間話2-4 やっと思い出した
名前を取り戻した少年は、
少女とともに、忘れられた世界の扉を叩く。
過去と未来が交差する、ほんの一瞬の光。
――この章では、その“はじまり”を描きます。
街を抜けた僕らは、夜の荒野に踏み出した。
背後には、まだ鐘の音が遠く響き渡っている。
その音は、鉄の扉が閉まる響きにも似ていた。
一度でも振り返れば、あの冷たい奴隷生活に逆戻りだと、嫌でも思い知らされる。
鞭と鎖、泥と血の匂いが染みついた日々に。
だから、息が切れようと、足の裏が裂けようと、ただ前を向くしかなかった。
夜空には、分厚い雲が重たく垂れ込めている。
星は一つも見えない。
まるで空そのものが死んだように、深い闇に沈んでいた。
風が吹き抜けるたび、乾いた砂が足首にまとわりつき、骨にまで冷たさが沁みる。
何もかもが灰色で、冷たくて、無音だった。
そんな中で、唯一の温もりは少女の手だった。
彼女の手は、小さくて、けれど驚くほどしっかりしている。
指先から伝わる体温は、まるで生きていることを証明する唯一の灯のようだった。
――不思議だ。
この世界で人を信じることが、一番怖いはずなのに。
裏切りは日常で、信頼は命取りになる。
だから、誰の手も握らず、心を閉ざし、生き延びてきた。
それなのに、彼女の手だけは、離したくないと思う。
その温もりが、「大丈夫だ、前に進め」と背中を押してくれる気がした。
ーーーーー
どれほど歩いただろう。
荒野を抜けたとき、世界は一面の白に変わっていた。
雪ではない。
触れてみると、指先でざらりと砕けた。乾いた苦味が舌に広がる。塩に似ているが、違う。もっと硬く、冷たい。
「ここは……」
「お前、本当に何者なんだ。……俺に、何をさせたい。」
少女は振り返らず、静かに答えた。
「ユウト。あなたは、海の帝国の血を継ぐ最後の者。あなたの存在が、この世界の呪いを解く鍵なの。」
「はっ……」思わず乾いた笑いがこぼれた。
「俺が? 海の帝国の血? 笑わせるなよ。俺は、ただの汚れた奴隷だ。海なんか見たこともない。」
この大陸の誰もが、海は滅んだと信じている。
百年以上前、海は魔物と呪いに覆われ、人が近づくことすら許されなくなったと教えられてきた。
それ以来、誰も「海」を見たことはない。
僕自身、その存在を夢物語だと思っていた。
少女は振り返り、真っ直ぐに言った。
「見たことがなくても、心の奥では覚えているはずよ。あなたの血が、海を呼ぶ。」
その言葉に、胸の奥がざわめいた。
何かが、心臓の奥で波立っている。
――いや、気のせいだ。
僕が何かの特別だなんて、信じてまた裏切られたら、もう立ち上がれない。
思わず漏らすと、少女が振り返った。
翡翠色の瞳が、夜の闇の中でかすかに光る。
「ーー今も“海はある”。ただ、魔王の呪いで閉ざされて、触れられないだけ」
閉ざされている海。
言葉の意味を飲み込めず、僕は白い地表を見渡した。月も星も見えないはずなのに、白はほのかに光を返し、足元を幽かに照らしている。
一歩踏み出すたび、足裏でぱきり、と乾いた音がした。砕けた白い粉が靴底にまとわりつき、重さを増す。
「この白いのは、塩じゃないのか」
「“潮結晶”よ。海が押し留められて長い間、結界の外側にだけ析出した、呪いの副産物……触れすぎないで。体温で融けると皮膚を焼くから」
僕は慌てて足を払った。
潮結晶――そんなものが存在する世界を、僕は知らなかった。
さらに進むと、黒い線がいくつも並ぶのが見えた。近づくにつれ、それが巨大な船の影だと気づく。
かつて波に乗っていたであろう木造船が、結晶の白い大地に半ば飲み込まれ、骨のように突き立っている。帆柱は折れ、船体にはひびが走り、ところどころ黒く焦げたような痕が残っていた。
風が吹く。
崩れた帆柱が、金属のようなきしみを上げた。
生き物の最後のうめき声に似ていて、背筋が粟立つ。
――胸が痛い。
初めて見るはずの光景なのに、懐かしさが喉の奥を締めつける。
何か大事なものを忘れている。そんな確信だけが、熱のように胸に居座った。
「なぁ……お前、どうしてこんな場所を知ってるんだ」
船の残骸の間を歩きながら、僕は少女を横目に見た。
白い結晶を踏む音が、やけに大きく響く。
少女は少し黙り込んだ。風が髪を揺らし、その影が頬をかすめる。
やがて、僕の方を向いて、微笑んだ。
「……そういえば、まだ名乗ってなかったわね」
「名前?」
「サクラ。一面に咲き、そして散る、儚い花の名前」
サクラ。
荒涼とした白い世界の真ん中で、その名は妙にやさしく響いた。
「花の名前、か。……お前に、似合ってるよ」
言ったあとで少し気恥ずかしくなり、視線を外す。
サクラは何も言わず、ただ小さく息を吐くように笑って、再び前を向いた。
気がつけば、僕は彼女の背中ばかり見ていた。白い結晶の上に残る小さな足跡が、奇妙に愛おしい。
