」

「……マーカスが結婚したのは知っているか?」


「え?」

「リリアが亡くなって二年後にカミラと結婚した」


「え!そうなの!?」

思わず声が大きくなってしまう。


アルベルトはその様子を静かに見守る。

彼の瞳には、少しの戸惑いが混ざっていた。

「ショックじゃないのか?」

「ショック…というより…びっくりした感じかな?」

「そうか…」


そっか…二人が…

小声でつぶやくリリーナに、アルベルトはそっと顔を向けた。


「おそらく、傷ついた者同士で慰め合ったのだろう」

「……」

「俺はその二年後に出征した」

リリーナはハッとして見上げる。

「戦争中、いや、もしかするとその前からか……マーカスの店は武器を扱い始めていた」

「!」

思わず目を大きく見開く。

アルベルトは一瞬視線を遠くに泳がせ、眉をひそめた。

「戦場で見たから間違いない。それに戦争が長引くにつれて、あいつの家――いや、店はどんどん大きくなっていった」


「武器なんて、前は扱ってなかったでしょ?」

「ああ……戦後の今は、もう扱ってはいないと思うがな」

「……」

「なんというか…自然と俺はあいつを避けていた。あいつは変わってしまった」


リリーナの瞳が揺れた。あの店も、マーカスも……

もう昔の姿ではないだろう。戦争と時の流れが、あの店もマーカスも変えてしまったのだ。


それでも――

前世のリリアが笑ったあの空間、あの匂い、あの味、あの音。全部が心に残っている。


「一番変わってしまったのは私だわ」

アルベルトを見つめながらそっと握られた手に力を込めた。


「全然、リリアの面影なんてないでしょ?よく気づいたわね」

思わず笑ってしまう。


アルベルトはその笑顔をじっと見つめ、青い瞳を優しく細めた。

「いや、姿形は変わっても中身はリリアだった」

「え~?」

「この街が好きなことも、宝石やドレスの話になると夢中になってしまうところも……」


片眉をわずかに上げ、アルベルトは続ける。

「ベリーのタルトしか頼まないのも、『小さくても大きい服屋』がツボなのも」

「悪かったわね」


「俺が惚れたリリアそのままだ」

「!!」

思わず顔が熱くなり、リリーナは目を伏せた。


そういえば、初恋とか言ってたような?

