工房にて
異世界に召喚されてから6年が過ぎた。
自分は23歳になっていた。正確に言えば、この世界の数え年では24歳になるのだろう。
召喚される前のことは段々とおぼろげになり、元の世界で死んだ直後に召喚されたと思うのだが、今となってはよく思い出せない。
季節は春の終わり、夜が更けた頃だ。自宅地下の工房でポーションの生成を行っていた。工房は薄暗く、ランプの小さな明かりだけが視界である。部屋が広い分、余計に暗く感じられるのだろう。置かれている器具や家具は現役であるがどれも年季が入っている。いま自分がいる工房は地上の建物よりも古く、かつてここに場所に住んでいた錬金術師が使っていたのだと聞いている。当時の錬金術師の屋敷が取り壊された後、地下の工房だけが残ったのだ。現在の家主は、その古い工房をそのまま利用する形で家を建てたのだという。その歴史の重さからか、窓がなく換気もできないせいか、この空間は時を止めているかのような錯覚を引き起こす。
部屋の中央に置かれた古い木の机と椅子で薬の調合を行っていると、古の錬金術師になったような気分になる。子供のように少しワクワクしているのは誰にも言えない。今日は自分達が明日納品するためのポーションを拵えていた。試験管のように細長い涙滴型のフラスコに、ポーションの原薬と精製水を1対6で加える。そして調合が終わったフラスコを木製のホルダーに1本ずつ置いていく。
原薬の作成工程はあまり記述したくはないが、泣き叫ぶ下級マンドラゴラの首をはね、体液を抽出してそれを目の細かいガーゼで濾す。その後、数種のハーブを漬け込む。季節によって漬ける日数は異なるが、この時期は大体4日ほどで仕上がる。人間がマンドラゴラの声を聞くと失神するとされているが、それはマンドラゴラがもともと人間の精神や肉体に干渉する魔力を持っているからだ。この仕組みを利用して、薬草の効能を効率的に人体に行き渡らせることができるのである。
最終工程に取り掛かる。
「“大いなるは赤の2番、緑の7番、青の1番。ケン・シマはここに結合を命文する。”」
そうして、自分――錬金術師・島津健太は呪文を告げる。
こうしてマンドラゴラに魔法の呪文を唱え、薬草の効果を定着させれば完成である。緑がかった白濁のフラスコ内の液体は、若葉の如く、あるいは初夏の山々より美しい緑に光った。そして数秒の発光の後、スタンドに立てられた12本のフラスコの中の溶液は淡い緑色の半透明となっていた。
マンドラゴラの体液はもとより魔力を帯びているため、魔力を持たない自分でも呪文さえ間違えなければ確実に調合できる。
背後にある地上へと続く階段をパタパタと音を立てながら降りてくる足音が聞こえた。
「ケンくん、ご飯の準備できましたよ。」
ここな家主にして、我が師匠、そして半年前に結婚した妻であるエリスが優しげな声をかけてくる。振り返ると、白黒ツートーンの毛皮の前掛けをしたエリスの姿が見えた。以前、自分がプレゼントした風イタチの毛皮の前掛けだ。
大きな黒い瞳がキョロンと自分と机のポーションを交互に眺めている。彼女は調理をしていたのだろう、長い黒髪を後ろに束ねていて、それが馬の尻尾のように左右に揺れているのがなんとも愛おしく思えた。しかし、その側頭部から生えている角が、彼女をこの世界の住人であると証明している。彼女――エリスは魔族という種族に属する。角があること以外、正直人族と見分けがつかないほどだ。この世界の人間は黒髪が少なく、黒い瞳を持つ種族は魔族しかいないらしい。自分も黒髪に黒い目というだけで魔族に間違えられる事もままある。
自分はこの世界で、女錬金術師のエリスに召喚された。彼女の弟子として暮らし、今は彼女の夫として過ごしている。可愛い妻とののんびりした今の暮らしにかなり満足しているし、正直に言うと前の世界に戻りたいとはあまり思わない。この世界に来てからのことはしっかり覚えているが、召喚された頃からずっと彼女に感謝の気持ちを抱いている。きっと、自分は『いい』死に方はしなかったのだろう。
「ポーション、かなりいい出来ですね」
エリスは感心したようにそう言った。
薄暗い部屋でも遠目から分かるものなのか、と一瞬疑問を持ったが、彼女は自分と違い魔力が多い種族である。彼女曰く、人でも魔法でも薬でも一目見ればその魔力の質や量なんかもわかるものらしい。
「そうだね、ポーション作成はかなり努力したからね。少し自信があるかな。」と答える。
ポーションの精製は錬金術師の基本中の基本とのことだ。そうエリスに教えられてから1日として忘れたことは無い。
すると「ふーん。それなら、私がもう教えることも無くなってしまいましたかね?」
すこし拗ねたように、エリスは口を尖らせてそう呟いた。その仕草が愛らしくて、つい笑みが溢れた。
「なっ!何を笑っているんですか?なんだか少し馬鹿にしていませんか…」とエリスは少し不機嫌そうに薄目になった。
ーーこれはいけない。
「ごめん、拗ねたエリスがあまりにも綺麗でつい…ね。それにまだまだエリスには及ばないよ。」
「ふーん、ならいいですけど。」
照れたのか、少し上擦った声だ。まんざらでもないような表情をしている。表情がコロコロ変わる妻を見ているのは正直何よりも楽しい。
「ご飯だよね。布袋に包んだらすぐ上がるから、待ってて。」
「わかりました。」
エリスが階段を上がろうとする背中に、「その髪をまとめているのも素敵だね。」と声をかけた。
一瞬動きがピタッと止まったが「馬鹿なこと言ってないで、早く来てください!」と叱られた。ギクシャクした足取りで階段を登るその背中は振り向いてはくれなかった。
自分は今、世界で一番幸せなのではないかと思った。