3
視界がぼやけていく。
どうしようもない眠気に襲われて、瞼の上下が難しいときみたいに世界が消えていく。
生ぬるい風が闇から湧き上がってくる。
爪先からふくらはぎへと、闇に片足を浸したときだった。
ふわりと両の頬を包まれた。
俯きがちだった顔を上向きにされるように力を込められて、意識しなくとも視線もそれに倣う。
あのガラスペンを弄っていた細長い指がルースの頬を包んで──目前にはモノクル越しの透き通る瞳。
瞳には侮蔑も観察もない、ただ一途な憂慮が満ちていた。
それだけではなかった。
獅子はルースの胸倉を掴んでいるし、糸目はルースの腕を掴み上げている。
3人が至近距離に移動してきていたことを、ルースはそのとき初めて気付いた。
視界が銀の瞳に占領されている。
「息をしてください。落ち着いて」
言われて初めて意識した。
は、と思い出したように息を吸う。いつの間にか無意識に呼吸を止めていたようだった。──心臓が止まりかけていたみたいに。
「深呼吸だよ」
糸目に促され、従う。吐く息が震えていた。
もう足先が闇に浸かっている感覚はなかった。硬い床に張り付く足の裏。頼りない靴の中で、ぎゅっと足の指が力を込めて踏ん張っている。確かにそこに足がある。
獅子が吼えた。
「てめえ、今なにをした」
モノクルと糸目とは異なり、獅子は憤怒をその瞳に内包していた。優しさが混じるふたりの手とは違って、胸倉を掴むその手指には怒りが込められている。むしろ、焦燥。
モノクルと糸目が手を離しても、獅子はそうしない。
「な、なにって……私は、なにも……」
「また誤魔化すのかよ」
「ちが──」
「そこまでです。どうやら本人もどれだけの魔力を放ったのか、自覚がないようです」
魔力の放出など、わからなかった。
──罰を与える。
そんな言葉がふと頭に浮かぶ。
ネガティブだったから、どうせ自分には無理だと諦めたから。
なんとなくルースはそれが原因のような気がした。
そして本当に引きずり込まれてしまうのだということも。
千年も仕事を肩代わり?
冗談じゃない。どんな仕事? どこで? どうやって?
ルースは恐怖を覚えた。これは、しばらく夢のとおりにしていたほうがよさそうだと本能が警告する。
乱暴に胸倉を解放された。
「俺は認めねえ」
「判断は3人で話し合ってと決めたでしょう──」
「今の魔力量を見なかったのか!? とんでもねえバケモンだぞ! 魔塔に悪魔を引き込むつもりか!?」
「倫理を教え込めば、善良な魔法使いになって強みになります」
「そうだよ。全員がああなるわけじゃない。今のうちに教えてあげておかないと、むしろ危ないよ」
ふたりの説得に気圧されて、獅子は口を噤んだが納得しているようには到底見えなかった。盛大に舌打ちをして、ふたりと、ルースとを見比べる。
「なら二次試験だ」
そう言って獅子は指を鳴らした。
ふたりが制しようと口を開いたところで間に合わず、ルースと獅子は違う場所へと移っていた。
部屋だった。
木材のガラクタが部屋の壁沿いに無造作に置かれ、絨毯も丸められて放置されている。埃が舞って、部屋全体に靄がかかっているほどだった。窓は格子が外側から打ち付けられ、どうやら開かないらしい。カーテンは留め具が外れ、引っかかっているだけだ。
「暮らせるように片付けろ。床を磨き、絨毯を敷き、窓を拭き、換気をし、カーテンを引き、ベッドを作り、テーブルセットを作り、勉強机を作る」
掃除をしろということか。
それならば頑張れる。ルースは頭の中で工程を組み立てた。床から磨き始めて、それから──。
「制限時間は30分だ」
「──え」
仰天した。
1週間掛けても終わるかわからない。ベッドもテーブルも椅子も机も、あるのは木材という素材だけだ。30分では終わるはずがなかった。
目を白黒とさせていると、獅子が一歩詰め寄ってくる。その迫力に押し負けて、視線をそらした。反らした視線のその先に喉仏と鎖骨があって、妙に意識してしまってさらに視線を落とす。
「手で作業しようとしてどうすんだよ。魔塔で面倒見るかどうかを判断してんだ、こっちは。魔法を使えよ、魔法を。俺なら2分で終わる。その15倍の時間を与えてやる。かなり譲歩してやってんだ」
むちゃくちゃな。
手練と初心者を比べないで欲しい。せめて制限時間を延ばして欲しいと言おうと振り仰いだところに、もうその姿はなかった。
埃だらけの部屋に取り残されたルース。
そういえばドアがひとつもない。
助けを求めることもできなければ、放棄して逃げ出すこともできない。
(どうしよう)
とにかく、魔法でどうにかしなけらばならない。
どうやって使ったのだっけ。
そう、確かこんなふうにイメージしながら手をかざして──。
木材が浮いた。形は作られているから、あとは組み立てればいい。ひとつひとつをやっていたら、間に合わない。同時にやっていかないと。
こっちでは家具の組み立て、あっちで窓、そっちで床。
だから浮力と、押し付ける力と、風と、水と、壁も拭かなきゃ。
制限時間は30分。
全部、同時に、同時に──。
◇◆◇◆◇◆
「少々嫌がらせがすぎるのでは?」
モノクルを拭きながら、ネーヴェが言った。パンテーラはわざとらしく首をすくめてみせる。
「あれだけの魔力を持ってんだ。今まで見つからなかったほうがおかしい。どうせ制限時間ぎりぎりまで健気に頑張る姿を見せつけてきやがんだ。それで魔塔に潜り込むことを狙ってる。スパイだ、スパイ」
「そうかなあ。本当に自分の魔力量に気付いてないみたいに見えたけどなあ」
と見知らぬ女を擁護するのはヴォルペ。オールバックにしている髪は乱れを知らないのに、癖なのか右耳にかける仕草をした。
3人は制限時間になるまで面接をした教室で待機をしていた。
並んで、適当に時間を過ごす。
あと24分──。
感じたのは、3人一斉だった。
背中の皮をずるりと削がれた感覚だった。
鋭い痛みというよりかは、重み。
あの女がいるのは、離れた場所にある──。
ネーヴェがモノクルを掛けるのと同時に指を鳴らした。