「あ、あるべると…そ、その」


片言になってしまうリリーナの様子に、アルベルトは軽く声をだして笑った。

「はは、リリーナでもこんなに動揺することがあるんだな」

「……からかってる?」


「いや、今は俺が君の婚約者だ。そして絶対に君と結婚する」

「!!!」


顔だけでなく、全身まで熱くなった気がした。


「今度は俺が必ず側にいてリリーナを幸せにしてみせる」

膝をついたアルベルトは、リリーナの瞳を覗き込むように見つめた。


「俺は今、一生分、神に感謝している。リリーナの婚約者になれたこと、そしてもう一度チャンスをもらえたことに」

「アルベルト…」

「君を愛せるかどうか、正直わからない、と言ったが――あれは忘れろ」

「え」

「もう全力で愛している。あの言葉は、もう君には当てはまらない」


顔から火が出た。

何だか変な所から汗も出ている。

令嬢としてダメだわ、と頭では分かっていてもどうにもできなかった。

手のひらは熱く、心臓が跳ねるように鼓動している。


リリアの頃にもこんな事言われたことがない。

マーカスとの関係は、ただの幼馴染の延長だった。

こんな激しい想いを向けられるのは、知らない。


いや――一度だけ、見たことがある。自分が死にゆくその瞬間、この青い瞳は全力で何かを叫んでいた。


「ずっと…私の事が好きだったの?」

思わず小さく呟いた。


アルベルトは若干目を見開くと照れたように顔を赤らめ破顔した。

「ああ!だからこの奇跡には、感謝しかない」

「奇跡…」

「このまま、俺の家に連れて帰りたい」

「それは駄目よ」

「チッ」と、思わず軍人らしい舌打ちをしたアルベルトに、リリーナは声を上げて笑った。


「アルベルト、それも駄目よ!フフフ、もう貴族なんだから!」

「……そうだな。貴族になれたから、こうしてリリーナと一緒にいられる」

「ンンっ」

油断するとすぐ甘い言葉を吐くアルベルト、にリリーナは咳払いした。

けれどその頬は、ほんのり赤く染まっていた。


そこでふと、周囲の注目を集めていることに気づく。

「あ、アルベルト、そろそろ移動しましょう…」

少し挙動不審になったリリーナに、アルベルトは嬉しそうに頷いた。



街は柔らかな夕暮れに包まれていた。

石畳の道はオレンジ色の光を受けて淡く輝き、街灯の暖かい光が通りに影を落とす。店先の窓ガラスには、沈む太陽の光が映り込み、行き交う人々の影を長く引いていた。


リリーナは、街が変わらぬ穏やかな時間に溶けていくのを、心から嬉しく思った。

隣には、柔らかな光に包まれたアルベルトの優しい気配があった。

変わってしまったものも多いけれど、変わらないものも確かにある――。

そんな中で、アルベルトの存在は、いつの間にか胸に柔らかく染み込み、静かに心を満たしていくのを感じていた。



◇◇◇




「リリーナ、帰ったか」


父の声が廊下の奥から響く。慌てて深呼吸を整え、リリーナは立ち止まった。

「ただいま戻りました、お父様」


父は相変わらず無表情で近づき、口を開いた。

「今日の外出はどうだった?シュナイダー殿に失礼はなかっただろうな?」


リリーナは一瞬、驚いた表情を浮かべ、思い出したかのように頬を赤らめた。

「ええ、あの…大丈夫です。とても…とても楽しかったです」


その様子を見た父は、眉を少し上げ、軽く首を傾げる。

「…?」


リリーナの恥ずかしそうなその態度に。

かつての彼女にはなかった年ごろの少女らしい反応を見て、父は少し驚いたようだった。


「……アルベルト君は、優しいか?」父はそっと声を落とす。

リリーナは小さく頷き、両手をそっと組んだ。

「はい…とても」


父の目は、いつもより柔らかくリリーナを見つめていた。

その視線に、リリーナは心の奥でふと気づく。

――きっと、もうリリアの家族には会えないのだと。

だからこそ、今、自分を見つめてくれる家族がいることに、不思議なほどの安心感を覚えていた。




◇◇◇




街の賑わいを抜け、アルベルトとリリーナは懐かしい通り沿いにある、カミラの家が経営するレストランへと足を運んだ。

「ここ……久しぶりだわ」


リリーナをエスコートしながら、アルベルトが扉を押す。

木の温もりが漂う店内に、香ばしい匂いがふんわり広がった。


「いらっしゃいませ!」


元気な声に店の奥を覗くと、カミラの母親が明るく迎えてくれた。

「まあ、アルベルト!久しぶりね!」

「(おば様……!)」


リリーナは思わず前のめりになった。アルベルトはその様子を微笑みながら見守った。


「あなた、戦争から帰ってから、滅多に来ないんだもの!」

カミラの母親は嬉しそうにアルベルトと連れのリリーナを、一番奥の窓際の席に案内する。


「今日はこの可愛いお嬢さんと一緒にどうしたの?」

「婚約者だ」

「こんや…?」

