第17話 君を探して
この話は、3章をサクラ視点で書いたものです。
奪われた名前。失われた記憶。
すべてを忘れた少年のもとに、彼女は現れる。
「あなたの名前は、ユウト」
数百年の時を越えて、ようやく辿り着いた“再会”の物語が、ここから始まります。
このお話では、静かな牢獄の中で交わされた“たった一つの名前”の重みを描いています。
この物語の最初の風を、どうか感じていただけますように。
……風が、吹いた。
それは、泣き声のようだった。
牢の高窓から流れ込む夜風が、ひと筋の裂け目をなぞるように私の髪を揺らす。
そのとき私は、確かに感じた。
世界が、ようやく応えたのだと。
――やっと、見つけた。
私は、そこに立っていた。
鉄格子の向こうに、彼がいた。
黒髪の少年。
うつむいたまま、静かに呼吸をしている――かつての彼。
その姿を見た瞬間、心臓が跳ねた。
胸が軋み、喉が詰まり、全身が熱を帯びる。
何千の夢を見て、幾度も目覚めては絶望して、
それでも探して、求めて、願い続けた。
そして今、ようやく――見つけた。
「……こっち」
やっと出た声は、風と同じ、泣き声に似ていた。
喜びが身体中からあふれて、叫び出したいほどだった。
けれど彼は、きっと何も覚えていない。
私はその気持ちを胸に押さえつけるようにして、微笑んだ。
もう二度と、失いたくなかったから。
彼が顔を上げる。
その瞳と、目が合った。
その瞬間、涙がこぼれそうになった。
何百年分の感情が、一気に込み上げてくる。
「あなたを迎えに来たの」
これ以上の言葉は、きっと声が震えてしまう。
だから私は、ただ静かに微笑んだ。
「……ユウト。」
名前を呼ぶ、その一語に、胸が軋んだ。
たとえ覚えていなくてもいい。
たとえ失われていても構わない。
私が、私だけが、あなたの名を呼ぶ。
「……今、何て言った?」
「ユウト。あなたの名前よ。」
その名前の響きに、世界が戻ってきたようだった。
この子が生きていてくれるだけで、私はもう、それだけで嬉しかった。
でも、それ以上を願ってしまう。
欲深く、執着深く。
私の中の“想い”が、もうどうしようもないほどに膨れ上がっていた。
「あなたの名前はユウトよ。海へ向かう風のような名前。」
あなたが忘れても、私は忘れない。
あなたが消えても、私は追いかける。
あなたが生きている限り、何度でも――
私は、あなたの名を呼ぶ。
彼は、まだ警戒していた。
信じていいのか、それとも罠か。
そんな曇りが、瞳の奥に潜んでいた。
……それでいい。
すぐにすべてを思い出さなくていい。
だから私は、静かに手を伸ばす。
壊さないように、驚かせないように。
でも、触れたくてたまらなかった。
「キスしてくれたら、お前を信じてついていく。」
ああ、そうだった。
そうやって冗談でごまかして、恥ずかしがって、
でも誰よりも優しくて、誰かのために立ち上がれる人――
私は、本気で頷いた。
「……分かったわ。」
その瞬間、彼が顔を真っ赤にして狼狽えるのが、
可愛くて、たまらなかった。
笑いそうになった。
でも、それ以上に、泣きそうでもあった。
どれだけ夢見てきたか、分かる?
もう一度こうして、あなたと会えることを。
名前を呼んで、見つめ返されて、
そして――あなたが私の言葉に応えてくれる日を。
「あなたって、本当に……面倒な人ね。」
そう言いながら、胸が熱くて、苦しくて、
それでも私は笑っていた。
だって、あなたが生きている。
それだけで、こんなにも嬉しいなんて。
――私は、あなたを愛している。
もう一度、あなたを愛するために、ここに来たのだから。
そのとき、怒声が響いた。
「ユウト、手を出して!」
私は叫んだ。願うように、祈るように。
そして、彼が手を伸ばしてくれた瞬間。
私は、また世界を取り戻した気がした。
その手は、少し震えていた。
でも私は、ためらいなく、ぎゅっと握り返す。
その瞬間――胸の奥で、何かが崩れて、あふれた。
ずっと閉じ込めていた想いが、波のように押し寄せてきて、
もう、笑うしかなかった。泣いてしまいそうだったから。
「今度こそ、離さない」
声には出さなかった。
でも、きっと伝わっていると信じている。
この手を通じて、私のすべてが。
……でも、本当は、まだ言えていないことがある。
伝えなければならない言葉が、胸の中で息を潜めている。
それを伝えられるその日まで――
私は、彼の隣にいようと決めた。
あの日、雲を裂いて見つけたたった一つの光。
その光が、また私を導いてくれると信じている。
だって、私はもう、名前を呼べるのだから。
何度でも。
どんな運命に呑まれても。
――あなたの名前を。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
サクラにとってこの瞬間は、ただの出会いではなく、“ようやく取り戻せた再会”でした。
それをユウトが覚えていなくても、彼女は決して責めません。
彼が「そこにいる」ことだけで、彼女は生きていける――それほどに深い想いを、このお話では描かせていただきました。
少しずつ、過去と現在が交差していきます。
物語の中で、彼らがどんな選択をし、何を守るのかを、見届けていただけたら嬉しいです。
次回のお話では「名前」と「信頼」をめぐる、ふたりの関係がもう一歩動き出します。
引き続きお付き合いいただけたら幸いです。