直の章:3.今を見て
その日の朝、君は玄関先で鏡も見ないで口紅を塗っていた。
向こうでは、君の母親が緊張した声で電話をしている。
電話を終えて、おばさんが慌てて玄関にやって来た。
「誰?」
君が聞くと、おばさんは、不安の色を隠しきれず、早口に言った。
「香奈ちゃんのお母さんよ。香奈ちゃんが、交通事故で入院したって」
君の顔がさっと青ざめる。
「彼氏とバイクで二人乗りしてて、ガードレールにぶつかったとか」
「で、香奈たちは?」
「翔って子はかすり傷で済んだらしいけど、香奈ちゃんが頭蓋骨骨折で意識不明だって」
「それで?」
「手術はしたみたいなんだけど、まだ意識が戻らないそうよ。今は面会謝絶らしいわ」
おばさんが目を伏せる。
「手術っていつ?」
「おとといですって」
「病院は?」
君が震えた声で短く聞く。
「狸里病院」
「行って来る」
君は、ドアを激しく開けた。
おばさんが言う。
「面会謝絶だって言ったでしょ。とりあえず、学校に行きなさい」
「今日は休む」
「今日〆切のレポートがあるとか言ってなかった?」
「だって!」
君の語気が強まる。
おばさんは、ため息をついて
「好きにしなさい」
君は、下を向いてぼそっと言った。
「学校、行って来る」
翔たちのことは俺も心配だ。
だけど、それ以上に、君の動揺が心配だった。
ぼーっとして、今にも電車のホームに落ちそうで、見てられない。
(ねぇ、直君、香奈、大丈夫だよね?)
大丈夫だよ。
きっと。
君は何とか学校に着いたけど、神田が入ってきても、気付かない。
「木村さん、おはよ」
「あ、おはよ」
いつもなら、授業が始まるまで話に花を咲かす君たちだ。
だけど、君にその気がないのに神田は気が付いて
「どうしたの?」
君は無理に笑顔を作った。
「なんでもない」
授業が始まった。
だけど、君は何も手につかない。
時間だけが過ぎていって、1時限が終わる直前になり
「はい、じゃ、レポート、集めます」
教授がそう言った途端、君は鞄を手に立ち上がり
順を待つ列も無視して、さっさとレポートを提出する。
そして、足早に後ろのドアから出ていこうとした。
列の後ろでレポート提出の順番を待っていた神田が心配そうに聞いてくる。
「帰るの?」
「うん、ちょっと用事があるから」
神田は、何か聞きたそうだったけど、君のいつもと違う様子に、じゃ、と手を振った。
君が校舎を出ようとしたとき
「木村さん!」
君はキッと後ろを向いて
「何!」
神田がびくっとする。
「ごめん。ほんと、私、急いでて。で、何?」
「いや、学籍番号、聞いておこうと思って」
「え?」
「ほら、次の授業、出席票での確認でしょ。出席日数ギリギリだって言ってたから」
君は、ありがと、と言って、一瞬、動きを止めた。
「やだ、ど忘れしちゃった」
学籍番号を調べるなら、学生証を出せばいいだけだ。
だけど、君はそれをしない。
「いいや。気持ちだけありがと。香奈の方が大事だもんね」
君は最後の方だけ、俺に話しかけるように言って、再び早足で歩き始めた。
神田が後ろをついてくる。
「香奈って・・・香奈さんがどうかしたの?」
「事故にあって、意識がまだ戻らないんだって」
神田は少し立ち止まったけど、また後をついてきた。
「僕も行くよ」
何で、なんて言ってる場合じゃないんだろう。
君は、神田の好きなようにさせた。
電車の中でも、君はまだ落ち着かず、俺に話しかける。
(どうしよう、香奈がいなくなったら、どうしよう)
大丈夫。
大丈夫だよ。
それでも、君は同じことを何度も何度も俺に話しかけてくる。
神田、美咲を安心させてやってくれ。
俺の言葉は、美咲に聞こえない。
「大丈夫だよ、きっと」
神田が君の背中をさすった。
君は、こくっと頷いた。
病院につくと、ロビーには、翔がいた。
翔は、かすり傷一つだったのに、随分、やつれてるように見える。
「翔君」
翔は君に気付くと
「美咲ちゃん、来てくれたんだ」
「香奈は?」
「容態は安定してるんだけど、まだ意識が・・・。おばさんが今、香奈についてる」
翔がうつむく。
「どうして、こんな・・・」
「俺がちょっとよそ見したんだ。俺はガードにぶつかっただけだけど、香奈が飛ばされて」