「リリーナと申します」


そう言って、リリーナは軽く会釈した。


「まあまあ…アルベルト結婚するのね!おめでとう!」


その声を聞いた店の常連たちからも、次々と声が上がる。

「なんだ!アルベルト、結婚するのか!」

「ずっと一人だったもんなぁ」

「お貴族さまになったんだ。ちゃんとせんとな!」


その大声に、店の奥からカミラの父親も顔を出した。


「なんだ。アルベルトおめでとう。もっと早く言え。親父さんたちへの報告はしたのか?」

「親父たちの墓には行ってきたよ。また今度、リリーナを連れて行くさ」

「そうか」


「それにしても…」

カミラの母親がリリーナをじっと見つめる。

「随分かわいらしいお嬢さんだけども…おいくつ?」

「13歳です」

「じゅうさんっ!!」

「なんだ?アルベルト犯罪じゃないか!」


アルベルトは少し口元を引き結び、眉をぴくりと動かす。

「いや、貴族ならこれぐらいの年齢差は普通だから」


憮然とした様子で、常連たちに向かって軽くため息をつく。

「……相変わらずうるさいな、ここは」

その声には、わずかに苦笑いが混じっていた。


リリーナは、そんなアルベルトの意外な表情を楽しそうに見つめた。

周囲の賑やかな空気に溶け込むように、その場を心から楽しむ。


「さて、何を食べようか?」

気を取り直したようにアルベルトがメニューを手にしながらリリーナに訊ねる。

「やっぱり……オムライスが食べたいな」

リリーナの瞳は、子どものように輝いていた。


カミラの母親達が厨房へ戻ると、アルベルトにそっと声をかけた。

「昔と変わらないね、この店の雰囲気も、匂いも」


リリーナは窓の外を見ながら、懐かしい光景を思い出す。

――リリアの頃、よくここで笑い、食べていた。


やがて運ばれてきたランチに、リリーナはスプーンを手に取り、一口味わう。

「……やっぱり美味しい!」

アルベルトも笑顔を浮かべる。


二人は食事を静かに楽しんだ。

リリーナの頬は嬉しさで赤く染まり、そんな彼女を見つめるアルベルトの瞳には、優しさが溢れていた。

――ここにも、変わらないものが確かに残っている。



「ただいま~お母さん、お父さん」

店の扉が開くと、華やかに着飾った一人の婦人が入ってきた。

自然と視線がそちらに向く。そこにいたのは、カミラの面影を残した女性だった。


「カミラ?あんた、どうしたの?」

(カミラ…!)

リリーナの胸に、一瞬、懐かしさと驚きが交錯する。

アルベルトも思わず目を見開いた。


「え!!もしかしてアルベルト?」

カミラは実の母親を軽く押しのけ、にこやかにアルベルトの席へ駆け寄る。


「……カミラ」

アルベルトはわずかに眉を寄せ、そっけなく返す。


「久しぶりね!あなた、うちのお店にも全然顔を見せないし。冷たいわ」

視線を流しつつ、アルベルトに軽くしなだれかかる。

だが、アルベルトは無言のままカミラの身体を引きはがした。


(……?)

リリーナは息をひそめ、その緊張感のある空気に圧倒される。

昔は無邪気に接していた二人が、今はまるで別人のようだった。


カミラは少し目を細め、色っぽく首を傾け笑みを浮かべる。

「貴族になったんでしょ?たまにはお店にも来て」


「……」

その誘いにも、アルベルトは返事を返さず、食事を続けた。


リリーナは、その二人のやり取りに思わず目を見開く。

(え…昔のアルベルトとカミラって、こんな雰囲気だったっけ?)



「ふふ、相変わらず堅いわね。つまらない男」

カミラは小馬鹿にしたように笑い、さらに挑発的な空気を纏った。

それでも、アルベルトは返事を返さない。



「こちらのお嬢さんはどなた?親戚の子?」

カミラがじっとリリーナを見つめる。

その瞳はいたぶるようで、わずかに獣めいた光を帯びていた。


「アルベルトの婚約者さんよ」

カミラの母親が、そっと横から覗き込むように告げる。


「婚約者!?こんなおチビちゃんが!?」

(……!!!!)

侮るような口調に、リリーナは思わず身体をビクッと反応させる。

――昔の無邪気なカミラとはまるで違う、全然知らないカミラが目の前にいた。



「アルベルトはずっと結婚しなかったの、知ってらっしゃる?」

リリーナの目をじっと見つめながらカミラが何かを試すように言った。


「カミラ、私たちは食事を楽しんでいる。邪魔をするな」

苛立つアルベルトの声が静かに響いた。


「あら?本当の事でしょ?あなたったら私が結婚したとたん前線に行っちゃうし」

「それはお前たちの結婚とは関係ない」

「また強がり言っちゃって」

「誤解するな」


アルベルトは切れ長の瞳を細め、カミラをじっと睨みつけた。


「リリアがいない世界に生きていく気がしなかったから、戦場に行ったんだ」

そう言い、そっとリリーナの顔を見つめる。


(……!!!!)

