15
「私が傷口を塞ぐ練習ですか?」
「そうだよ」
と言うのはヴォルペである。
にっこり顔で腕を組みながら、小さく顎を引く。
きっかけは先日の任務だった。
◆◇◆◇◆◇
「大丈夫か!?」
パンテーラが駆け寄って声を掛けるも、負傷した張本人のネーヴェは呻くだけだった。
任務の内容は瘴気に満ちた海峡を浄化すること。
慣れない船上での浄化に加え、海に棲む魔物との戦いはヴォルペ以外の3人にとっては苦戦を強いられた。
ふと船の大きな揺れに驚いて、ネーヴェが4人のシールドを解いてしまった。
運悪く、そこへ攻撃が当たってしまったのである。
ヴォルペが即座にネーヴェを包むシールドを張ったものの、ネーヴェの傷は深かった。強がる暇もなかった。
ネーヴェは間髪入れずに自分の回復に集中した。
一瞬の思考ののち、ヴォルペが言った。
「回復魔法で完治するまで、ルースとパンテーラは単独で索敵を実施。僕はネーヴェのフォローに回る。ルースは北西、パンテーラは南東を注視。」
「わかりました!」
「わかった」
そう言って、パンテーラはすぐに指示通りの動きをした。
「ルース」
ルースも倣おうとしたが、ヴォルペに呼び止められる。
ヴォルペはネーヴェの傍らに膝をつきながら、ルースに忠告した。
「海の魔物には炎魔法は当たりにくいんだ。海の中に逃げてしまうから。風で空に打ち上げたところを狙うか、凍らせて動きを止めたところを爆破で破壊するか、どちらかが効果的だよ。雷は使わないで。水も。」
「わかりました」
「もう自分が空に浮かぶ魔法は使える?」
「使えます」
「気をつけて行っておいで。危なくなったら、助けてと叫ぶんだよ。僕が助けに行くからね」
うん、と頷いたあとで、ルースは北西の空に踏み出した。
そうしてネーヴェの完治を見届けたヴォルペが、いつものようにふたり一組で動く体制に戻そうとルースのもとへ駆けつけたとき、ルースは怪我をしていた。
魚型の魔物の硬い尾ひれがルースの首筋を切りつけたのだった。
血管が傷つくほどの深さではなかった。飛び散るほどの出血はなく、痛みも少なく、ルースはこのくらいなら大丈夫だと判断したからこそ戦闘を続けていたのだった。
首が真っ赤に染まったルースと対峙したヴォルペの見開かれた瞳を、ルースはきっと二度と忘れないだろうと思った。
ヴォルペの瞳はとても小さかった。
その口元に微笑みもなかった。
そしてなにも言ってくれなかった。
◇◆◇◆◇
訓練場の隅にはルースとヴォルペとネーヴェ。
3人は小さな三角形になって話している。
ルースはどうしてこの訓練をするのか、原因をわかっていなかった。
2ヶ月あまりを魔塔で過ごして魔力量の調節はお手のものになり、まだぎこちないけれど反撃を躱して自分が動きながらの魔法の的確な発動もうまくなっている。
それは自覚があったのだが。
つまり、次のステップへ進むというわけだ。なぜかは知らないけれど。
しかしルースは、人の体を扱うという緻密さに自分が対応できるか甚だ疑わしかった。
この自分が?
この体を?
