第9話 海旅の終わりと父との再会
もし、あなたが「誰かの言葉に、そっと救われた記憶」を持っているのなら――
このお話は、きっとその記憶に触れるはずです。
名前を呼ばれること。
食卓を囲むこと。
感謝の言葉をもらうこと。
それらは、あまりに当たり前に見えて、
ときに魔法よりも人の心を動かすのかもしれません。
そう思いながら、書きてみました。
是非お読み下さい!
港が見えたとき、甲板にいた誰もが歓声を上げた。
朝の光を受けて、白い石造りの建物がまばゆく輝いていた。高く積まれた防波堤、その内側に広がる壮麗な街並み。大小さまざまな船が停泊し、人と荷が絶え間なく行き交っている。
ここは皇国最大の港、ルシエラ。
交易と軍事の要所として知られ、帝都への玄関口でもあるその街は、灰色の空に覆われた暗い魔都で魔王の娘として育った私にとっては、初めて訪れる“文明の中心”だった。
「……すごい……」
思わず、漏れた感嘆の声に、隣に立つユウトが微笑んだ。
魔都の灰色とは違う。ここには色がある。活気がある。人々の声が、音楽のように響いていた。
ーーーーー
やがて、帆船が港に接岸し、荷降ろしと下船が始まった。
これまで船に乗り合わせた、港町の人々が次々と甲板を降りていくなか、何人かが振り返って、私に深く頭を下げた。
そのなかの一人、あの少年の母親が、私の前に立った。
「サクラ様……いえ、サクラさん。本当に、ありがとうございました」
そう言って、両手で私の手を包み込む。
「あなたがいてくれたから、息子と、私たちは生きていられる。……あの夜の雨も、バレーナの時も、忘れません」
私は返す言葉を探しながら、ぎこちなく笑った。
「……私も、皆と過ごせて……嬉しかったです」
「またどこかで会えたら、お茶でもご一緒しましょうね」
「ふふ、はい。……ぜひ」
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人々が去っていき、港の喧騒に包まれるなか、ユウトの護衛の一人が近づいてくる。
「殿下。領主代理がお迎えにお越しです」
ユウトが頷き、数歩前へ出ると、絹の外套をまとった中年の貴族が、数名の従者を連れて姿を現した。
「ユウト殿下……このルシエラの地にご無事でお戻りとの報せ、何よりの朗報でございます。この度の魔王の侵攻により、殿下が滞在しておられたネレイアは一時、火の海に包まれましたが、皇国軍の精鋭により魔王軍を押し戻してございます。」
心から安堵するユウトとその護衛たち。
先ほど下船した港町—ネレイアの人々も家に帰れることだろう。
「ありがとう、アレン卿。ご心配をかけたな」
貴族は丁重に頭を下げ、続けた。
「本日はさぞお疲れでしょう。よろしければ、今宵は我が家にておくつろぎを。ささやかですが、お食事もご用意させていただきます」
「それはありがたい。……サクラ、君もよければ一緒に来ないか?」
不意に名を呼ばれて、私は少し戸惑った。
私の名を、まるで当然のように呼ぶ彼の声。それが、胸の奥にやわらかく届く。
「………私も……いいの?」
「もちろんだよ。……むしろ、来てくれたら嬉しい」
その言葉に、私は迷いながらも頷いた。
「うん……ありがとう」
ーーーーー
貴族の馬車に揺られて辿り着いた屋敷は、重厚でありながらもどこか落ち着いた雰囲気だった。
用意された夕食は、豪奢ではないが温かく、心が安らぐものだった。
食卓には、笑い声があった。
料理の名前に戸惑う私を見て、護衛の一人が冗談を飛ばす。それに乗って、別の者が陽気に返す。ユウトは控えめに笑いながら、私の皿に肉を取り分けてくれた。
……ああ、これが“普通の食卓”なのか。
私は、ふと、かつての自分を思い出していた。
魔王の居城、石の大広間。冷え切った金属の食器。沈黙と気配だけが支配する食卓。
魔王である父と目を合わせることはなく、私を置いて死んだ母の席が寂しく空いている。
なにを口にしても味がしなかった。食事とは、義務のようなものだった。
それに比べて、今この場にある空気のなんとあたたかいことか。
「……夕食って、こんなに楽しかったんだね」
思わずつぶやいた言葉に、ユウトが優しく微笑んだ。
ーーーーー
やがて、夜が更けると、私たちはそれぞれの客間へと案内された。
与えられた部屋は広く、窓にはレースのカーテンがかかっていた。
私は、静かに窓を開けた。
夜風がそっと頬を撫で、遠くで波の音がかすかに聞こえる。
空には星が瞬き、港の灯りが水面に反射して揺れていた。
――美しい夜だった。
けれど、その静けさは長く続かなかった。
ひときわ強い風が吹いた、その刹那。
背後に、気配が生まれた。
部屋の隅に、闇が揺れ、ひとりの男の影が立っていた。
――魔王。
私の父。かつて、世界を焼いた存在。
そして、ネレイアを襲い、私とユウトの船旅の原因を作った人。
彼は、静かにこちらを見つめていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
このお話では、サクラにとっての“日常”との出会い、
そしてそれが、どれほど彼女の心を揺らしたかを描きました。
自分の名前が“恐れ”や“呪い”ではなく、“感謝”や“笑顔”とともに呼ばれる。
それは、彼女にとって人生で初めての体験だったのだと思います。
しかしその温もりの夜に、再び彼女の“過去”が現れます。
魔王――父との再会は、これからのサクラの選択に大きな影を落とすことでしょう。
次回は、その「対峙」と「決断」を描いていきます。
よろしければ、引き続きお付き合いください。