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「なあんだ、キスしてたのかと思っちゃった」
先程のヴォルペの迫力ある声を聞いているから、事情を説明し終えたあとで理解してもらったとしても、ルースは乾いた笑いで合わせるしかなかった。
パンテーラも平常心を装っているものの、こめかみから顎に冷や汗が一筋垂れた痕がある。
「ルースの体調もよくなったことだし、食堂での食事を教えるね。お風呂も教えてあげる。あとはトイレと、訓練場」
「ありがとうございます。」
正直、代わり映えもないうえに誰かが来るのを待つ以外にやることのないこの部屋に居続けるのは、苦戦を強いられるだろうと思っていたところだった。
出入りができるようになれば、だいぶ精神的に負担が軽くなる。
「ここはドアがないでしょ? もちろん魔法で移動するんだけど、初めてだから僕が連れて行ってあげる。一度行けば、その場所を覚えてすぐに移動できるから」
「わかりました。」
「パンテーラも一緒に来る?」
「え、い、いや、俺はいい。」
「そっか。午後があるからね。ネーヴェは留守だから、ひとりで行くことになるよ。気をつけてね」
「わかった」
にこにこ顔のヴォルペは、やはり妙な威迫がある。ひとつひとつの物言いは優しい単語を選び、努めて柔らかく伝えているのに、どこか隙がなく、この人は優しいんだと心を開くことも許されない。パンテーラが食事に帯同しないのも、どこか距離を取りたい願望が隠しきれていなかった。
あるいは、ルースとの距離を。
よし、行こう、とダンスに誘われるみたいに手を取られたあと、すぐに視界が変わった。
◇◆◇◆◇◆
廊下だった。
真っすぐ伸びる廊下に規則的に嵌められた窓は美しい飾り枠で存在感を増し、描かれるステンドグラスでの模様は向かいのもう一方の壁にその色を映して幻想的である。
その廊下を何人もの男性が行き来していた。皆、パンテーラ達と同じ制服を着ている。ジャケット、スラックス、ネクタイ、ワイシャツ、ハンカチーフ、靴にいたるまで全て黒。なんならラペルピンの石まで黒。髪色や瞳の色が唯一認められた個性で、だからこそ余計に際立った。本来なら黒だけの世界に、個性が歩いていてカラフルに見えるのが不思議だ。
ヴォルペだけが、紺色のネクタイに銀色の三本線が描かれている。
ふたりは歩を進めた。
「おつかれさまです!」
ヴォルペが歩くと、モーゼが海をかち割ったように人が左右に分かれていく。各々が深々と頭を下げ、ヴォルペに挨拶をした。そんな熱意のこもった挨拶を、うん、うん、と軽くあしらっていく。もしかしてヴォルペはかなり偉い人なんじゃなかろうかと予想する。
「ルースです、よろしくお願いします」
ルースは、きっとこれから世話になるであろう男性陣に会釈と挨拶をしつつ、ヴォルペのあとを追った。
ルースです。よろしくお願いします。
ルースです。よろしくお願いします。
しかし、ヴォルペへの態度とは異なり、男性陣はルースの存在に戸惑ってるようだった。
(まだパジャマだから?)
恥じらいというものを培うにはストリートで育った年数が長すぎた。そういえば皆がかっちりとした制服を着ているなかで、あまりにも身軽すぎただろうか。
「食堂はここだよ、ルース」
「ふおおおお……」
ものすごく広い。
天井は高く、プラネタリウムよろしく半円形で、雲がたゆたう青空が描かれている。机も多く設置されていて、ビュッフェタイプの料理を取ったあとに自由に席に着くシステムだ。
皆、手で料理を取っている。
「魔法が混線して、料理が溢れて汚れるのを防ぐためにここでは魔法禁止なんだよ。お皿の返却も横着せずに手で運ぶんだ」
「なるほど、なるほど」
テーブルは8割ほど埋まっていて、あちこちで会話が盛り上がっており賑やかだ。
ふと、ある利用者がヴォルペに気が付いた。
あからさまに二度見してから現実であると認めると目を真ん丸にして驚愕し、突然立ち上がって最敬礼する。
「お、おはようございます!」
昼なのに朝の挨拶をするほどには慌てたらしい。
その声が視線を集める契機になった。ほとんどが振り返ってきて、ざわつき、礼を執る。
圧巻の全員最敬礼。
「……え、ヴォルペさん何者?」
「えー?」
「めっちゃ誤魔化されてる……」
「そうかなあ。みんな、気にしないで食べててね」
皆にそう言いながら、料理を取る列にヴォルペが並ぶ。誰もが「どうぞ、どうぞ」と先を譲ろうとしたが、ヴォルペはそれをいなして最後尾につく。そうとなってからの前列の方々の料理を取る手早さと言ったら。ぐっちゃぐっちゃ、がっちゃがっちゃと料理を取ってはそそくさと消えてしまう。そしてヴォルペとルースの後ろには誰も並ばない。
ぽつん、とふたりだけ。
静まり返る食堂内。しかし利用者はたくさんいて、黙々と食事をとっている。張り詰めた空気。
(え。マジでヴォルペさん何者?)
