第22話 引き裂いてしまった怪物のつがい
怒りだけではない。
その咆哮には、喪失と、悲しみが滲んでいた。
バレーナの“つがい”との邂逅。
それは、かつて命を奪った者と、奪われた者の再会だった。
力を失ったサクラと、力を手にしたユウト。
ふたりの立場が逆転する中で、それでも変わらぬ“想い”があった。
──海が、ざわめいている。
水平線の向こう。まだ朝焼けの残る空の下、波がひときわ高くうねっていた。潮の流れが逆巻き、帆が不穏に軋む。
海を割り、飛沫を上げながら、巨大な黒い塊が跳ね上がる。
ユウトが険しい顔をした。
「……来るぞ」
低く落とされたその声だけで、私は息を詰めた。
水面に広がる飛沫の向こう。その輪郭が、ゆっくりと──けれど確かに姿を現していく。
鱗に覆われた巨大な背中。海そのもののような漆黒の肌。
……それは、バレーナによく似ていた。
バレーナ。
──あれを殺したのは、私。
だからこそ、わかる。
これは、バレーナの“つがい”。
その目が、船を、私たちを、まっすぐに見据えていた。
鋭く、深く、沈んだ怒りを湛えている。
けれどそれだけじゃない。悲しみのような、欠けたものを埋めようとするような気配が、静かに滲んでいた。
私は、動けなかった。
この身体に、もう魔力はほとんど残っていない。
ペンダントの三日月も、その役目を終えたかのように、何の反応も示さない。
……だから、何もできない。
ただ、立ち尽くすしかなかった。
「下がってて」
ユウトの声が、すぐそばから聞こえた。
気づけば彼が、私を庇うように前へ出て、船の穂先で剣を構えていた。
「……危ないわ」
思わず声が漏れた。でも彼は、振り返らなかった。
背中越しに、言葉だけが届く。
「大丈夫。僕がやる。君は……無理をするな」
その言葉が、苦しかった。
悔しさじゃない。情けなさでもない。
ただ、彼が傷つくのが怖かった。
怪物が吠えた。
海が震えるほどの咆哮。波が高く跳ね、船体が軋む。
その咆哮は、まるで言葉のように響いてきた。
「なぜ殺した。なぜ、奪った。わたしの半身を……」
咆哮は、怒りだけじゃない。
あれも、きっと“奪われた”まま、ただ嘆いていたのだ。
黒い塊は、船底を何度も往復し、攻撃の機会をうかがっている。
私は、帆の柱にしがみつくようにして立ち尽くしていた。
ユウトが剣を構え直す。
その姿は、かつての彼とはまるで違って見えた。
迷いがない。震えも、躊躇いもなかった。
ただひたすらに、誰かを守るための剣。
何かが、胸の奥で軋んだ。
ざらついた感覚。息が詰まる。
ユウトのために何もできないことが、こんなにも苦しいなんて。
怪物が跳ね上がる。
黒い背中が空を裂き、そのまま船をめがけて突進してくる。
ユウトが叫んだ。
「伏せろ、サクラ!!」
その声に、私は体を低くした。
風が裂ける。
光が走る。
黒い塊と、青白い光が交錯する。
彼の剣が、怪物の頭部を貫いたのが見えた。
黒い塊は、おびただしいほどの黒い血を海面に漂わせながら、船底へと潜る。
……まだ、諦めていない。
どれだけ傷ついても、必ず復讐する。
そう言っているようだった。
もう一度、海が割れる。
空気を揺るがし、雲を突き破るほどの咆哮。
「つがいを、バレーナを返せ」
そう聞こえた気がした。
そのあとの光景は、焼きついて離れなかった。
ユウトが甲板を蹴り、黒い塊と交錯する。
咆哮が途切れ、波が沈黙し、黒い影が静かに、海の底へと沈んでいった。
海面には、おびただしいほどの黒い血が残された。
……音が、消えた。
あんなに騒がしかった世界が、嘘みたいに静かだった。
波の音も、風の音も、遠くへ行ってしまったように思えた。
ユウトは、剣を持ったまま、ゆっくりと膝をついた。
私は、駆け寄ることもできず、その場に立ち尽くしていた。
彼は、何も言わなかった。
ただ静かに、海を見ていた。
どこか、とても遠くを見ているような瞳だった。
私は、そっと彼の隣にしゃがみ込む。
そして、黙ってその手を取った。
冷たくて、少しだけ震えていた。
それでも私は、何も言わなかった。
言葉にしたら、壊れてしまいそうな気がした。
ただ、その手を握る。
それは、私に残された唯一の“祈り”だった。
でも、きっとそれだけは、届くと信じた。
波が、戻ってくる音がした。
雲の向こうに、太陽が姿を見せようとしていた。
その光はまだ見えないけれど、それでも、確かにそこにある。
ふと、ユウトがこちらを見た。
私の指を、少しだけ強く握り返してくれる。
私は目を細め、そっと空を見上げた。
まだ少しだけ、夜の名残が残っている。
その薄い雲の向こうに、光が差し始めていた。
そして私は、ほんのわずかに、笑った。
彼に気づかれないように、小さく、静かに。
痛みとやさしさは、たしかにここにあった。
何も語らずに、それでも届くものが、たしかにあった。
……そう思えたことが、嬉しかった。
──その直後だった。
船底が、かすかに揺れた。
まるで、遠く深い場所から、何かがこちらを“見ている”ような感覚。
ユウトも私も、息を呑んで海を見つめる。
静かな水平線の向こう。
何かがこちらをうかがっていた。
それは、かつて深海で出会った“聖なる眼差し”によく似ていた。
「風が変わった──」
ユウトが呟く。
そう、確かに思った。
これは、過去でも、怒りでもない。
もっと遠くて、深くて……
“私たちの旅”を見ているような、そんな眼差し。
喪失は、時に人を怪物に変えてしまう。
でも、その奥底には、必ず“悲しみ”という静かな感情があるのだと思います。
今回は、ユウトがサクラを守る番。
力の対称が変わっても、彼らの“想い”は変わらずそこにありました。
そして物語は、次なる“深海の記憶”へ。
見つめ返すような聖なる眼差しが、ふたりの旅の行方を問おうとしています。
次回、第23話──再びあの「海竜」が現れます。