所在なく立っている神田を、翔が盗み見る。
君はそれに気付いて
「神田翼君。同級生なの。香奈の彼氏、村木翔君」
紹介だけして、黙り込んだ。
しばらくして、香奈ちゃんの母親らしい人が病室から出てきた。
君と翔がおばさんに走り寄る。
「俺、代わります」
そう言って、翔は香奈ちゃんの病室に消えた。
おばさんは、君を見ると
「あら、美咲ちゃん、来てくれてたの。ありがとうね」
目が真っ赤だ。
「ご無沙汰してます。あの、香奈は?」
「まだよ」
君は病室を見ながら
「いいですか?」
「ええ、もちろん」
君も香奈ちゃんの病室に入る。
翔が、微動だもせず横たわってる香奈ちゃんの手を握ってる。
君は
「香奈・・・」
と、つぶやいてドアの前で唖然と立ちつくし、ロビーの神田のところに戻った。
「怖くて見てられなかった」
神田が君の背中をゆっくりさする。
翔とおばさんが何回か交代を重ね、夕方になった。
君は、家に連絡を入れるため、一度外に出ると、ロビーに戻った。
入れ違いに、神田が
「僕、何か飲み物買ってきます。木村さんは何がいい?」
君が首を横に振る。
「だめだよ、水分、取らなきゃ」
そうだよ、美咲。
神田は、それでも首を振る君に
「じゃ、お任せってことで」
翔にもリクエストを聞いて、売店へ向かった。
ちょうどそのときだった。
香奈ちゃんの病室がバタバタし始めた。
君と翔の表情が強ばる。
少ししておばさんが病室から出てきた。
おばさんは、君たちを見ると優しく微笑んで
「香奈、今、目、開けてくれたわよ」
君と翔は病室に駆け込んだ。
香奈ちゃんが、うっすらと目を開けて、君たちを見る。
「あ、久しぶり」
香奈ちゃんの声は、小さかったけど、はっきりしていた。
君は
「香奈のバカぁ」
香奈ちゃんの傍に肘をつくと、わっと泣き始めた。
翔は、へなへなと近くにあった椅子に座り込むと、うつむいて、ただ、肩を震わせた。
ドアが再び開いて神田が現れた。
君が溢れる涙を拭って、振り向いて神田に言う。
「香奈が起きてくれたよ」
よかったね。ほんとによかった。
神田は、香奈ちゃんと君の方を向いてから、少し微笑んだ。
神田の頬に涙がつたる。
「やだ、神田君まで泣かないでよ。メイク、崩れちゃうよ」
神田は君に言われて、しゃっくりまであげだした。
「木村さんの大事な人が、いなくならなくって良かったっと思ったら」
君も、神田と一緒に泣き笑いを浮かべた。
そんなこんなで、君たちは帰る時間になった。
香奈ちゃんは部屋を出ようとする君を呼び止めて
「彼氏、優しい人なんだね」
「彼氏じゃないよ、ただの同級生」
「ただの同級生が、あんたについて見ず知らずの私のとこに来るかぁ?」
「そういう人なんだよ」
香奈ちゃんは
「美咲にお似合いだと思うよ」
にやっと笑った。
そんなの俺が認めない。
その後、香奈ちゃんは1ヶ月ほどで退院し
君と神田は、その間にも何回もお見舞いに行った。
そして、君たちは大学4年になった。
ある日。
目が細く、淡泊な、ほっそりとした顔立ちの男が君の隣に座った。
黒髪で、黒のスーツを着ている。
「おはよ、木村さん」
君は目をぱちくりさせ
「神田君?」
「そうだよ」
神田は、はにかんだ。
君は
「うわぁ」
と声をあげ
「その方がいいじゃん」
ゆっくり微笑む。
神田は、ありがとう、と、言って
「今日は面接なんだよ。面接でさすがにあの格好はマズイでしょ」
「うん」
君は鞄をごそごそとしながら相づちを打つ。
「木村さんがあのとき、ああ言ってくれなかったら」
神田が言ってる途中で君は
「あった、あった」
神社で売っているお守りを取り出した。
「はい、これ」
「ん?」
「神田君、面接あるって言ってたから合格祈願のお守り。近くの神社のだけど」
「ありがとう」
神田は受け取ったそれをじっと見て
「これ、中に何が入ってるんだろ。開けてみたくなるよね」
君は、くすくすと
「気持ち分かるけど、開けちゃだめだよ」
そして、少し静かな口調で
「きっとこの中には、願いとか、思いが閉じ込められてるんだよ。開けたら逃げちゃう」
「パンドラの箱?」
「うん」