リリーナは静かに息を呑んだ。胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じる。


アルベルトはリリーナの手をそっと握る。

カミラはそんな二人の様子に、面白くないといった表情を浮かべた。


「ねぇ、アルベルト……やっぱり私に惚れてたんじゃないの?」

カミラはわざと大きめの声で言い、リリーナの視線が自分に向くように仕向けた。


「黙れ……そんなことはあり得ない」

アルベルトの声は低く、わずかに苛立ちを含んでいた。リリーナの手をしっかりと握り、カミラを鋭く睨みつける。


リリーナはその手の温もりに、ほっと安堵した。

――アルベルトは、私を守ろうとしてくれている。


「ふん、つまらない男ねぇ」

カミラは二人を軽く嘲るように笑い、店内を見渡した。やがて壁に掛かった絵画に指をかける。


「この絵、素晴らしいでしょう? 夫のお店にあったんだけど、飾ってなかったからもらってきちゃったの。こんな立派な絵がまだたくさんあるのよ」

その誇らしげな態度は、二人には手の届かないものだとでも言いたげだった。


リリーナの目がその絵画に吸い寄せられ、思わず息を呑む。

――この絵……覚えている。

それは、かつてリリアがマーカスの応接室に飾った隣国の絵画。


「……これは、……」

思わず声が漏れそうになり、リリーナは手で口元を押さえた。


アルベルトはその様子にすぐ気付き、リリーナを気遣うように目線をあわせた。

「大丈夫か?」

「……ええ、少し驚いただけ」

リリーナは手を握りしめ、心の奥でリリアとしての記憶がじわりと疼くのを感じた。


カミラは二人の反応を楽しむように、深く笑みを浮かべる。

「ふふ、凄いでしょう? あんたたちには、一生かかっても手に入らないわよね」


リリーナはその絵画を見つめながら、蘇ってくる記憶と戦っていた。

カミラの嫌味どころではない、”真実”がそこにある気がして…


アルベルトはリリーナの様子の変化に気づく。

「……そろそろ出るか?」

静かな微笑みの奥に、彼の心配がはっきりと宿っていた。



――この絵が、私を殺した出来事と関係しているかもしれない。


あの頃は気づかなかった。

だが今は、アルベルトが側に居てくれる。


未来へ進む覚悟だけが、確かにある。




◇◇◇




午後の柔らかな日差しの下、アルベルトはリリーナの手をそっと引いて、公園へと歩き出した。周囲の賑わいとは裏腹に、バラ園の小径は穏やかで、色とりどりの花が咲き誇っていた。


「……リリーナ、さっきの絵のことで、何か思い出したのか?」

アルベルトは声を落とし、静かに問いかける。瞳には心配の色が濃く浮かんでいた。


リリーナは一歩立ち止まり、深呼吸をしてから口を開く。

「……ええ、ちょっと……気になったことが」


その目は遠くを見つめるようで…

指先が微かに震え、握った手から全身の緊張が伝わっていた。


リリアはマーカスとの婚約後、月の半分をマーカスの家が営む商会の手伝いをしていた。父親が隣国出身の画家兼デザイナーで、幼い頃から絵画や宝石類の知識に親しんでいたリリアには、自然と商談の手助けや輸入品の荷ほどきが任されることが多かった。


――あの頃、マーカスの商会で、毎月届く輸入品の中に、隣国の絵画があった。


リリアは父親から、隣国の絵画の特徴を幼い頃から聞いていた。その国では、キャンバスの裏に作家名を記す習わしがある。だが額縁をはめると文字が隠れてしまうため、表からも誰の作品かわかるよう、裏の文字を別のカードに写し取る風習があると。


