4
ネーヴェは竜巻の中にでも飛び込んだのかと思った。
室内だというのに暴風と豪雨が渦になって巻き起こり、その渦に家具が巻き込まれて音を立てて踊り狂っている。耳を聾するほどの轟音。
防護壁を自分に掛けていなければ、まともに立ってもいられないはずだった。
その嵐の中央にルースがいた。
両手を翳して、荒れる魔力を纏い続けて髪が揺らめき、完全に瞳孔が開ききっている。
近付くと、なにか呟いていた。聞き取れない。瞬きもしない。正気を失っているのは明白だ。
両腕を下ろすように手をかけても、びくともしなかった。筋肉が緊張しているのだ。
「ルースさん、魔法を止めてください」
反応なし。
再度、一語一語を区切って言った。
「ルースさん、魔法を、止めて、ください」
反応なし。
そこへヴォルペが正面に回った。
それでもルースの瞳は光を失い続けており、ヴォルペをとらえない。
ヴォルペは自分の両手をゆっくりと差し出して、翳されているルースの手に手を合わせるように指を絡めた。
そして言う。
「いい? よく聞くんだよ。魔法を、止めてほしいんだ」
この台風には似つかわしくない、非常に穏やかな口調だった。
凪の言葉が指先を通じて染み渡ったのか、ようやくルースが瞬きをした。2度、3度と目を白黒とさせて、やっと目の前のヴォルペに焦点が合ったようだった。一歩たじろごうとしたところを、ヴォルペがしっかりと指を絡めて手を握り、それをさせない。
魔法の発出源が動くのは、今の場合、危険を伴った。
「お願いしていること、わかる?」
その問いにようやく、ルースが応えた。白んだ唇が震えるように動き始める。
「……あっちで、水を……こっちで、風を…そっちで……」
「うん、わかってるよ」
「……め、目が、まわって……」
「わかってるよ。発動が混乱しちゃったんだね。まずは風を止めようか。草原をイメージしてみて。芝生がゆっくり揺れてるイメージだよ。さざ波みたいな風の音がするんだ。雲の動きもゆっくり。水色の空の快晴の下に広がる大きな、大きな草原。ゆっくり、ゆっくり──」
羽ばたいた鳥が枝にとまるように、家具たちがそっと床に落ち着いていく。そうすると順々に雨がやみ、静けさを取り戻した。
ルースの両手指の爪はすべて弾け飛んでいた。
掌や腕にも皮膚が裂けた痕が無数にある。傷と傷とがくっついてしまって、大きく裂けている箇所もあった。垂れた血で床が黒ずんでいる。
そして3人は知っている。
その傷が飛び散った破片で作られたものでなく、肉体内部からの破裂であることを。
燃え盛っていたルースの魔力が次第に眠りつく。爛々と咲き誇る花弁が夜を迎えて閉じていくように。
それを感じたヴォルペは言った。今のうちに伝えておかなければならなかった。
「今から反動がくるよ」
両手は放さない。
ふたりは繋がったままで見つめ合っている。これからくる喧騒の前の、ほんの僅かな静寂。
ルースが反芻した。
「……反動…?」
「そう。ひとつ、お願いがあるんだ。上の歯と、下の歯を合わせておいてほしい」
「……歯を…?」
「そう。」
舌を噛み千切ってしまう可能性があるから、とまでは打ち明けなかった。
ルースが固唾を呑んだのを確認して、頷く。
「くるよ。3、2、1──」
◇◆◇◆◇◆
脳天を串刺しにされたような衝撃だった。
視界が上下左右に動き回って、立っていられずに膝から崩れ落ちる。
自分が激しく痙攣しているのだとは気付かなかった。
ただ四肢がでたらめに暴れ回って、自分の意思では止められない。
なにも見えない。たくさんの色が暴れている。
がちがちと奥歯がぶつかり合って、耳の奥に骨が軋む音が直接打ち込まれるようだった。
「大丈夫。もうすぐ終わるよ。もうすぐだ」
上の方から声が降ってくる。うまく聞き取れない。奥歯がうるさい。陸に打ち上げられた魚がそうするように、ルースの体も何度も反り返って跳ねまくった。
誰かの手が伸びてきて、肩を床に押し付けられた。覗き込んできた顔は、あのモノクルだ。
「回復魔法をかけています。すぐに楽になります。目を閉じて──」
目を瞑ることさえ簡単ではなかった。多分、瞼をおろすことはできていないように思う。ただ虚ろになっただけで、瞳はどこかを見ようと努力し続けている。
見えないけれど。
「おめでとう、ルース。そして、おかえり。今日からここが君の家だ──」
そう囁かれた気がする。
ルースはそれを聞いて「ただいま」と囁けた気がした。
◇◆◇◆◇◆
反射的に身体を起こすと、吐くと認識するより前に激しく嘔吐した。吐瀉物は誰かが用意していたらしいバケツが受け止めてくれ、毛布を汚さずに済んだ。予期していたと思わずにはいられない位置にバケツがあって助かった。
毛布?