まさか、そんな──。
ふと以前にした会話を思い出した。
「で、でも傷口は塞いだら治せなくなるって」
逃げだった。
人の体を相手にするのを避けるために、わざとマイナスの発言をした。そうすれば塞ぐことに意味はなく、治療を待つのが最善であり、ルースが塞ぐという訓練をしなくて済む。
私ができるわけない。
足首にまとわりつく冷たい手の感触は、勘違いではないのだろう。
ネガティブに考えた。
やりたくないと、自分にやれるはずがないと、避けられるなら避けたいと。
ルースをここに誕生させたあの人が、警告しているのがわかる。
このまま地獄に落とそうと、地の下から伸びてくる手。絡め取る指。
ルースに纏わりつこうとする異様な魔力に、ヴォルペもネーヴェも気付いた。
ヴォルペは焦ることなく、だが迅速にルースの頬を手で包んで意識をヴォルペに向けさせる。視線がやっとヴォルペに向けられた。
ヴォルペが言った。
「傍にネーヴェがいなかったら?」
さらに問うてくる。
「ネーヴェが怪我をしていたら? ネーヴェが既に限界だったら? 治すよりも、塞ぐことが優先される場面が、これから先にでてくる可能性があるんだよ。」
「で、でも──」
考えずにはいられない。
失敗したら──。
私なんかじゃ──。
ずるりと足首を掴まれる。
片足ではなく、両足を。
体温が爪先から奪われて行く気がして、目をぎゅっと瞑った。引きずり込まれてしまいそうだった。
そこでようやくヴォルペの指に力が加わった。
鷲掴みのように強い指の力だった。
目を開けると、ヴォルペはまだにっこりと笑っている。けれど、容赦のない声だった。
「やらなくちゃいけないんだよ。そういうときは、生き延びることを選ぶんだよ。だから、完璧じゃなくていい。ネーヴェが来るまで、パンテーラが来るまで、あるいは僕が駆け付けるまで、ほんの少し頑張るための、とりあえずの魔法だから」
「と、とりあえず……」
「そう。“とりあえず“。それならできる気がしない?」
「それなら、や、やってみます」
やってみないと。応急処置。これは応急処置。医者になれというレベルを求められているのではなくて、タオルをいっぱい押し付けて止血するくらいの気持ち。
失敗の例が頭の中で生まれては増えていくのを、ヴォルペの言葉で打ち消していく。
ネガティブな思考を追い払うのは、いつもかなり苦労する。
考えないようにしても、考えてしまうから。
仮初のポジティブで勘弁してくれたのか、ルースの足を掴む地獄からの誘いは消えていった。
「ネーヴェの話をよく聞くんだよ。いいね?」
「わかりました。頑張ります」
「いい子だね。じゃあ、やろう──」
言って、ヴォルペはジャケットを脱ぎ、ベストを脱ぎ、ワイシャツを脱いだ。
体を覆う刺青に驚いたルースは、努めて反応しないようにした。
言葉の意味が分からない難しい単語の刺青。
なにかの神だろうか、悪魔だろうか、おどろおどろしい絵図。四肢を食われる男。燃やされる人間。牙を剥く獣。
ヴォルペの刺青は、地獄を体にまとわせたみたいだった。
刺青はほとんどが黒色なのに、なぜか血塗れを連想させる。
反応してはいけない。
きっと、なにか事情があってこの絵を選んだのだから。
反応しては──。
ヴォルペはナイフで躊躇なく左腕に一文字の傷をつけた。
「え、えええ! なななななんで!」
ルースは思い切り反応した。
あわあわとして、ヴォルペのナイフを持つ手を制する。
ヴォルペはにっこり顔できょとんとしながら──
「だって傷を塞ぐ練習だから。傷がないと練習できないでしょ?」
ぷつぷつと傷口から血の玉が湧き出てきて、とうとう流れ始める。そんな当然のように言われても困惑してしまう。
「そ、それはそうですけど、なら私、自分の体に傷をつけて──」
「それはだめだよ。ルースが傷痕だらけになっちゃうでしょう」
なにを言ってるんだ?