16歳のリリアは忠実に、絵画の裏面から文字を読み取り、毎回カードに転記していた。


そしてマーカスに頼まれて、その絵画をマーカスの父親の応接室に毎回飾り、カードは机上に置いていたのだ。


「アルベルト…今ならわかるの」

「ん?どうした?」

「この名前に心当たりない? ルミナ・プレインズ、ノーザン・ルミナ・プレインズ、アルディア・ノース…」

「全て紛争が起こった国境の地域だ。なぜそれを…?」


「……4月に咲くサンライト・ブリーズ、6月頃が見頃なフロスト・ルミナ、初夏に咲くシーシルフ…」

「花の名前か?」

「ルミナ・プレインズと書かれた絵画にはサンライト・ブリーズが描かれていたわ…」


――絵画に描かれていた花は、必ず咲く時期が決まっていて……紛争が始まった時期と花の時期がぴったり重なる。


「!!!」

アルベルトの目が見開かれ、短く息を呑んだ。


「どうして…どういうことだ?」

「あの頃、マーカスの商会に届く絵画には、季節の花が描かれていたの」

「さっきのカミラの店の絵画もか?」

「ええ。私が最後に飾った絵画よ。カラド・プレインズで花はブラッドローズ…寒気が入り始めた時期に赤が映える花」

リリーナは目の前に広がるバラ園をじっと見つめる。

かつて自分が関わったこと、気づかなかった真実が、今、静かに顔を覗かせる。


「紛争地帯と時期が一致する絵画だと?」

「隣国の特徴で、絵画の裏面にサインする風習があるんだけど…おそらくメッセージとして使ってたんじゃないかしら?」



「……アルベルト……これ、もしかして……」

言葉を濁したリリーナを、アルベルトはそっと見つめる。彼の眉が少し寄り、軍人としての勘が働く。


「……マーカスの家は紛争に関わっていた可能性がある、ということか」

低く呟くその声には冷静さがありつつも、内側で怒りが滲んでいた。


リリーナは視線を下げ、木漏れ日の中で揺れるバラを見つめる。

「……でも、あの時は気づかなかったわ。こんなことになるなんて」

「……ああ。未来など分かるはずもない」

アルベルトは手を握り、静かに頷いた。


――この絵と、あの出来事。

――当時は気づかなかった。だが、歴史が証明している今は。


リリーナは小さく息を吐き、目の前の花々をしばらく見つめた。

そして、アルベルトの手にすがるように、そっと力を込めた。




◇◇◇




アルベルトはすぐに行動に移った。

「まずは、あの絵画の押収だ」

そう決めると、彼は直属の部下に指示を飛ばし、まずカミラの家が営むレストランへと向かった。

一度見たブラッドローズの絵画を押収する。


裏面のカラド・プレインズのサインを確認すると、この絵画の所有者について調査が入った。


その日の午後、初めての報告書がアルベルトのもとに届く。

「カミラ夫人による証言で、この絵画がだいぶ前から飾られずに、商会の倉庫に置いてあった絵画だと確認が取れました」


続いてマーカスの商会に捜査の手が及ぶ。


「当時働いていた使用人の証言で、隣国からの絵画は全て故リリア嬢が荷ほどきしていた事、また絵画の展示は同じく令嬢が、撤去はマーカス本人が行っていたそうです」

「撤去した絵画は一部ですが倉庫に残っていました!」

「残されていた絵画ですが、すべて隣国からの輸入品。カードに記されたサインは、すべて国境付近の地域名です」

文字通りの事実が積み重なっていく。アルベルトは眉を寄せ、読み終えると部下に新たな調査を指示した。


次の報告書には、当時の来客リストが記されていた。

「来客の中には、定期的に訪れる紳士がいました。応接室で絵画を確認した形跡があります」



数週間後、隣国への派遣隊からの手紙が届く。

絵画の作成者は戦争中に死亡しており、直接の聴取は不可能だった。

しかし、その弟子や助手が残した日誌から、絵画に込められた意味や、描かれた花の季節が紛争のタイミングと完全に一致することが明らかになった。


さらに数か月後、再び報告書が届く。

応接室を訪れた客の一人、あの紳士の正体は紛争当時の外交官であり、隣国からの情報伝達を商会を通じて行っていたことが判明した。


アルベルトは報告書を前に、静かに息を吐く。

