第1話 君と出会い、運命が揺らぎ始めた
世界を壊すために生まれた少女がいた。
名前を偽り、感情を押し殺し、誰かを信じることも許されなかった。
彼女の役目はただ一つ。
帝国の皇子を欺き、破滅の道へ導くこと──
……だったはずなのに。
彼の手を取った、その瞬間から、世界は少しずつ、色を変えていった。
これは、魔王の娘として生まれた少女が、
運命に抗い、海と名を取り戻すまでの物語。
そして、すべての始まりは――
あの港町で、彼と出会った日から。
ーーー世界は静かだった。
石の城に閉じ込められた私の世界には、風も波もなかった。
窓の外には死んだような空が広がり、下を見下ろせば黒い霧が漂うだけ。
それでも私は、毎晩夢を見る。
母が歌ってくれた“海”の夢を。
「水平線っていうのよ。空と海がキスしているみたいに見える場所」
記憶の中の母は、いつも暖かい声でそう言った。
けれど、彼女は私を産んですぐに体調を崩し、私が物心ついた頃には、ベッドから起き上がることもできなくなり、間もなく命を落とした。
人間であった母が、魔王の娘を産むというのは、それほどの代償だったのだろう。
父──魔王は、私を“道具”としてしか見なかった。
「サクラ。お前の血は黒く、誇り高い。我が後継者として、魔族たちを導くのだ」
誇り?
そんなものを持った覚えはない。私は、ただの檻の中の獣。
私の中には、確かに魔王の力が流れている。だがそれは、私の望んだものではなかった。
私はただ、人のように笑ってみたかった。
水の音が聞きたかった。
風に吹かれて、知らない世界を歩いてみたかった。
そんな思いを、心の奥底に押し込んでいたあの日。
私は、父の命令で帝国の港町を訪れた。
目的は、ただ一つ。
──ユウト。
帝国の次期皇子であり、民から慕われる希望の存在。
父は言った。「その少年の素質を見極めろ。必要あらば操れ」と。
くだらない、と私は思った。
支配も、策略も、父のやり方にはもう飽き飽きしていた。
ーーーーー
港町の空気は、私にとって異世界そのものだった。
潮風は生ぬるく、遠くで船の帆がきしむ音がした。
人のざわめき。果物の香り。魚の血の匂い。
眩しいほどに生きている世界。
その中で、私は“目立ちすぎていた”。
長く伸びた白銀の髪を亜麻色に変え、深紅の瞳も魔法で翡翠色に見えるようにしたが、魔王の娘としての威圧的な雰囲気は、いくら装っても滲み出るようだ。
そして案の定、数人の粗暴な男たちに目をつけられた。
ーーーー
「こんな上玉、久々に見たな。おれたちといいことしようぜ?」
男たちは下卑た笑みを浮かべて近づいてくる。
私は無言で振り返る。全身に纏う魔力が、一瞬、揺れた。
吹き飛ばすのは簡単だった。指を鳴らせば、彼らの内臓を逆巻かせることだってできる。
だが、そんな力を使えば、この街に魔王の娘が来ていることが露見する。
任務の失敗──父の逆鱗。
「……鬱陶しい」
その瞬間、横合いから声が飛んだ。
「やめろ!その人が君たちなんかと関わる道理はない」
まるで英雄気取りのような、爽やかな声。
振り返ると、白いシャツを風にはためかせた少年が立っていた。
砂埃にまみれた石畳の上で、まっすぐこちらを見ていた。
──ユウト。
事前に肖像で見ていたはずなのに、実物の彼はまるで別人だった。
その眼差しはどこまでもまっすぐで、皇族にありがちな傲慢さが微塵もない。
……むしろ、眩しすぎて目障りだった。
「なんだぁ?」
男たちが笑う。
ユウトは無言で私の前に立ち、腕を広げた。
まるで、彼女が護られるべき存在であると、信じて疑わないかのように。
私は内心で舌打ちした。
ありがた迷惑とはこのこと。
魔王の娘が、人間の少年に、事もあろうに皇子に助けられるなんて、滑稽にもほどがある。
それでも、ユウトの前で力を使えば、父からの命令を遂行できなくなってしまう。
そう思っていた矢先、幸いなことに騒ぎを聞きつけた衛兵がすぐにやってきたため、男たちは去っていった。
ユウトはほっとしたように振り返り、「大丈夫?」と私に笑いかけた。
その笑顔に、私は答えなかった。
「……余計なことをしてくれてありがとう。でも、私なら一人で十分だった」
彼はきょとんとした顔をして、そして、くすっと笑った。
「そうかもね。でも、助けたくなったんだよ。なんとなく」
その言葉に、私は背筋がざわついた。
なんとなく──そんな感情で、私は助けられる存在ではない。
ーーーーー
それから、なぜか彼と一緒にいる時間が増えていた。
帝国港に滞在する間、私はサクラではなく「ミナ」という偽名を使い、商人の娘としてふるまっていた。
ユウトは私の正体を知らない。
私は彼の監視役であり、いざとなれば魔王の娘として命を奪う覚悟さえある。
……なのに、彼といると、自分の役割を忘れそうになる。
彼は、誰に対しても同じように接した。
貧しい水売りの少年にも、片足の物乞いにも、区別なく言葉をかけた。
