間話2-3 脱出
手を握られた感触、風の音、夜を駆け抜けた痛みと息遣い。
名前を呼ばれた瞬間から、何かが変わった。
世界が急に動き出すとき、人は“希望”を信じられるのだろうか?
闇を抜けた先に、二人の旅が、始まる──
走る。
鞭で裂かれた古い傷が疼くたび、「信じるな」という声が頭に響く。
それでも少女の手の温度だけが、僕を前へ引きずっていく。
廊下の角を曲がる。松明の炎が壁に影を投げ、僕らの影が二つ、揺れながら伸びる。背後で怒号が割れ、鉄靴が石を踏み鳴らす音が近づいてくる。
「右!」
少女の指が先を差す。
僕は反射的に身体を倒し、彼女と同じ方向へ飛び込んだ。自分でも驚くほど素直に、だ。
――ここで置いていかれたら、どうする?
――ここで彼女が「冗談だった」と笑ったら?
もしかしたら、もっと酷い目に遭うかも知れない……
生きていられるだろうか。
息が荒い。肺が熱い。
けれど彼女は振り返るたび、確かに僕を見ている。
置いていく気なんて、少なくとも今はないように思える。
「なぁ」
声が勝手に漏れる。
「なんで俺なんだ。俺じゃなくてもいいだろ。もっと強そうなやつ、頭が回りそうなやつ、他に——」
「ユウトじゃないと、ダメなの」
即答だった。
何の迷いもない声。
それが、怖かった。
怖いのに、少しだけ、いや、痛いほど嬉しかった。
下層区画とその外を繋ぐ門の前には、槍を構えた兵士が二人。
門は一つしかない。奴隷の脱走を防止するためである。
逃げるには、ここを突破するしかないだろう。
もしかしたら、どちらか一方しか逃げられないかも知れない。
「俺が行く。……俺の顔は、この街じゃ“殴られ慣れてる”。一瞬で足元を崩せないなら、俺が囮になる」
「ダメ」
少女は僕の腕を強く掴んだ。
今までで一番強く。
まるで、“誰かを失う痛み”を知っている人間の手だった。
「あなたを失うくらいなら、私が囮になるほうがいい」
その言葉の重さに、息が止まる。
なぜ、そこまで。
なぜ、僕に。
――信じても、いいのか?
――もう一度だけでいい。
胸の奥の氷が、ひとひら溶けている気がする。
少女はペンダントに触れた。
翡翠の瞳が、月光を受けて深く光る。
兵士の足元の石畳が、ごく微かに震えた。
次の瞬間、突風。砂埃。視界が白く跳ねる。
兵士たちは目を覆い、咳き込み、槍を落とす。
「今!」
僕らは駆け抜けていた。
心臓が破裂しそうなほど早く鼓動を打ち、視界が白く弾けた。
―――
外の世界に出た瞬間、夜風が頬を撫でた。
僕は思わず立ち止まり、肩で息をした。
振り返ると、街の灯りが遠くに霞んでいる。
鐘の音がまだ鳴っているのに、なぜかあの音はもう僕を追ってこない気がした。
少女が僕の方を見て、微笑む。
「……ユウト、大丈夫?」
「……ああ。死ぬかと思ったけど、まだ生きてる。」
声が震えていた。
でも、その震えは恐怖だけじゃなかった。
胸の奥が熱い。
ずっと凍っていた何かが、今ようやく動き出したような感覚があった。
信じるのは、怖い。
でも、この手の温もりは、嘘じゃない。
「さあ、海へ行くわよ。」
「海なんて、本当にあるのかよ。」
「あなたが呼べば、きっと応える。」
少女の声は、波の音みたいに穏やかで、でも決して揺るがなかった。
僕は小さく息を吐き、彼女の手を見た。
握られたままの手の中に、初めて「希望」というものがある気がした。
「……わかった。行こう。」
自分の声が、どこか遠くから聞こえる気がした。
でも、それは確かに僕の意思だった。
夜風が吹き、雲の隙間から星空が一瞬だけ覗いた。
それはまるで、「ここから始まる」と告げる合図のようだった。
読んでくださり、本当にありがとうございました。
たった一つの「名前」が、
誰かの“生きる理由”になることがあります。
信じることが怖い。裏切られるのが怖い。
でも――
それでも誰かを信じて、前に進もうとした時、
世界は少しだけ、違って見えるのかもしれません。
この章では、ユウトという少年の“目覚め”を描きました。
ただ逃げるだけだった足に、「目的」が生まれ、
ただ呼ばれるだけだった名に、「意味」が宿る。
傷だらけの過去を持つ彼が、
一人の少女と出会い、手を取り、
初めて自分の意思で世界に踏み出した一歩――
この旅がどこへ向かうのか。
ぜひ、彼らと一緒に、見届けていただけたら嬉しいです。
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