「なぜマーカスは我が国を裏切ったのか…」

冷静な声の裏に、抑えきれぬ憤りがわずかに揺れた。



その間、リリーナは静かに見守るしかなかった。

情報を漏らすことは危険であり、今はただ、アルベルトの判断に身を委ねるしかない。

胸の奥で緊張が絡み合い、手を握りしめる指に力が入る。


時折、思い出すのは、かつて応接室で絵画を目にした来客の表情――

一度だけ、マーカスの父親が外出先から戻るのが遅れ、その詫びを伝えに応接室に入った時。

午前中に届いたブラッドローズの絵画を、遠い目で見つめていた来客に、リリアは思わず話しかけたのだ。

最初は花の可憐さを穏やかに伝えただけだったのに、カラド・プレインズとサインを口にした瞬間、あの鋭く冷たい目がこちらを射抜いた――

その違和感は、今や完全に意味を持つ。


半年に及ぶ捜査の末、アルベルトはついに全体像を把握した。

「……マーカス一家、紛争に関与していたのは間違いない」

その声には静かな重みがあった。



――過去に気づけなかった事実。

――だが、今は確かに手中にある。


アルベルトの目は前を見据え、次の行動に備えて光を帯びていた。





「全員、準備はいいか」

アルベルトは部下たちに静かに指示を飛ばす。迷いはなかった。


「証拠は全て押さえる」


その日の午後、アルベルトと部下たちは静かに現場に到着した。

すでに確認済の倉庫の絵画や、事務所や応接室に残る文書、来客記録、輸入品リスト――これらが証拠として正確に押収される。

マーカスの商会の関係者は、突然の軍の介入に驚きを隠せなかった。

アルベルトは落ち着いた声で告げる。

「あなた方は、国家に対する重大な裏切りの疑いで逮捕されます。抵抗は無意味です」


逮捕状を提示し、部下たちは慎重に、しかし確実に関係者全員を確保した。


その後、司法当局と連携し、初期尋問や証拠確認に立ち会った。

一つひとつが法的手続きに沿って整理されていく。


商会長であるマーカスは淡々と、司法官の質問に答えていた。表情はほとんど無感情で、声も冷静だ。だがその瞳の奥には、わずかに安堵が宿る。



「マーカス…」

アルベルトはかつての親友と対面していた。

「久しぶりだな、アルベルト」

「何でこんな事をした?」

「やっていたのは父だ。だが…俺も知っていたから同罪だな」

「……国を売ったのか?」

「……この国は王家と貴族、我々のような商家と、微妙なバランスで成り立っていた。父は商家としての台頭を目論んでいた。戦争で資金に困る王家に借りを作り、商家としての力を誇示する。武器や物資の需要が高まることを見越して商路を拡大する――そんな計算だった」

「……」

マーカスは短く息を吐き、視線を落とす。

「ほっとしたよ。これ以上罪を抱えたまま生きなくてすんで」

無表情に近い口調だが、かつての親友が自分を見てくれたことへの、わずかな安堵がそこにあった。

「マーカス…」

「ありがとう、アルベルト」


アルベルトは報告書を前に、静かに息を吐く。

「これで、国家に対する犯罪は証明された。後は司法に委ねる」




◇◇◇




午後の柔らかな日差しが、公園の小径に降り注いでいた。

白やピンクのユリが風に揺れ、淡い香りを漂わせている。


リリーナは少し息をつき、アルベルトの隣で立ち止まった。

「……アルベルト、あの日の…結婚式の時の事、ずっと考えていたの」


彼は穏やかに頷き、小さなリリーナの手をそっと握った。



リリーナの瞳に、過去の影が浮かぶ。

――結婚式の日、リリアを抱えていたマーカスの表情をやっと思い出していた。

瞳から光を失い、感情をこそぎ落としてしまったマーカスの顔。


――今なら分かる。マーカスは知っていたのでないか?

あの日、リリアが殺されてしまうことを。


「……結婚式で、私を見つめるマーカスの顔。全てを諦めたような顔をしていたわ……」

小さな声で吐き出すリリーナに、アルベルトは静かに頷いた。


「マーカスは止められなかったと言っていた。あの外交官は君に全てばれていると思って、危険だと判断したらしい。それをマーカスの父親と相談しているのを彼は立ち聞きしていたそうだ」