君は俺に目を移して、うふふ、と笑いながら
「私も直君をこの内側に閉じ込めてるの」
いいよ。
俺はずっとここに
君の想いに閉じ込められていたい。
それから一週間ほどしたよく晴れた日。
俺が、ベンチに座ってる君のきりりとした横顔に見とれていると
「木村さん!」
すっぴんの神田が大きく手を振って走ってきた。
「どしたの、神田君」
「内定、もらったよ」
そう言って、神田は君に通知を見せる。
君は、ぱっと顔を輝かせて
「おめでとー」
神田は、すとっと君の隣に腰を下ろした。
「木村さんのお守りのおかげだよ」
君がくすっと笑う。
しばらくの沈黙が流れて、神田が口を開いた。
「ねぇ、木村さん」
神田の真剣な口調に、俺は嫌な予感がする。
「ん?」
「僕と付き合って欲しいんだ」
神田が君を見つめる。
君も神田の目をじっと見返すけど
神田は必死な様子で、君から目を外さない。
「指輪の彼のことはずっと想ってていいから、ただ僕の傍にいて欲しいんだ」
君は何か考えてる様子で、一言も発さない。
今まで君は、男に告白される度に、即答で断ってたじゃないか。
今だって、いつものように、こう言えばいいんだよ。
私には、直君がいるからって。
「ちょっとだけ時間、くれる?」
神田が頷いた。
君は家に帰って、俺を撫でながら、聞いてきた。
(ねぇ、直君)
何?
(私、神田君に告白されちゃった)
うん、知ってるよ。
(どうしよう)
神田なら、断っても許してくれるよ。
(ねぇ、直君)
何?
(直君だったら、神田君と幸せになってもいいよって言ってくれるよね?)
そんなこと言わない。
俺はそんなにできた男じゃないんだよ。
それから数日して、君は図書館の前で神田と待ち合わせると
「ごめんなさい」
と、小さく一言、言った。
君は拳を握りしめてる。
痛いよ。
痛い。
神田は悲しそうに目を伏せたけど、すぐに、いいよ、と言って立ち去った。
その日の夜、君は泣いた。
その涙は、俺のための涙なの?
それとも
自分の葬り去った気持ちへの涙なの?
分からない。
分かりたくない。
それから、君と神田は距離を取るようになった。
授業で一緒になっても会釈しか交わさず
帰りが一緒になっても電車を逃すことはなくなった。
君は就職活動の疲れもあってか、少し痩せて、俺がぶかぶかになった。
君はそれに気付くと
(落としたら大変だもんね)
俺に革紐を通し、首にかけるようにした。
時が流れるのは早くて、君はすぐに卒業式を迎えた。
就職も、希望通りとはいかなかったけど、とりあえず決まっていて君は落ち着いている。
成人式の着物姿にも、うっとりしていた俺だけど
今日の君はまた一味違うね。
知性を備えた大人びた顔に、深紅の着物がよく似合ってる。
とても、綺麗だよ。
君が卒業賞状を受け取って、壇上を下りる。
君の凛とした美しい姿を見ていられるのも、後少しなんだね。
君が神田に告白されたときから俺はずっと考えていた。
いや、ほんとは香奈ちゃんが事故にあったときから気付いていたんだ。
これから、君と、泣いたり笑ったりして支え合えるのは神田なんだって。
その方が君は幸せなんだって。
だけど、俺は君を離したくなくて、それから目を逸らしてた。
でも、もういい。
君が幸せになれるなら、それでいいんだ。
卒業式が終わりに近づいていく。
君と神田のことだ。
卒業式を終えたら、お互い連絡なんて取らないんだろう。
会うこともなくなるんだろう。
だから、君たちがそうなる前に、俺は眠ることにする。
学長が閉会の言葉を締めくくり始めた。
神田なら、俺がリングに刻むつもりだった言葉を態度で君に表してくれるはずだよ。
永遠の愛を君に。
そう、それが俺が君のリングに刻むつもりだった言葉。
そうだ、眠る前に君に答えなきゃいけないことがあったね。
君を何で好きになったか。
君のどこが好きなのか。
君は、俺が欲しい言葉を俺の欲しいときに言ってくれるからだよ。
ー温かい写真だねー
ー直君の写真には表情があるからー
ー人間愛、持ってる持ってるー
そんな君の言葉が嬉しくて。
卒業生が、君が、教室を出ていく。
さぁ、答えも終わったし、俺はもう眠るよ。
おやすみ、美咲。
幸せに。