第6話 “魔王の娘”
深く、暗い海の底で、
少女は“運命”ではなく“意志”によって選ばれる。
それは、過去を赦すことではない。
ただ、過去に縛られず、自分の名で未来を切り開くという選択。
もし、あなたが“誰かの子”としてではなく、
“自分自身”として生きる物語に心惹かれるなら、
この章は、きっとあなたに届くはずです…届くといいな!!
海を見つめるユウトの背中には、かすかに震えがあった。
私が“魔王の娘”だと知ったとき――その視線を受け止めて、私よりも傷ついたのは、きっと彼だった。
彼は何も言わず、ただ拳を握りしめていた。血が滲むほどに爪を立て、自分の無力さを噛みしめているように。
……私のせいで、彼の世界は、壊れてしまったのかもしれない。
⸻
聖獣の巣は、島の北端にそびえる断崖の底だった。
波が何千年もかけて削り出した、太古の海の裂け目。
私は縄で縛られたまま、その縁に立たされた。背後では、島の民が祈りを捧げている。
視線の先には、ユウトがいた。
怒りと悲しみが混ざりあった目で、私を見ていた。声を出すこともできず、拳に爪を食い込ませて。
それを見て、
私は、小さく微笑んだ。
そして、黙って身を投げた。
⸻
冷たい海が、私の全身を呑み込んだ。
深く、深く、闇へと沈みながら、私は魔力を解き放つ。
紫の光が縄を焼き切り、泡となって散る。
呪いのように絡みついていた力は、それでも今の私を守ってくれていた。
――そのとき、気配が変わった。
水の底、黒曜石の鱗が光を拒むように現れた。
翡翠を濃く溶かしたような双眸。胸には珊瑚の瘢痕、背に刻まれた魔法陣。
その姿はまるで、海そのものが意志を持ったかのようだった。
ーー海竜
「……余計な目があるな……」
低く響く声が、海を震わせた。
「アドラメレクよ。用があるなら出てこい。影から覗き見るとは、器が小さいな」
次の瞬間、空間にひびが走るような音がした。
胸を締めつけていた“視線”が、確かに断ち切られた。
「……今のは……」
「お前の父、魔王アドラメレクだ。あの者は、常にお前を見張っていた。
何を恐れていたのか、何を望んでいたのか――我にもわからぬがな」
私は何も言えず、ただ海竜を見つめていた。
「さて……贄よ」
その声に、怒りが混じっていた。
「お前は、あの者の娘。我ら竜の民を焼いた呪いの血。
贄として、その罪を少しでも償わせるつもりだったが……」
「違います」
私は言った。
「私は“サクラ”。誰かの代わりではない。」
「私達が乗る船が島に来たのは、舵が壊れたせい。島の民を説得し、捕まえた人たちを無事に解放するように伝えてほしい。」
海が静まり返る。
「ーー名など、呪いを洗えはせぬ」
「島の民は捕らえた者達を既に解放しておる。しかし、お前には、ここで血の償いをしてもらおう」
海竜の尾が、怒りのごとく水を裂いた。
轟音のような衝撃が押し寄せ、海そのものが怒りに震える。
私は、とっさに魔力を展開した。
攻撃のためではない。ただ、自分を守るだけの、最小限の盾。
巨大な顎が迫る。
息を呑む間もなく、牙が光を裂いた――
私は、ほんのわずかに力を放った。
紫の奔流が、海を震わせ、海竜の動きを封じる。
海水が凍るように静まり返る。巨体が止まった。
ただ、止めた。それだけ。
海竜の瞳が、静かに私を見つめる。
「魔王アドラメレクを遥かに凌ぐ力を持つか……魔族と人が成した魔王の子よ。」
「ーー我を殺すか」
「殺さない」
私は、ゆっくりと頭を振った。
「私は、“サクラ”。
父とあなたが過去に殺し合い、憎しみ合ったとしても――私は、違う道を歩みたい」
沈黙。海の底にすら、波が立たなかった。
そして――
「本当に違う道を歩めると思うておるのか…」
海流が静かに問う。
「……ならば、見せてやろう。“血”が何を刻んだかを」
その言葉とともに、私の意識に映像が流れ込んできた。
――かつて、大陸と海が争った時代。
魔王の軍は海を裂き、島々を焼いた。
海竜や人間は力を合わせ、仲間を守るため、多くの命を呑み込み、魔王と刃を交えた。
だが、魔王は、突然、剣を引いた。
「……それは、一人の人間の姫によるものだった」
「……お母さん……?」
「アネモネ。人として生まれ、魔王の心に火を灯した存在。」
「だが彼女は、変化を恐れた人間たちに殺された。勇者との輪廻があれば、魔王は滅ぼせるからの」
「ーー弱ったところを狙われ、毒を盛られ、呆気ない死だった」
出産で命を落としたのではなかった。
母は、父に希望を与えた唯一の存在は、人の手によって失われてしまったのだ。
「魔王は失望し、人を憎み、輪廻を呪った。そして、すべてを滅ぼそうとした」
……そうだったのか。
父が人を憎む理由。
その理由は、愛を奪われたから――。
「お前は魔王の娘であり、アネモネの娘でもある。力と慈愛、ふたつの血を宿す者だ」
海竜の声が静まる。
「魔王と勇者は、世界の歪みだ。何度も転生し、争いを繰り返してきた。
だが、アネモネはその輪廻を断とうとした。
そして、お前は、いずれ魔王として、それを継ぐことになる」
私は、胸に手を当てた。
この名に誇りを持ちたかった。
私の名は“サクラ”。
「私は、破壊ではなく、共に生きる道を選びたい。
争いを終わらせたい。母を信じた父のように、私も誰かを信じたい」
長い沈黙が海を満たす。
やがて、海竜がゆっくりと目を閉じた。
「……お前の言葉に、偽りはないようだ」
「しかし、それはお前の父が歩み、踏み外した道。同じ轍を踏まぬとは限らん」
「ーーそれでも、私は信じたい」
巨体が、ゆっくりと沈み始める。
「ならば見せてもらおう、“サクラ”。その名を、自らの意志で守り抜け。
お前の生き様をしっかりと我に見せてみるが良い」
そして最後に、深く、深く沈みながら告げた。
「アドラメレクよ……見ておけ。
お前の娘は、ただの器ではない。
お前が失いかけたものを、再び世界にもたらすかもしれぬ」
その姿は、闇へと溶けて消えた。
――水面の向こうに、光が見えた。
私は、浮かび上がる。
名も、この先の道も
すべてを自分で選ぶために。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
このお話では、サクラが初めて“魔王の娘”という運命を正面から見つめ、
「サクラ」という名を、血からではなく意志で選ぶ物語を描きました。
また、魔王がなぜ人を憎むようになったのか。
サクラの母・アネモネの存在が、過去と現在、希望と絶望をつなぐ鍵となったことで、
物語はより深い層へと入っていきます。
赦しとは何か。
それは“罰の終わり”ではなく、“生き直しの始まり”なのかもしれません。
次回、サクラは海の上で新たな選択を迫られます。
再び地上へ――そしてユウトと向き合うとき、彼女は何を語るのでしょうか。
感想やブックマーク、とても励みになります。
次のお話、どうぞよろしくお願いします。