「なんとなく気になって」と言いながら、迷子の猫を探して走り回る姿に、私は何度もため息をついた。
──どうしてそんなふうに生きられるの。
私は人を疑い、憎み、利用することでしか関われなかったのに。
ーーーーー
ある夜、港に嵐が近づいていた。
雲の合間から稲妻がのぞき、船の帆がばたついている。
私は街のはずれにある波止場で、一人たたずんでいた。
「……やっぱり、ここにいたんだね」
背後から、あの声が届いた。
ユウトだった。
灯火のような笑顔をたたえ、まるで迷いなく私の隣に立った。
魔王の娘として生きてきた私は、誰にも心を見せないようにしていたつもりだった。
それなのに──この男は、私の“ほころび”をあっさり見つけてしまう。
そのとき、突如として背後から怒声が飛んだ。
「ユウト殿下、こんなところにおられましたか!」
帝国の護衛たちが駆け寄ってくる。ユウトはバツが悪そうに頭をかいた。
「“殿下”……?」
私はわざとらしく驚いてみせた。
本当は知っていた。だけど、あえて知らないふりをした。
ユウトは少しだけ、苦笑して言った。
「ごめん、隠してた。僕、皇子なんだ」
「知ってるわよ」と言いたくなるのを飲み込んだ。
私はただ、そっと彼を見つめ返した。
ーーーーー
翌朝、私は父からの通信魔法を受けた。
冷たい声が頭に響く。
「よくやった。皇子はお前を信じかけている。もっと深く入り込め。ーーいいきっかけを作ってやる。」
私は唇を噛んだ。
──私は、ユウトを裏切ることになる。
魔王の娘として、それが宿命。
ーーーーー
夜、港で大きな騒ぎが起きた。
大量の魔物が港を襲い、数隻の花が火を吹いていた。
「どうして魔物が!」
「助けてくれ!」
人々が逃げ惑い、混乱のなかで、私はユウトと再び出くわした。
「大量の魔物が突然現れて、押し寄せて来たんだ。魔王の侵攻かも知れない。
僕たちができる限りの時間か稼ぎをする!この港町は、もう持たない。逃げるんだ!」
ユウトの顔には、怒りと焦りが浮かんでいた。
そこに、牛よりも二回りは大きく、全身を鎧で包んだ異形の怪物が、近づいてくる。
ーー父の側近の一人だ。
私がユウトの信頼を得るためとは言え、ここまでするとは……。港町一つを滅ぼそうとする父の狂気に、改めて魔王の異常性を感じる。
側近の背後には燃える家。
このあたりを焼き尽くすつもりらしい。
ユウトとその護衛たちは、剣を片手に勇敢に立ち向かっていく。
聞こえる剣戟。さすがは、皇子とその護衛、なかなかの腕前だ。
しかし、相手は父の側近。
おもむろに片手を挙げると、黒い光が放たれる。
私はとっさにユウトと護衛たちの周りに魔法で防壁を作る。
彼らに気づかれないように、そっと。
轟音。
怪物の周りに大きなクレーターができる。
「こんな怪物が出てくるなんて…!!」
ユウトが悔しそうに顔を歪ませる。
こんなに簡単に街を滅ぼせるなら、皇国そのものを落としてしまえばいいのに…。
そうすれば、私がユウトを騙す必要もない。
それでも、父がそれをしないのは、人間を追い詰めると、勇者が現れるのを知っているからだ。
父はかつてこう言っていた──勇者は世界の理であり、魔王の力でも屈する存在だ、と。
魔王の力がどれだけ強大でも、魔王は勇者には勝てない。
それが自然の理とでも言わんばかりに、勇者は、魔物をなぎ倒し、魔王に対峙し、その首を取るのだ。
そうして、新たな魔王がどこかしら現れ、また人間との戦いを始める。
まるで二つの勢力の数を調停するかのように、運命であるかのように、魔物と人間は戦うのだ。
だからこそ、父は私に言うーーーユウトに近づけ、と。
彼を操り、最終的に父が皇国を支配することで、魔物と人間との戦いから、人間同士の戦いにシフトさせる。
ーーこれが父の野望なのだ。
「町の人たちは!!?」
ユウトが確認する。
「すでに船への避難が完了しました。殿下も早く!」
護衛が必死に叫ぶ。
火の粉が空を舞い、爆発音が港を震わせる。
ユウトは私の手を取った。
「ここにいては危ない。来るんだ、ミナ!」
ユウトが、その護衛や、生き残った人たちと共に逃げ込んだ船に、私もついついく。
ーーーーー
──それが、全ての始まりだった。
私とユウトの、海の旅が始まった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
魔王の娘として生まれ、感情を封じて生きてきたサクラが、
偶然の出会いの中で“心”を揺らされていく――
そんな静かな始まりを描いてみました。
ユウトという存在は、彼女にとって“予定外”であり“脅威”でありながら、
なぜか目を離せない、温かな異物でもあります。
この小さな揺らぎが、やがて彼女を運命から解き放つ鍵になる。
そんな物語を、ここから紡いでいけたらと思っています。
続きもどうぞ、見届けていただけたら嬉しいです。