第3話 君を守りたくて
夜明け前、空と海の境が見えない時間。
ただ静かで、美しい──
けれど、その沈黙の奥に潜むものは、祝福ではなかった。
深海から這い出る“なにか”。
揺れる決断、隠された力。
海は、すべてを映す鏡のように、彼女の中に潜むものさえ暴き出していく――。
空と海の境が、まだわからない時間だった。
夜明け前の海は、不気味なほど静まり返っていた。風は止み、波は凪ぎ、まるで世界全体が息を潜めているかのようだった。
「……何かおかしい」
ユウトが低くつぶやいた。
この船に乗る者は皆、背筋にぞわりと冷たいものを感じていた。
さっきまで吹いていた風が、突如として止んだ。それは嵐の前の静けさに似ている。だが、これは嵐ではない。
──ドン。
鈍い音が、船底を叩いた。次の瞬間、船が小さく跳ね上がる。
反射的に船べりに手をかけ、視線を巡らせた。
暗い海の向こう、波間に黒い巨大な影が浮かんでいる。
最初は鯨のように見えた。だが、背中には骨のような棘が何本も突き出しており、潮を吹くこともなく、ただ無音のまま旋回していた。
さらに、頭部の輪郭は異様にとがり、眼だけが深紅に染まっている。
その目が、こちらを確実に捉えていた。
「……まさか……黒背のバレーナ……?」
誰かが呟いた。
「魔物の次は、深海の怪物だ!」
「なんでこんな目に……」
乗組員たちはパニックに陥る。ユウトの護衛たちがいくら宥めても混乱は収まらない。
「黒背のバレーナ……。古海の伝承にしか出てこない存在のはずだ……」
ユウトが冷静に口を開いた。
「背中の骨の突起、赤い目、潮を吹かない……そして沈黙の中で船を狩る。鯨に似ているが、違う。狙った獲物に“だけ”姿を見せる──殺す瞬間に」
その言葉に、甲板の空気が一段と重くなる。
怪物は、まるでこちらの恐怖を楽しむように、ゆっくりと周囲を旋回していた。
そして——突然、海を割って跳ね上がる。
巨体が宙を舞い、尾で海面を叩く。その衝撃で船が大きく傾き、悲鳴が響いた。
「帆を畳め! 舵で避ける!」
ユウトが叫び、護衛たちは懸命に動く。
だが、怪物は止まらなかった。
一瞬で海中に潜り、船底へと突進してくる。
私は見ていた。
ユウトが必死に舵を操っている姿を。
あの目に、恐れではなく、誰かを守るための決意が宿っていることを。
──このままでは、みんな死んでしまう。
私は迷っていた。
あの力を使えば、きっと倒せる。
でも……使えば、私が何者か知られてしまう。
“魔王の娘”であることを。
最初は、父の指示でユウトに近づいた。魔王の娘として。
でも、今は、
知られたくなかった。
魔王の娘であることが、ユウトに知られ、関係が壊れてしまうのが、怖くなっていた。
……でも──!
バレーナが再び尾を振り上げた。
船体が跳ね、ユウトの身体が宙に浮く。
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
「やめて……!!」
私の掌に、紫の光がにじみ、夜の闇に抗うように震えた。
私は両手を組み、紫の光を一点に収束させる。
その光は夜を裂き、バレーナの右目へとまっすぐに撃ち込まれた。
──ギィィイイイイイッ……!
悲鳴のような咆哮が海に響いた。
怪物はのたうち回り、尾で海面を叩きながら、痛みに満ちた動きで遠ざかっていく。
波が跳ね上がり、船は激しく揺れた。
そして——
甲板の後方が、鈍い音を立てて崩れる。
怪物の一撃で、船尾が砕かれていた。
「……舵が……ない……」
ユウトが、かすれた声で言った。
帆も風もある。だが、進む方向は、もう決められない。
私は空を見上げた。
夜が明け、水平線の向こうに、かすかな光が差し始めていた。
バレーナは去った。
そして、私は、力を使ってしまった。
ユウトは……あの光を見ていた?
それとも気づいていないふりをしているだけ?
もしかして、誰かに見られていないだろうか……。
ふと、後ろから視線を感じた。
振り返ると、ユウトがこちらを見ていた。
その瞳には、疲労と安堵、そして……言葉にできない、わずかな疑念が混じっているように見えた。
でも、彼は何も言わなかった。
ただ、静かに視線を外した。
もし、彼がすべてを知っていたとしたら——
どんな顔をして、私と向き合うのだろう。
そのときだった。
波間に、黒い影が一瞬だけ揺らいだ。
傷ついたはずの巨体が、海の底へとゆっくり沈んでいく……そう見えた、けれど——
それはまるで、霧に溶けるように、跡形もなく消えていった。
……まるで、“また来る”とでも言うかのように。
ただ、ひとつだけ確かなこと。
……みんな、生き延びた。
そして、残ったのは──
舵を失った船と、静まり返った海だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
このお話では、サクラが“選ばなければならなかった瞬間”を描きました。
守りたかった想いの代わりに、彼女は選択します――力の行使を。
そして、舵を失った船は、静かな海を漂い始めます。
ユウトは、あの光を……見ていたのでしょうか?
もし気づいていたとしたら、彼はどうするのか――。
次回、流れ着くのは楽園か、地獄か。
あるいは、**“二人の運命を大きく変える出会い”**かもしれません。
少しでも心に残るものがあれば、ぜひ感想を聞かせてください。
次回も、心を込めてお届けします。