ーーーなぜか、その背中を見ていると「失いたくない」と思った。
潮結晶の上に残る小さな足跡。
風が運ぶ冷たさの中で、その存在だけが温度を持っていた。
「ここからよ。……“封海結界”の核――潮門の神殿がある」
断崖の縁に、黒い壁が立っていた。
夜よりも黒く、光を吸い込み、近づくほどに温度すら感じない。
それは「壁」というより、**海と陸を切り離す巨大な“硝子”**のようだった。
そして、その内部――暗さの向こうに、確かに“青”が揺れていた。
僕は息を呑む。
海は、そこにある。
ただ、触れられない。
結界が、呪いが、海と人の世界を断絶している。
「これが……」
「そう。魔王の呪いの“面”よ。神殿はこの結界の基底部に噛み合う形で建てられてる。誰も近づけないように、潮結晶で覆い尽くされてね」
サクラが結界の表面に触れかけ――やめた。
代わりに、ペンダントを掴み、僕の方を見た。
「ユウト。あなたの血が、ここを開ける。……本来、封じる役目も、開く役目も、あなたの一族の手の中にあったものだから」
喉が鳴った。
血。
僕は、ずっと“汚れた奴隷”だった。
だけど今、この黒い壁の向こうの“青”が、確かに胸の鼓動と同期している気がした。
「触ってみて。結界にじゃない。ここ――神殿への“鍵”に」
サクラが指さした先、黒い壁の根元に、石造りのアーチが口を開けていた。
天井は低く、潮結晶の蔦のようなものが張りついている。
アーチの中央に、ひびの入った紋章石が埋まっていた。
どこかで見たことのある、波と月の紋。
僕の指先は、無意識にそこへ伸びていた。
触れた瞬間――世界が反転する。
青。
風。
帆のはためく音。
白い甲板に立つ誰かが、笑って僕の名を呼ぶ。
――“ユウト”。
胸が熱くなり、膝が崩れかけた。
「ユウト!」
サクラの声が遠く聞こえる。
僕は息を吐き、指を離した。
ひび割れていた紋章石の隙間から、青い光が滲み出す。
それは海の色で、空の色で、どこか懐かしい“自由”の色だった。
――その時だ。
黒い光が、石の隙間から逆流した。
「下がって!」
サクラが僕の腕を引く。
黒い光は生き物のようにうねり、結晶を焦がし、空気を歪めた。
やがてそれは、霧となって形を持つ――獣の形に。
「魔王の“罠”……結界に触れた者を喰うよう、贄を待っていたのね」
獣の眼孔が赤く灯る。
喉の奥から漏れる唸りは、飢えと憎悪が混じった音だった。
僕は後退りし、周囲を見渡す。武器はない。
逃げ道も、ない。
「ユウト、下がって。私が――」
「なぁ……お前、何者なんだよ。」
言葉が喉から漏れた。
彼女は振り返り、淡く微笑む。
「私は……あなたを守る者。」
それだけを告げると、ペンダントに指を添えた。
サクラの瞳に赤が灯った。
ペンダントが震え、蒼と紅、二つの光が交錯する。
風が爆ぜ、黒い霧が悲鳴を上げる。
獣は一度引いた――が、消えない。
黒い光は、“結界の壁”そのものから補充されているのだ。
「……ぐ、っ……」
サクラの膝が揺れる。
肩で大きく息をし、顔色は雪のように白い。
「もうやめろ! お前、立ってるのもやっとじゃないか!」
「ここまで力を使うと、代償があるの。分かってる……でも、今は――」
獣が跳んだ。
僕は咄嗟にサクラの前へ出た。
何も持っていない。何も守れない。
それでも――ここで彼女を見捨てたら、僕はまた、あの牢屋の中の“無力な奴隷”に戻ってしまう。
「やめろォォッ!」
叫びと同時に、胸の奥が焼けるように熱くなった。
紋章石のひびから、今度は爆発的な蒼が迸る。
獣の影が、海の波に呑み込まれるみたいにかき消えた。
ーーー
静寂。
獣の影が、黒い霧となって消えた瞬間、僕の胸に強烈な痛みと共に記憶が流れ込んできた。
――海を駆ける船。
――サクラと並んで見た青い空。
――笑い合い、名を呼び合った日々。
目の前に、サクラの顔があった。
どれほど会いたかっただろう。
「……ユウト」
サクラが僕を見て、震える声で言う。
「ああ……俺の名前はユウトだ。
サクラ、俺は……お前と、海を旅していたんだな。」
「ようやく、会えたね」
サクラの目から、一筋の涙がこぼれた。
それは潮結晶の上に落ち、小さな青い波紋を広げた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
いよいよユウトの血の秘密と、「海」が失われた真相の一端が見えてきました。
サクラの過去や、なぜ彼女が“守る者”としてユウトを選んだのか――
次章では物語を一度、過去の時間軸に移し、
サクラの目線から見たこの世界と、魔王との因縁、彼女の記憶に迫っていきます。
ユウトの「目覚め」と対をなす、サクラの「決意」の章となりますので、ぜひ次回も読んでいただけたら嬉しいです。
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