21
「あ、ヴォルペさん。どうしました?」
ぎくり、としたのはネーヴェだった。
無人と思っていたルースの部屋に立つのは見慣れた指揮官。彼がいなければネーヴェは魔塔に居続けられなかっただろうし、とっくに心を壊していた。
だからこそ、ネーヴェにとってヴォルペは特別で複雑な存在である。
恩人であり、上司であり、尊敬しており、また怖くもある。
それでいてヴォルペは、多分ルースを──……。
本人の自覚は置いておいて、ネーヴェからしてみればその答えは一目瞭然だ。
ネーヴェの隣にいたルースは羞恥心をストリートに置いてきたのか、はたまた初めから持ち合わせていないのか、タオル1枚だけをまとった状態でぺたぺたとヴォルペに歩み寄る。
ヴォルペはいつもの笑顔のまま、近付いてくるルースから視線を決して外さなかった。まるで、ちゃんと自分のもとへ戻ってくるのを見届けるみたいに。
ネーヴェはそっと、捲っていた袖を戻し、外していた第1ボタンを留めた。別に乱れた服を直す動きを悟られようがこちらとしては後ろめたいことはなにもないのだけれど、いかんせんヴォルペの尖ったオーラが刺激しないほうが身のためだと囁いてくる。
汗をかいたモノクルをハンカチで拭きつつ、さて、いつ部屋を脱出しようかと思案を巡らせる。
「へえ。あれからずっと、ネーヴェが頑張ってくれていたんだね。
──知らなかった」
知らなかった、の一言がやけに冷たくて無機質だ。
ルースからなにをしていたのかの説明を受けたヴォルペの目を直視できない。
ルースはヴォルペのお気に入り。
それはわかっているのだけど、自分のしたことの責任を取ろうと努めることはなんら悪いことではない──はず。
しかし、正面からヴォルペに反論したって意味はない。
ネーヴェは曖昧に返事をして退散することにした。
「やはり塞いだ傷痕を消すのは、なかなか難しいものですね。しばらく様子を見ましょうか、ルースさん」
「はーい。ありがとうございました、ネーヴェさん」
「いえ。では、私はこれで」
ぱちん。
指を鳴らして、戻ってきたのはオアシスならぬ自分の部屋。
傷痕の治療へ注力していたことを敢えて強調したおかげか、ヴォルペに絡まれなくてよかったとどっと重い息を吐く。
あとは、まあルースがうまくやるだろう。
なにせ、特に気に入られているルースだから。
◇◆◇◆◇◆
「風邪を引いてしまうから、なにか洋服を着たほうがいいよ。」
「はーい」
ふたりきりになったヴォルペはルースを見ているふりをしながら、糸目の中の瞳は違うものを見ようと努力して言った。
体の奥のほうから沸き起こるなにやらの感情が、ルースの裸を見てしまうと弾けてしまいそうな予感がした。
ごそごそと洋服を取りに行くルースの背中を横目で見守りつつ、自分を信頼しきってその場で着始めることに危機感を覚えつつ。
どうしてもじっとしたまま待つことはできなかった。
(──ああ、もう)
なんでだろう。
うまくいかない。
うまく制御できない。
ルースが開けたクローゼットの扉を閉じるように後ろから手を伸ばす。そうすると、腕に囲まれたルースが不思議そうな顔で振り返ってきた。
下着だけを着付けた、その薄い体。
肋骨は浮き上がり、胸の膨らみもほとんどない。やっと痩せ気味の子どものような体形になった彼女は、それでもまだ健康な身体であるとは到底言えそうもない。
抱きたいと思わせる身体ではない。
そのはずなのに。
抱きしめると、ルースの肩の骨や、腰の骨が当たってしまう。
「簡単に肌を見せてはいけないよ」
腕の中にいる小さなルースに警告する。
警告とは思っていないかもしれないが。
「誰に対しても警戒心を持たなければいけないよ。ネーヴェにも、パンテーラにも。──僕にも」
閉じ込めたルースの顔がほんのり身じろぎした。顔をヴォルペのほうに向けたのだ。
(僕の首にルースの唇が、吐息が)
「どうしてヴォルペさん達も警戒しないといけないのです?」
「どうしてって……」
問い返されるとは思わなんだ。
たしかに、どうして警戒しないといけないのだろう。3人はルースを裏切るはずがないのに。傷つけるはずがないのに。
どうしてだっけ?
いや、でもこうして自分は、する必要のない行動に出ているわけだし。やっぱり警戒を……なにに警戒するんだろう。
「3人とも信頼のおける仲間なのでは?」
「うーん」
「少なくとも、おふたりはヴォルペさんをかなり信頼してるように見えますが」
「うーん……」
なんだかうまく説明できなくなってきた。
「警戒と肌を見せることは関係があるのです?」
「……そう。それは間違いない」
「それは前にヴォルペさんが私にキスをしたことと関係があるのです?」
はっとした。
ぱっと身体を離すと、真っ直ぐと見上げてくるルースの瞳。透き通っていて、本当は何色をしているのかもわからなくなるほど純粋な色に惑わされて、ヴォルペは目眩さえしてしまいそうだった。
ここになにしに来たのだっけ?
