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 ルースへの態度がころりと変わった。

 訓練日で無自覚で破天荒な実力を見せつけたことも相まって、魔塔での生活で体も健康的になり、肌艶がよくなったあげくに髪が伸びてくると、実は美人だったと知れ渡り、廊下や食堂を歩くだけで声をかけられる日々となった。


「おはよう」

「お、おはようございます」

「ルースちゃーん、おはようー!」

「おおおおはようございます」


 誰だっけ?

 正直なところ、名前もわからない誰かに挨拶されても、名前を思い出そうとするのに必死になってしまう。制服を着ているということは間違いなく仲間なのだから、どこかでいつか話した過去があるのかもと思ってしまう。

 一向にそんな記憶は蘇らないのだけれど。


 食事を監視がクリアする程度にしこたま盛って食堂の席に着くと、わっと周囲を囲まれる。

 その人の多さに目を剥いた。隣の席まで埋まってしまった。


「ねえ、ルースちゃん。次はいつお休み?」

「え。お休みは……いつだったかな。結構ずっとお仕事で忙しかったと思いま──」

「ルースちゃんってちょっと呼びにくいね。ルーちゃんって呼んでもいい?」

「る、るーちゃん?」

「綺麗な髪留めが売ってるところがあるんだ! 今度そこに一緒に行こうよ! 瞳の色に合わせて髪留めを作ってくれるんだよ! デザインたくさんあるよ!」

「ええと──」

「お肉好きなの?」

「デザートはなにが好き? 美味しいケーキを出すカフェも知ってるよ!」

「異国のデザート店もあるし!」

「あ、あの──」


「ルース」


 わいわいがやがやとルースを取り囲んでいた男性陣が、笑顔のままぴしゃりと動きを止めた。振り返らずともわかる声だけで溢れる威厳。

 この魔塔の影の長。


「どうしたんだろう。みんなにルースは僕の婚約者だって、まだ教えてないのかな?」


 ひゅっと誰かの喉の音が鳴った。

 息を呑んだ音だった。


「隣、空けてくれるかな。婚約者のルースの隣で食事をしたいなとと思って来たのだけど、どうだろう?」


 周囲の目が、トレイを持つヴォルペの親指に光る指輪へ注がれたあと、ルースの小指へと移ろいで行く。同じ指輪だとわかるやいなや、引き波のように距離を開けた。


「ももももももちろんです! お疲れ様です!」


 お疲れ様です! と、やまびこのように繰り返される挨拶にいつもの糸目の笑顔で返してルースの横につく。

 静かに、少ない食事が始まった。


「ちょっと、もう無理かも。籍をいれてくるね。幹部も少しうるさくなってきたし」

「ええ……?」

「今から行こうよ」

「え、今から──」


 問答無用の糸目。

 無言の圧力。


「はい。行きます」


 こうして、流されるまま入籍した夫婦をパンテーラは他に知らないと後に語っている。



◇◆◇◆◇◆



 もうネガティブになんてならない。

 パンテーラもいて、ネーヴェもいて、実は知らぬ間に力がついていて、魔塔でも認めてもらえて、そしてなぜか生涯の伴侶を得て、ルースはきっとネガティブになることはもうないだろうと思っていた。

 ずっと幸せな毎日を送れるはず。

 少しの失敗くらい食べて寝れば忘れられるはず。


 なのに、ヴォルペの体に描かれた地獄絵図が現実になったとき、足が竦んだ。



 緊急招集であった。


 国の外れにある結界の脆弱性を狙い、魔獣が流れ込んできた。

 そして、運の悪いことにちょうど時を同じくして、国交がうまくいっているとは言えなかった隣国が結界陥落の真逆の国境に攻め入ってきた。狙っていたのかはわからない。画策なのかもしれなかった。

 とにかく魔塔のメンバーのほとんどがその迎撃に従事してしまっていた。


 もちろんヴォルペ班も出動していた。

 人当たりのいいルースのおかげか、今やヴォルペ班ははみ出しものなどではなく、魔塔の筆頭班として皆に認められている節がある。


 結界が落ちた。

 迎撃中にその知らせを受けた。


 ヴォルペの決断は早かった。


「僕らだけがそっちに転進する。皆はここに残って迎撃すること。僕らは人間相手より魔獣相手のほうが全力を尽くせるからね」


 調整しなくて済むから──と、それだけを指示して踵を返す。

 途端に不安になる他の班員たち。

 訓練日では決勝戦から参戦してくるしかない実力者たちが実戦から抜けてしまう。その現実に、敗北という一片の不安が頭に浮かんだらしかった。


「皆なら大丈夫です! うまくシールドを使って、班ごとに交代で攻撃を続ければ攻撃が止まることはないです! 頑張って!」


 ルースが言うと、気を取り直したようだった。

 ヴォルペとルースは冷たい指揮官と、温かい指揮官として班員たちの鼓舞にいつの間にか貢献していた。



 そして到着したルースは地獄を見た。


 魔獣に四肢を食い千切られる男たち。

 丸呑みにされる子どもたち。

 子どもをなんとか助けようと魔獣の足に縋りついて、いとも簡単に張り手ひとつで頭を粉砕され、即死する女たち。


 ルースは地獄を見ている。

 地獄を目の当たりにして冷静でいられるほど、まだルースは戦士になりきれていなかった。


 ヴォルペが乱れていない髪を耳にかけた。


「単独で動くよ。ネーヴェは助かりそうな人を優先的に治療。少しの回復魔法だけで治せる人を探そうね。とりあえず完全回復まではしなくていいよ。命を繋ぎ止められればいいから。」

