第5話 迷いながらも前に進む
見えた陸地に、人々は歓喜した。
けれど、その先に待っていたのは――楽園ではなかった。
物語は、“血”と“意志”の狭間で、大きく動き出す。
陸が見えたとき、船の皆は心の底からほっとした。
しかし、その“安堵”は長く続かなかった。
島は想像していたよりもずっと、異様だった。
港町とは似ても似つかない。
鬱蒼としたジャングルが海岸ぎりぎりまで迫り出し、潮に洗われた岩礁が牙のように海から突き出ている。
まるで、この島そのものが、外から来る者を拒んでいるように見えた。
「浅瀬や岩礁があるかもしれない。慎重に入らないと船が座礁する!」
ユウトが声を張り上げる。彼の声は落ち着いていた。
疲れ果てているはずなのに、それでも彼は冷静に、皆を守ろうとしている。
「慌てるな! 上陸を急げば危険だ。まず安全な入り江を見つけて、錨を下ろす!」
そう、彼はずっと、そうやって、皆を導いてきた。
飢えにも渇きにも打ち勝つために、誰よりも先に動いてきた。
でも、もう限界だったのだ。――皆の、心の方が。
「我慢できるかよ! 水があるかもしれないなら、今すぐ行くべきだろ!」
「子どもが死んじまう前に……!」
ユウトの言葉に、耳を傾けなかった一部の人々は、船に備え付けてあるボートを勝手に下ろし始めた。そして、何とか浜辺に行き着くと、ボートを降りて、森のほうへと進んでいった。
ユウトは唇を噛み締めながら、じっとそれを見ていた。
あの人たちの目に映っていたのは、希望ではなく、絶望だったのだろう。
それを救おうとするユウトの背中が、あまりにも頼りなく見えるほどに、皆の疲弊は深かった。
結局、ユウトは護衛たちや、それでも船に残ってくれた港町の人々と協力しながら、船から錨を打ち、入り江に慎重に錨泊した。
陽が落ちかけていた。
彼の眉間には深い皺が寄っていて、いつもなら冗談の一つでも言うような場面でも、淡々と指示を出すだけだった。
ユウトは、港町の人々に船に残るように伝えた後、護衛たちを連れ、すぐに森へ入る。私も、その後を追った。
森は濃密で、息苦しいほどの湿気に包まれていた。
葉が重なり合って空を隠し、どこからか動物の鳴き声がしていた。
――そして。
「……これは、矢か?」
ユウトがつぶやくように言った。
木の幹に突き立てられた一本の矢。石を削った先端に、蔦が巻かれていた。
明らかに、島に住む“誰か”の手によるものだった。
地面には罠の跡。ロープの切れ端。
足跡の先は、ジャングルの奥へと続いていて――その先に、皆は無意識に足を向けそうになった。
でも、それをユウトが静止する。
「ダメだ。もう暗くなる。これ以上進むのは、あまりにも危険だ。それに、船に残した人たちもいる。」
夜は、船に戻って明かした。
森で水と果物を少しだけ確保し、人々に分け与える。
皆、眠れない夜だった。小さな子供が泣いている。
朝。
森の影から、法螺の音がした。海霧を割るような低い響きが、胸の奥まで届く。
砂の上に、褐色の肌の人々が現れた。胴と頬に鱗のような刺青。腰には貝の飾り、手には黒曜石の槍とサメ歯の棍棒。
彼らの鋭い視線は、言葉よりも早く、私たちへの明らかな敵意を帯びていた。
ユウトは両手を上げ、わざとゆっくりと一歩踏み出す。水筒と乾いた果実を砂に置き、手ぶらであることを示す。
「敵意はない。水を分け合いたいだけだ」
当然、通じはしない。それでも彼は、言葉の形を諦めない。
海の向こうから、さらに十数名が現れた。
鱗の彫り物が並ぶ木柱の間から、白髪の老人が歩み出る。背筋はまっすぐで、目は海の底のように暗い。
「オマエタチ……聖域ニ、入ッタ。掟、ヤブル者――聖獣サマ、エサ」
カタコトの声が、法のりのように乾いた。
ユウトが一歩出る。
「待ってくれ。行方の知れない仲間を返してほしい。どうすればいい?」
老人は空気を吸い込み、胸の奥で太鼓のように短く息を打つ。周囲の戦士たちが矢を上げ、沈黙が落ちた。
「聖獣サマ、言ッタ……強イチカラノ女、イル。ソノ女、ニエ」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
ユウトが前へ出て叫ぶ。
その瞬間、あたりの空気が変わった。
ざわめき、視線。
それらすべてが、私一人に向けられていた。
恐怖、嫌悪、怒り、そして――あからさまな“憎しみ”。
「あいつ……魔王の娘なんだろ?」
「おれたちの大切な町を焼いたのは……あいつの父親だ」
「責任とれよ……」
「家を返して」
「ニエにしろ……」
声が、連鎖していく。
目の前が、ぐらりと揺れた気がした。
私は、生まれてから何度もこういう視線を浴びてきた。
魔王の娘だというだけで、存在ごと否定されるような眼差し。
私は違う、と言いたかった。
でも、私の中の“血”は、消せない。
心が、きしむ。
「やめろ!!」
ユウトが、絶叫するように叫んだ。
その声に、私は思わず振り返った。
「彼女は関係ない! あれだけの魔力を持ちながら、ずっと黙ってたんだぞ! 誰かを傷つけたか!? 違うだろ!」
彼の声は震えていた。怒りではなく、必死さ。守ろうとする強さが、声に込められていた。
「……いいの、ユウト」
私は一歩、前に出た。
「私が、変わりに贄になる」
ユウトが、こんなにも守ろうとしている人々。
なら、私が代わりになるしかない。
私は、笑ったつもりだった。
けれど、あの瞬間、ユウトが見せた顔を、私は忘れられない。
彼の目は、何よりも苦しそうだった。
怒りでも、悲しみでもない――自分の無力を呪うような、深い絶望の色だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
陸地が見えた時の安堵は、束の間のものでした。
人々の心の渇きは、もしかすると海より深かったのかもしれません。
サクラが選んだ“贄”としての行動は、
彼女自身の罪悪感と赦されたいという想い、そして他者への慈しみが交錯した結果です。
そしてユウト。
彼の叫びには、彼なりの誠実と不器用な優しさが滲んでいたはずです。
次回、サクラは“聖獣”と対峙します。
命を賭けた対話が始まります。
どうか、続きを見届けていただけたら幸いです。
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