キスしていいかを聞きに来たら、ルースが裸で、しかも何回も裸をネーヴェに見せていることがわかって、それで警戒しないといけないと嗜めて、そもそもなんでキスしたくなるかがわからなくて、それで、えーと?
「肌を見せたら、前みたいにキスをされてしまうからですか? ヴォルペさんみたいに?」
「……えっと……」
だってルースを見たら……、いや裸でなくてもキスをしたくなるのだから肌を見せることは関係がない?
ということは警戒しなくても……いやいや肌を見せるのは……。
「襲われてしまうからということですよね? しかし私は反撃できます」
「そうだけど」
「それにこの身体ですし、外には魅力的な女性がいますし、わざわざ私で満足しようと思う人って魔塔にはいないと思うのです。」
「そう、かな」
じゃあ、なぜ僕は──。
「もしかして、ヴォルペさんは私を好きなのです? 恋愛感情があるのです?」
胸を掴まれた気がした。
表面ではなくて、肌や骨や筋肉に覆い隠されたもっとずっと奥のほうを掴まれて、言葉がうまく出てこない。
恋愛。
そんな感情が自分にあったのだろうか。
それをルースに抱いている?
わからない。
「僕は──……キスしたくなるのはルースだけなのだけど、それは恋愛感情なのかな?」
「えっ」
と意外そうな反応をしたルース。
その反応が予想外で驚くヴォルペ。
そんなことを聞くということは、当然恋愛感情であると言われる想定をしていたはずだ。しかし、まさか恋愛であると回答されるとは思わなんだという目の見開き方である。
「え?」
「えっ?」
「え?」
「えっ? つまり付き合いたいってことですか? 私と?」
「……付き合うって、なに?」
「えっと、だから、その、彼氏と彼女? 恋人になるということ?」
「それは、なにするの? どういう関係?」
「えぇー……」
問うと、ルースは困ったような顔をした。
◇◆◇◆◇◆
ルースは困ってしまった。
目の前に立つヴォルペはいつもの理知的な雰囲気と一変して、純粋な疑問を持つ青年のようだ。
恋愛に興味がない人生を歩んできていたのだろうか。それとも魔法一筋だったのだろうか。
答えなければずっと見つめ続けるであろうヴォルペを無視するわけにもいかず、うーん、と回答を考える。
「つまり、手を繋いだり、抱きしめ合ったり、キスをしたり……そういうことはあなた以外としませんよという約束のような……」
「約束する」
ヴォルペが即答した。
焦ったのはルースだ。
「違います違います。なんていうか、ふたりで出掛けたりして思い出を作ったりして、他の異性に気持ちを抱かないというか……大切にするというか」
「僕、ルースとだけ出掛ける。他の女の人なんていらない。約束する。大切にする。」
「……え。……えぇ?」
雰囲気に気圧されてしまう。
それは、つまり──。
ヴォルペが一歩踏み出してきて、ルースは距離を取るように下がったがそこにはクローゼットがあって叶わなかった。
男らしい指が伸びてきて、ルースの顎を撫でる。ぞわりと鳥肌が立ったが、それは嫌悪ではなかった。
「僕と付き合って」
ルースはごくりと音を鳴らして唾を飲み込んだ。
ヴォルペの瞳は冗談ではないことを物語っている。
ヴォルペの香りがする。
「ルース以外の女の人とキスしたくならないし、抱きたくならないし、一緒にいたいとも思わない。ルースしかいない。僕の恋人になって」
ヴォルペの手を避けようと握ると、握り返されてしまう。
押しが強い。
「いや、あの、その、もし不仲になって別れたら気まずいというか! 同じ班ですし!」
「別れなければいい」
「それは、その、でもずっと付き合い続けるのはちょっとおかしいというか……! 世間的には変な噂が──」
「結婚しようよ。そういうことでしょ?」
「け!? いや、ええ!?」
「なら、恋人じゃなくて婚約者か」
「んん!?」
「イヤ?」
問われて、言葉に詰まる。
ヴォルペは恩人だ。
いつだって優しいし、親切だし、フォローしてくれるし、イケメンだし、スタイルはいいし。
でも。
好き?
好きって、どんな気持ちだっけ?
嫌いではないけど、一緒にいたいという焦がれるような気持ちはない。
「んー? 恋人……かなぁ?」
「わかった。婚約者じゃなくて恋人ならいいんだね。ありがと」
ん!?
なにか違う──。
「すっきりした。僕は戻るね」
勘違いされたまま、ヴォルペは指を鳴らして姿を消してしまった。
ルースは残された部屋で呆然と立ち尽くしたまま、動けなかった。