「トレイと、お皿と、カトラリーを取ったら好きなもの食べるんだよ。ただし、栄養が偏るとやり直しになるから、栄養も気にしてね。」
「やり直し?」
「トレイとお皿に栄養サーチ魔法が掛かってるんだ。栄養の偏りで体調が崩れないように。あと食べ過ぎの量もやり直し」
「なるほど。肉ばかりではダメってことですな」
「そうですな」
ルースの口調を真似してくるにこにこ顔のヴォルペ。この人が皆に最敬礼されるとは、真実はいかに……と思いつつ、チーズグラタンやらサラダやらスープやら、肉やら肉やら肉やら肉やらを取っていく。
ブブーッとどこからともなくブザー音。
「取りすぎみたいだね」
「なんでだよ!? 食べられるよ! 全部食べられます! お腹空いてます!!」
無意味にトレイに叫びつつ、ならば「今回だけは僕のトレイに特別に乗せてあげよう」と甘やかされつつ。
さあ取り終えたからふたりで席に着こうと振り返ると、大波が引いていくように皆がガチャガチャと音を立てて皿を返却口に返し、出て行ってしまった。まだ頬にパンパンに詰め込んだだけで、嚥下も終わっていない子もいた。
(これはどっちなんだ? 怖すぎる人なのか、立場がマジで上なのか)
空っぽになった食堂に、ふたりだけで席に着く。
「もしかしてヴォルペさんって、めちゃくちゃ偉いんです?」
「んー? 魔法に優劣なんてないよ。僕は、皆が魔法をうまく使えるように育てて、地域の治安維持に役立てられるようにしてるだけ。美味しい?」
「野菜にくっついてる水滴ひとつぶすら美味しい」
多分、ふ、と笑った。
けれどそちらを見ようとするとまた口元を隠そうとするだろうから、ルースは敢えて気付かなかったふりをして食事を続けた。
ヴォルペはかなり少食だった。トレイの判定をクリアするためだけの最低限の栄養のあるものしか皿に載せず、そんな量でこんなに背の高い男性が満腹になるのかしらと思わずにはいられない。
乗せてもらった肉を返してもらい、平らげていく。
(ああ、胃袋が膨れていく…)
幸せを噛み締めたあとで、訓練場、トイレ、風呂に案内された。
なんとなくの配置と、一度行った場所を思い浮かべて、移動したいと強くイメージしながら魔法を発動させると移動できるらしい。
試しに、自分の部屋を思い出して、えいっ、と魔法を発動してみた。できた。思い描いたとおりの視界の場所に立っている。
「おおー……」
さらに、相当に優秀な魔法使いでないと初めての場所の内側にまでは移動できないため、ドアがないことが施錠の代わりになるらしい。ただし、目当ての部屋の直近の廊下までは来られるようだ。だから、人を部屋にいれる際はいつでも入ってきて構わないと思える人だけにするようにと注意された。
また、念のため、風呂とトイレは女性と男性でデザインと場所を大幅にわけているとのこと。
「じゃあ、訓練場に戻って少し魔法の練習をしようか」
「はい! お願いします!」
「いいお返事だね。さっきの復習もかねて、魔法で訓練場に移動してみよう。せーの」
ルースは訓練場を思い浮かべて、むんっ! と力強く胸の前で一拍手した。
(不器用すぎて指が鳴らなかった)