「わかりました──」

()()()()()()()だよ。わかるね?」


 ネーヴェの表情が強張った。

 言わんとしていることが、改めて伝わったのだった。


「……わかりました」

「うん、いい子だ。僕は結界の再形成に注力する。ネーヴェへの攻撃は僕がフォローするから、パンテーラとルースはそれぞれ独自に動いて、とにかく魔獣たちを一匹でも多く倒すんだよ」

「わかりました」


 パンテーラはもう走り出していた。

(私も行かないと)


「ルース」


 呼び止められた。ヴォルペだ。もうネーヴェもいない。この地獄の中で自分のやるべきことを既に見つけて、役目を果たすために走り出している。

(私も早く──)


「ふたりの攻撃が一瞬でも遅れたら30人は死ぬ。迷ってはいけないよ。今から攻撃しようとする魔獣の手に誰かが捕まっていたとしても、魔獣の討伐を優先するんだ。いいね?」

「……でも、それじゃあ──」

「いいね?」


 返事をしなくても、それが了承であるとヴォルペは察したらしい。服の中に地獄を隠したヴォルペの背中を見送って、ルースは無茶苦茶に魔法を放った。

 魔獣のその手に誰がいたか、魔獣のその口の中に誰が咀嚼されていたか、魔獣の足の下に誰が押し潰されているか、地面になにが転がっていたか、そして自分はなにを踏んだのか、そのすべてに目を背けてとにかく魔獣の討伐に専従した。


 戦士にならなくてはいけなかった。

 戦士にならざるを得なかった。


 唇を引き結び、泣く暇さえなかった。



 大きな魔獣がいなくなって落ち着いたあと、小さな魔獣がいないかを走り回って確認していた。

 血の匂いや啜り泣きが多く、気配を感じづらい。


 一瞬遅れたら30人──。


 体力のないルースの肺腑が限界を迎え、喉で息をするのにも激痛を感じるのを感じられなかった。それほどに頭は興奮状態で落ち着きがなかった。

 魔獣を倒さなければ、魔獣を。

 どこにいる?

 もういない?

 隠れているだけ?

 いつまで探し続ければいい?

 一体いつまで?

 いたら倒せるのに、いないことの証明は誰がしてくれる?


 誰かもう魔獣はいないと言ってくれ。自分では判断ができない。

 ふと誰かの顔が浮かぶ。

 いつも判断してくれる人。誰だろう。

 誰でもいい。


 誰か教えてくれ。もうやめてもいいと。


 誰か、誰か──!



「誰か助けてーッ!」



 はっとした。

 甲高い声だ。

 しかも悲鳴が大きい。

 近い。

 魔獣に襲われているのかもしれない。

 ルースは着地した脚に力を込め、方向を変えた。



 路地裏だった。

 そこに両足のない男性が横たわり、傍らで子どもが縋りついている。

 子どもは、見てすぐに制服のルースが誰なのかを悟った。


 必死の目だった。


「助けて!!! 父ちゃんが! 父ちゃんが……!」


 駆け寄る。

 まだ息があった。

 だがこの出血では──!

 太腿から下を食い破られた切断面からは夥しい量の血液が噴き出している。まるで蛇口を捻りまくった水道だ。

 男の顔色はもはや青白い。脚を破られたせいであるはずの身長がなく、ルースの焦燥を煽る。


「ネーヴェさん! ネーヴェさん!」


 助けを呼びに行こうとした。

 だが子どもがそれをさせなかった。


「行かないで、行かないで行かないで!!! 父ちゃんを助けて! 母ちゃん潰されちゃった……父ちゃんが、父ちゃんが!」


 止まらない血。

 縋りつく子ども。

 遠くに聞こえる助けを求める悲鳴たち。


 かき消されるルースの声。


「ネーヴェさん! パンテーラさん!」


 呼びかけに応答はない。

 誰も来てくれない。誰も。


 見れば、男の目に宿る命が消えかけ始めていた。


 ──やるしかない。


 ルースはその場で膝をつき、()()()()()()()()

 その意味を覚えていた。

 傷口を塞ぐという意味を、ルースはけして忘れてはいなかった。



 傷口を塞ぎ終わったあと、ルースはその場に伏して動けなかった。

 子どもと、一命を取り留めた男が少しばかりの会話しているのも聞こえずに、ルースは頭を抱えて、地面に額を押し当て続けていた。


 私は、なんてことを──!


 苦しい。

 胸が苦しい。


 ふと頭に浮かんだのはヴォルペの顔。

 いつも判断してくれる頼みの綱。

 愛しているのかわからない、絶大的に頼れる夫の顔。


「ヴォルペさん……!」

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