第4話 決心
渇ききった海の上で、ただ風に流される日々。
飢え、渇き、諦めかけた人々の中で、
彼女だけは、苦しまなかった。
それが“力”であるなら。
その力を使うことは、救いなのか、それとも裏切りなのか。
今、彼女は選ばなければならない。
誰かの命を、生かすために。自分の真実を、さらけ出して。
黒背のバレーナに襲われてから、五日目の朝。
船は、舵を失ったまま、風の気まぐれに身を任せて漂っていた。
もはや人の意思で進路を決めることはできず、ただ潮の流れと風の気分次第だった。
最初は、魔物から逃れるようにして飛び出したこの海も、今ではただの牢獄だった。
空は抜けるように青く、雲ひとつない晴天。――それが、逆に人々を追い詰めていた。
水が尽きたのは三日前だった。
わずかに残っていた雨水も分け合って飲み尽くし、いまや船にある液体は、人々が流す涙くらいのものだった。
誰もが、無言だった。
喋る気力も、喉の潤いも残っていなかった。
それでもユウトだけは、声を張り続けていた。
「大丈夫だ。星図は合ってる。風の流れも……いける。あと少しで島が見えるはずだ」
説得というより、自分自身への言い聞かせに近かった。
彼の目には、希望の光がわずかに残っていたけれど、それが“希望”であることに、彼自身すら気づいていないようだった。
私は、その背中を見ていた。
黙って、静かに、何も言わずに。
私は……元気だった。
喉は乾かない。頭も痛くない。力もある。
皆が焦げるような熱と、ひりつくような渇きに耐えている中で、私の身体だけが、まるで別の世界に属しているようだった。
それは“魔王の血”のせいだ。
――飢えも、渇きも、ない。どんな環境でも生きていける身体
それは力であり、同時に呪いだった。
私は、平気でいることに罪悪感を覚えながらも、黙っていた。
力を使えば、この平穏は崩れる。
この船の中に“魔王の娘”がいると知れれば、皆は怯えるだろう。恐れ、距離を置くか、あるいは――。
それでも……
視線を横に向けた。
甲板の隅、母親の腕の中で、幼い男の子がうわ言のように繰り返していた。
「……つらいよ……なんで……ぼくたちが……」
母親はすでに意識がなかった。
その腕に重さはなく、ただ、子を守ろうとする記憶だけが残っていたように見えた。
私は、目を逸らした。
そして、何度目かの、問いが胸の奥で蠢いた。
……力を使うべき?
答えは分かっている。
しかし、私が雨を呼ぶということは、この船に“人ならざる者”がいることを皆に告げることになる。
簡単にはできない。
ここで魔王の娘ということが露見すれば、父からの命令にも影響するだろう。
でも、それよりも、心配なのだ。
――ユウトとの関係が。
私は、甲板で舵を操るユウトの背中を見つめた。
その肩越しに見える青空は、やけに遠く感じられた。
私の世界と、彼らの世界の境界線のように。
――もし明かしたら。
私が魔王の娘だと知ったら、彼はどうするだろう。
短い間ではあったが、彼は、出会ってから今まで、身分も素性も関係なく、ただ“私”という存在を見てくれていた。
魔王の娘として産まれた私にとって、私が“誰の娘か”ではなく、“私が何を思い、どう生きるか”を見てくれたのは、唯一、彼だけかも知れない。
嘘をついて手に入れたものだと分かってはいても、そんな存在を失うことが怖かった。
力を使ってしまえば、彼の目に私は、魔王の血を引く“怪物”として映ってしまうのではないか。
そんな恐れが、胸を締めつけて離さなかった。
でも……このままじゃ、みんな死ぬ
私は唇を噛んだ。
感情ではなく、理屈が、身体の奥で私を突き動かした。
それは、ユウト達を騙し、父からの命令にただ従っていたことへの"贖罪"かもしれない。
あるいは、ただ、目の前で苦しむ誰かを見ていたくなかっただけかもしれない。
――私は、何を守りたいのだろう。
父からの命令? 築きかけた信頼? それとも…
私は息を吸い込み、潮の香りと一緒に迷いを吞み込んだ。
耳に入るのは、軋む帆柱と、時おり波が船腹を叩く音だけ。
甲板を吹き抜ける風さえ、今は息を潜めているように感じられた。
誰も動かない。誰も声を出さない。
その沈黙が背中を押すようで、同時に引き留める鎖のようでもあった。
私の鼓動だけが、やけに大きく胸の奥で響いている。
「ユウト……」
私は、彼の背中に向かって声をかけた。
自分の声が、こんなにも甲板に響くとは思わなかった。
彼は振り返り、疲れた顔に微笑みの形を作った。
それが、ほんの一瞬で崩れるときまで――私は言葉を止められなかった。
「……私、あなたに、言ってなかったことがあるの」
「なに?」
「私の本当の名前はサクラ……魔王の娘。……あの港町を襲った、魔王の、娘よ」
ユウトの目が見開かれた。
その目の奥に、何かが崩れる音がしたような気がした。
でも、私は止まらなかった。
「今まで黙っていて、ごめんなさい。でも、私は……助けたいの。みんなに、生きていてほしい。」
空を仰ぎ、両手を広げる。
抑え込んでいた魔力が、指先から空へと抜けていく。
空が唸りをあげ、雲が湧き出し、稲妻が水平線を裂く。
そして――冷たい雨粒が、頬に落ちた。
やがて、それは大粒の雨へと変わった。
人々の歓声が、次々に上がった。
「雨だ!!」
「水だ、水だぞ!!」
「助かった……!」
私はその場に立ち尽くしながら、周囲の歓喜に耳を澄ませていた。
人々は笑い、泣き、空を見上げ、雨に舌を出して喜んでいた。
救われた顔。安堵の表情。――その中に、私はいなかった。
ふと、視線を感じて振り返る。
ユウトが、私を見ていた。
その目には……理解と疑問、安堵と恐れが、混ざり合っていた。
何かを言いたげに、でも言葉にならず、ただ、遠くを見るような目で、私のことを見ていた。
……もう、戻れないのかもしれない。
私は、そう思った。
けれど、構わなかった。
皆が生き延びたこと、それが私の選択の答えだった。
夜が明ける頃、雨は止み、空が再び晴れ渡った。
そして――
「鳥だ!」
誰かが叫んだ。
白い鳥が、帆の上を横切って飛んでいく。
その先に、緑の影――島の姿が見えた。
「見えたぞ! 陸だ!」
私は空を見上げ、鳥を追う視線を重ねながら、ユウトが私を見る目が変わって欲しくないと心から願っていた。
……でも、それは、あまりにも勝手な願いだったのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、「告白」と「雨」、そして「許されないかもしれない願い」を軸に、サクラの選択を描きました。
真実を告げるということは、信頼を壊すことかもしれません。
それでもなお、誰かを救いたいという想いが、力を行使する動機となる——
たとえ、もう戻れないとしても。
次に彼女を待つのは、“陸”か、それとも“新たな試練”か。
物語は、まだ海の途中です。
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