肌触りのいい毛布。見ると、ルースはベッドに横たわっていた。
自分が片付けたあの部屋だった。敷いた覚えのないマットレスがあるのが気になるけれど、間違いなく獅子に暮らせるように片付けろと命じられたあの部屋。
服も変わっている。柔らかな素材の、飾りのない白のワンピース。こんなに上質な布に袖を通したことがなく、思わず撫でてしまう。
腕に傷がないことに気付いた。
魔法を使い始めて少ししたとき、確かに爪が1枚弾けるのを見たのに、今はここに来たときよりもさらに磨かれた肌になっている。色白で滑らかな肌だ。
ぱちん、と指が鳴った音がした。
すると膝の上にあったバケツはどこかに消えてしまって、代わりに赤色と橙色が混ざった果物が現れる。色形だけを見れば、マンゴーのようだ。ただ匂いがほとんどない。
「食え」
そう言ったのは、獅子の男だった。ルースが魔法で組み立てた椅子をベッド脇に寄せて、気怠そうにふんぞり返って座っている。
(食べろと言われても……)
皮ごと食べるのは難しそうな感触だ。少し、固くて厚みがありそうである。みかんのように簡単に剥けるのだろうかと爪を立てるも、爪痕が残るだけ。ならば、と歯を立ててみたがやはり歯列の痕が残るだけだ。
「皮くらい魔法で剥けよ」
「あ、はい」
(皮を剥くなら、どういう魔法だろう。氷でナイフを作ってみるとか?)
ルースは右の掌に少量の水を作り出し、凍らせて尖らせた。氷のナイフを作り上げて果物に当てようとすると、今度は苛立った声に制される。
「見てて苛つくんだよなぁ、お前のやりかた!」
ぱちん。
途端に、つるん、とズル剥けになったオレンジ色の果肉を慌てて両手で掴む。そのまま齧ると、甘い汁が口内に広がってみずみずしい。喉も渇いていたので、潤いにも一役買った。
ただし、よく滑る。
一口食べるごとに掌で踊る果肉をなんとか受け止めつつ食べ進めていると、また苛立ちの呻きが聞こえた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!! すっげぇムカつく! なんでそんなに不器用なんだよ!?!?」
「いや、つるつるで滑る──」
「一口食って転がして、また一口食って転がして!! 遊んでんのか!? 食いもんは玩具じゃねえんだぞ!」
「真面目に食べてます」
「そんな不器用だから魔法の使い方もわかんねえんだよ、このヘタクソ!!」
(むっかー)
さすがのルースも腹が立ったので、自棄になって残りの果肉をばくばくと大口で食べて、頬いっぱいに詰め込んだ。するとようやく鼻を鳴らす獅子からの怒声が止んだ。
もぐもぐと咀嚼をしながら、べたべたになった掌を眺める。水の魔法で手を洗って、風で乾かして、そしたら水はどこに消せばいいのだろうと考えていると、白いナフキンが飛んできた。
手を抜けという意味らしかった。
心の中で毒づきながら、ありがたく使わせていただく。
「こらこら。意地悪するためにパンテーラにいてもらったわけじゃないんだよ」
言いながら、忽然と現れたのはオールバックとモノクルだ。ドアのないこの部屋にどうやって現れたのかは、もはや聞かないことにした。
「私はネーヴェ、彼はヴォルペ。そして椅子に座っているのがパンテーラ。体調はいかがですか?」
と、言うのはモノクルの彼。
返事をしようと慌ててもぐもぐしていると、パンテーラが横槍をいれてきた。
「いつまで食ってんだよ! 早く返事しろよ!」
もはやこいつには咀嚼したまま返事をしてやる。
口から果物が出てこないように注意して、鳥のくちばしみたいに唇を尖らせて返した。
「つめこみすぎた」
「腹立つーーー! 苛つくコイツーーー!!!!」
「体調は大丈夫です」
がしがしと頭を掻きむしって苛立ちを表すパンテーラを放っておいて、果物を嚥下してからネーヴェに頭を下げた。
「パンテーラ」
ヴォルペが糸目の笑顔のまま、腕を組んで低く言う。
それは諌める声音だった。
察したパンテーラがぴたりと動きを止めて、ヴォルペを見返す。パンテーラは苦いものを食べたときにするような顔で、目を逸らしながら言った。
「……俺が悪かった……んじゃねえ! こいつが不器用なのが悪ぃんだ! 別に俺が難題を押し付けて魔法の使い方も知らねえガキんちょ暴走させて体調不良にさせて反省してるわけじゃねえし!! こいつが不器用なだけだし! この、ヘッタクソ!! バーーーーカ!!」
「パンテーラ」
「うるせえ!」
ぱちん。
高らかに指を鳴らして、パンテーラは部屋から消えてしまう。
残ったネーヴェは悩ましいとばかりに頭を振って、嘆息つく。
「彼は天才肌で要領がいいぶん、出来ない子の気持ちがわからないうえに魔法も性格も言動も攻撃的で幼稚で捻くれてるもので……ご理解いただければ幸いです」
ネーヴェの言葉にヴォルペもうんうんと頷く。
「へ、へえ。そうなんですね」
(とりあえず、衣食住ゲットーでいいのかな?)
ルースはポジティブに考えることにした。かなり努力を要したけれど。