「!」

「あいつは…国を超えたあまりに大きな陰謀に、自分がちっぽけ過ぎて…君ひとり守れない自分に絶望していたらしい」

「そうなの…」


「主導は隠居したあいつの父親と隣国で逮捕した外交官だ。実行犯は他にもいるが…必ず全員逮捕する」

「うん」


リリーナはアルベルトの手を握り返す。

まるで側に在る存在を確かめるかのように。


アルベルトは屈むと、そっとリリーナの頬を撫でた。

「記憶を取り戻して、つらくないか?」

「アルベルト…」


リリーナは瞳を見開いた。

「自分が殺される瞬間なんて、早く忘れたらいい」

「!」


リリーナの瞳から雫が零れ落ちる。

「アルベルト…」

「伯爵が心配していた。君が最近うなされて眠れていないと」

「!」


思わず目を閉じる。

両目からポロポロと涙が零れていった。


「リリーナ、君は一人じゃない。それに絶対俺が側にいる」


アルベルトはそっとリリーナの頬を親指でぬぐった。

繋いでいた手を離すと、そのままリリーナの腰に手を添えて一気に抱え上げる。


「きゃ!!」

「リリーナは軽いな!」


そう言ってこの上なく大事そうにリリーナを抱きかかえるアルベルトに、

リリーナはきょとんと目をぱちくりさせた。


そして…はっとして顔を真っ赤にした。


「アルベルト!いきなりビックリするじゃない」

「はははっ!このままユリを見て回ろう!せっかく見頃なんだ」


リリーナは少し息を吐き、アルベルトの肩に頭を寄せた。ユリの花の香りが、かすかに胸の奥を満たす。

「……ありがとう、アルベルト」


「俺は何があっても諦めないし、リリーナを手放したりしない」

言葉に力がある。切れ長の青い目を細め、真っ直ぐにリリーナを見つめるアルベルト。


リリーナは微かに笑みを浮かべ、甘えるように体をアルベルトにすり寄せた。

「……ずっと?」

「もちろんだ」

彼の声に、風に揺れるユリの花が優しく応えるようだった。


――過去の悲しみは消えない。

――でも、今は確かに、変わらないものも一番近くにあって。


アルベルトにすがるようにリリーナは小さく身を委ね、二人の時間は穏やかに、でも確かに進み始めていた。





――後日談――



リリーナの自室は柔らかな午後の光に包まれていた。

窓辺には淡いピンクのユリが真っ白な花瓶に生けられ、光を受けて優雅な存在感を放っている。

大理石のテーブルの上には図鑑が広がり、リリーナは真剣な表情で読み進めている。


アルベルトはソファに腰掛け、リリーナを膝に乗せ、彼女の頭をそっと見下ろすように微笑んでいた。


両手はしっかりとリリーナの腰に回し、ぴったりとくっついたまま。

膝の上で、少し小さな体を預けるようにしているリリーナは、時折顔を上げてアルベルトに説明している。



()()、このレースがこの間博物館で見たドレスと同じデザインなのよ」

「ほう…()()は博識だな」


アルベルトは柔らかく微笑み、リリーナの頭を軽く撫でる。まるで世界で一番大事なものを見守るかのような視線に、リリーナは小さく頬を染めながら目を図鑑に戻した。


そのとき、部屋の扉が静かに開く音がした。


「……」


伯爵の登場だ。父親は二人の距離の近さに思わず眉をひそめた。

膝の上に座るリリーナと、その腰を抱くアルベルトの姿はあまりにも自然で、しかし年齢差を考えれば少し刺激的でもある。


「……結婚できる年齢までは、節度を守るように」


伯爵は注意する。


アルベルトは微笑みながら頭を軽く振った。その表情は照れるというより、「邪魔するな」と言わんばかりの落ち着き。


リリーナは目をぱちぱちさせ、少し驚いた様子で父親の言葉を受け止める。だがすぐにアルベルトの腕の中で、安心して小さく笑みを浮かべた。


「もちろんです……ね。アル」

「……」



リリーナが結婚できるまであと3年。

アルベルトの忍耐が試されるのであった。



読んでくださって有難うございます!

リリーナとアルベルトの穏やかな時間や、過去の清算を描いた短編でした。


現在連載中の長編『婚約破棄した元勇者、辺境でスローライフ…のはずが元魔王に押しかけられて慌ただしい!』も 投稿していますので、よろしければそちらも覗いてみてください。


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