絶望
翌日、茉央がまた来るんじゃないかと心配していたが、現れる事は無かった。
高倉くんも、茉央の事を言いふらしたりしなかった様で、他のバイト仲間から質問されたり、からかわれたりする事もなかった。
いつも通りのバイト生活へと戻ったかに思えた。しかし、あの日から約1ヶ月後、茉央はまた店に現れた。
バイト終了まで1時間を切ったころ、茉央が店にやってきた。
「バイトもうすぐ終わりでしょ?ちょっとお話しない?」
「嫌だ。さっさと家に帰って寝させてくれ。」
「そんな事言わないでさ。ちょっとだけだから。」
「嫌だって言ってんだろ。」
「あなたの免許証についてなんだけど」
俺は、背筋が寒くなった。
「免許証……?」
「そう。ここじゃ何だし。」
「……分かった。」
「じゃあ、あなたの家で待ってるから。」
茉央は、すぐに店を出た。
バイトを終えて、愛車の軽自動車に乗り込み、店から車で5分ほどの我が家に到着した。
我が家のある2階建てアパートの、住民用の駐車スペースに車を停める。付近には見慣れない車が2台ほど路上駐車している。紫藤家の車だろうと想像がついた。
「お疲れさま。」
車を降りると、茉央がやってきて出迎えた。
「お家にお邪魔してもいいんだけど、急に押しかけるのも迷惑だろうし、もしよかったら、そこの車の中で話さない?」
茉央が示す先には、さっき見かけた、黒色の高級ミニバンが停車していた。
茉央に促され、車内へと入った。豪華なシートの右側に茉央が座り、俺は左側に座った。
「さっそく、これを見てほしいんだけど。」
手渡されたのは、俺名義の免許証をコピーしたものだ。
「あそこのコンビニで働くとき、これを提出したと思うんだけど、気になる点があって。」
「そもそも何でこれを持ってるんだ。」
「それは言えないかな。それで、はっきり言うけど、これ偽装だよね。」
茉央は単刀直入に、俺に質問をする。
「偽装じゃない。」
「本当?」
「本当だ。」
「なら、警察に見てもらっても問題ない?」
俺は、黙ってしまった。
「もし逮捕させたらこうやって会えなくなっちゃうし、この事は内緒にしたいと思ってる。でも、1つだけ条件があるの。」
茉央が喋る間、俺は何も言えず黙っていた。
「私と結婚して。」
茉央は、黙ったままの俺を見ながら、プロポーズした。
「今すぐとは言わない。1週間の間、よく考えて、結論を聞かせてほしい。まずは、恋人同士の関係に戻って、結婚はその後かなって思ってる。どう?」
「分かった。」
「本当は、このまま私の家まで連れていってあげたいけど、無理矢理するのもよくないし。」
1週間は、茉央が考えたせめてもの猶予期間なのだろうか。
「よーく考えて、1週間以内に電話してね。」
俺は、車から降りて我が家に戻った。
バイト終わりの疲労と、目の前の現実に、吐き気を催した。
この状況を打開すべく、今すぐにでも逃走しようと考えた。
ただ、前に茉央のもとを離れた時、逃走プランを練りに練って、周到な準備のもと実行したのだ。
それなのに、茉央は1年ちょっとで俺の居場所を突き止めた。前より完璧な逃走プランが、たった1週間で完成するはずがない。
しかも、茉央の手配したであろう監視役が、俺を常につけていた。
家の前には24時間車が停車するようになり、俺がバイトに行く時は真後ろについて、バイトが終わるまで駐車場で待機している。
こんな状態で、彼らを振り切るなんて無理だ。
次に、結婚を断ろうと考えた。
断った場合、俺は公文書偽造罪で逮捕されるだろう。実刑判決を受けるかもしれないが、百歩譲ってそれはいい。
しかし、紫藤家は日本でも有数の資産家で、政治や行政に強い影響力を持つ。拘留中・服役中の俺の様子は筒抜けで、出所日も知られてしまうだろう。
出所日には当然、茉央が待ち構えている。車に乗せられ、茉央の家に連れて行かれるだろう。
また、逮捕されたら周りの人に迷惑がかかる。
知らずに偽装免許証のコピーを受け取った店長は、恐らく事情聴取を受ける事になる。ただでさえ人手不足で困っている店長に迷惑をかける事はできない。
俺は、絶望と諦めの境地にいた。