ヴォルペは傷だらけになるのは構わないとでも思っているような言い方だ。
そこへ、横についていたネーヴェが前に躍り出た。
「傷口を塞ぐことは、血管と皮膚を塞ぐことを第一優先にしてください。このくらいの浅ささなら血管に傷はついていません。皮膚を塞ぎましょう。」
そんな、ネーヴェも当たり前みたいに。
ふたりを見合っていると、ネーヴェが視線を寄越してきた。
「早く。傷は時間との戦いです。判断に迷って、なにもできずに放置して、結果、死なせてしまっては意味がありません。皮膚を塞ぐイメージをしながら、早く魔法をかけてください。弱めでいいです。」
なんの?
なんの魔法をかけるの?
判断に迷ったルースは、用意していた椅子に涼しい顔で腰掛けたヴォルペの腕を無意味に擦った。掌にヴォルペの血が広がった。
なんの?
なんの魔法をかけるの?
風でもない水でもない雷でも土でも浮遊でもない。なら、なんの?
傷を塞ぐって、どんな魔法?
魔法って、人に当てていいの?
「早く!」
声を荒げたネーヴェに驚いて、肩が跳ねた。
慌てて傷口を掌で覆う。
なんの魔法をかけたのか、わからなかった。
「それは皮膚を焼いているだけです。塞ぐのとは違います」
「は、はい! ごめんなさい、火傷が──」
さらに痛みを与えてしまった。
早くしないと、恩人であるヴォルペに苦痛が継続されるのは避けたい。
「次!」
「はい!」
早くしないと。
「それは凍らせてるだけです。凍傷になったら、最悪の場合、腐って傷が広がります。塞ぐイメージをしてください」
「はい……!」
早く。
「違います。そうではありません。ちゃんとイメージしてください。裂けた皮膚と皮膚を癒着させるんです」
「はい……」
早く。
「次の魔法をかけてください。ちゃんとイメージしながら」
「は……」
はやく。
「皮膚と皮膚を合わせただけではだめなんです。溶接するようなイメージで──」
とうとう、ルースは返事ができなくなってしまった。
ぐすぐすと泣いて、涙と鼻水で傷口は霞んで見えるし、傷口に添えた手はぶるぶると震えていた。血があっちへこっちへ掌を汚す。
「……できない、です……。わからない……!」
はやく。
「でも──」
「ネーヴェ。ちょっと早かったみたいだ。僕の傷を治してくれる?」
ヴォルペが言って、ネーヴェは反論しようと口を開きかけた。けれど、口を噤んだ。そして傷に添えてあるルースの手の上に自分の手を乗せて、あっという間に治してしまった。
輝く白い光は、木漏れ日のようでさえあった。あたたかかった。優しさみたいに。慰めみたいに。
なにも言わずに去ったネーヴェと、取り残されたルースとヴォルペ。
ルースは、まだ掌でヴォルペの腕を覆っていた。
掌に火傷させてしまった凹凸もないし、凍らせた皺もないし、溢れてくる血もないのに、手の下を見るのが怖くて動けなかった。
「ごめんね。驚かせちゃったね。僕が練習の仕方を説明しておけばよかったね。ごめんね」
「ご、ごめ、ごめんなさ、い。頭が──」
「驚いて、混乱しちゃったんだね。そうだよね。ルースは優しいもんね。早く塞がないとって考えて、余計に焦ってしまったね。おいで」
ヴォルペは自分の膝にルースを座らせ、その体を優しく抱いた。頭を撫で、背中を撫で、自分の肩口にルースの額を凭れさせ、慰めるように背中をぽんぽんと叩いた。
「また今度練習しよう。大丈夫。僕がルースを守るから」
嗚咽混じりに泣いてしまったルースはただ頷くだけを返事とした。
自分の不甲斐なさに、自分でなければヴォルペに無用な痛みを与えることもなかったのにと、涙が止まらない。
なんでこんなに不器用なんだろう。
他の人なら、きっとすぐにうまくできるのに。
できない。
できないよ。
ぽん、ぽん、と慰められる背中が優しすぎて苦しい。
「びっくりさせちゃったね。ごめんね、ルース。ごめんね。ごめん」
ふたりはしばらくそうしていた。




