ハラキリ
タクシーを降りると地面がグラッと揺れたような気がした。凍てついた夜のアスファルトがまるで波間をただよう小舟の底のように感じられる。
「お客さん、大丈夫ですか?」
年配の運転手が顔をしかめた。おれはたたらを踏んで門扉に寄りかかると酒くさい息を吐いて苦笑した。
「参ったな、ちょっと飲みすぎたようだ」
「足もと滑りますから、気をつけてくださいよ」
甘ったるい排気ガスのにおいを残してタクシーは走り去った。両足をふんばって寝静まったわが家を見あげる。常夜灯の明かりに照らされた表札の文字が、なぜだか自分の戒名を刻んでいるように思えた。
音を立てないようそっと玄関で靴を脱ぐ。しかし足もとがふらついているせいで盛大に尻餅をついてしまった。すぐに寝室のドアがひらきパジャマ姿の妻がスリッパを鳴らして飛んできた。
「あらあら、なんですかこんなに酔って……」
「すまん。ちょっと会社で送別会があってな」
千鳥足でリビングまで行きソファにどっかりと腰をおろす。ネクタイをゆるめホッと息をついていると、妻が水の入ったグラスを盆にのせてきた。
「こんな年の瀬に、だれか転勤なさるの?」
訝しげな目を向けてくる。おれは答える代わりにグラスの水を一気に飲み干した。
「もう一杯くれないか」
妻が空のコップをさげてゆく。その背中へ向かって、言った。
「急で悪いんだが……明日腹を切ることになったから」
へべれけになるまで酔って、やっと言えたひとことだった。
妻の肩がピクッと震えたのが分かった。
ネット社会には、さまざまな弊害がある。
人権やプライバシーの侵害、偏った知識の蓄積、その匿名性ゆえに増大する悪意――。
現実の世界では寛大な人間が、ひとたびネットへ潜ると攻撃的で容赦のない人格へと変貌してしまう。彼らは、得てして有名人や一流企業の不祥事にはヒステリックなまでに牙を剥いてくる。集団で寄ってたかって攻撃し、ターゲットが社会的に抹殺されるまでその手をゆるめない。この行動原理は断じて正義感などからくるものではない。憂さ晴らし、面白半分、優越感、ゲーム感覚、そんなところだろう。ブログを炎上させることに喜びを感じ、電凸などと称して執拗にクレーム電話を繰り返す。その結果たいして関係のない者たちまで悲惨な思いをしようとも、おかまいなしだ。
この異常な攻撃の連鎖を食い止めるには、彼らの陰湿な欲求を別のかたちで満たしてやる他ない。そこで企業が考え出したのが、かつて武士のあいだで行われていた習俗、ハラキリだ。
不祥事を起こした企業は、責任者が腹を切ることでけじめをつけた旨をネット社会へ訴えるのである。
翌朝の食卓にはご馳走がならんだ。
「やあ、これは豪勢だなあ」
おれは苦笑しながら、泣きはらした顔の妻に言った。
「心配するな、腹を切った社員の家族には、会社から相当な額の遺族年金が支給されることになっている」
「……お断りするわけにはいかないの?」
「ダメだ。今日のハラキリはもうSNSで告知してある。もし土壇場でおれが拒めば、発狂したネット民によっておれたち家族のプライバシーが丸裸にされ、連日連夜、あることないこと書き込まれるに決まっている」
黙って夫婦の会話を聞いていた娘が、乱暴に席を立ってリビングを出ていった。妻が思いつめた表情でつぶやく。
「できれば、わたしもあなたの後を追いたいのだけど……あの子がいるしね」
「おい、バカなことを考えるのは止せ。おまえたちまで死ぬ必要がどこにある」
おれはコーヒーをひと口すすって立ちあがった。
「せっかくの料理だが、これから腹を切らなきゃならない身だ。すまんがもう行くぞ」
おれは料理にはほとんど手をつけずに家を出た。
二階にある子供部屋の窓から娘がじっとこちらを見ていた。
最後に手を振ってやるべきかどうか迷ったが、やめておいた。
余計に辛くなると思ったからだ。
駅の改札で総務の木下とばったり顔をあわせた。木下はおれと同期入社で、昔はよく一緒に飲み歩いた仲だ。
「やあ、おはよう」
心なしかウキウキした様子で木下がおれの肩をポンとたたいた。
「災難だったな。まさかおまえが腹を切ることになるなんて」
おれは二日酔いで痛む頭を押さえながら苦笑した。
「仕方がないさ、今回の不祥事では死人も出たし、マスコミが派手に取りあげたせいでネットじゃ大騒ぎだ」
「でもそれなら社長か、せめて役員のだれかが責任を取るべきだと思うがね」
うちの会社は業績不振のすえに外資系企業に買収されている。社長はじめ役員はすべて親会社からの出向だ。
「しょせん外国人には、日本のハラキリ精神なんて理解できないさ。強要すれば国際問題に発展してしまう。まったく馬鹿な話だよ、ハハハ」
おれは虚勢を張って愉快に笑ってみせた。木下が感心したようにうなずく。
「おまえ肝が据わってるなあ。よし同期のよしみだ、あとのことはおれに任せろ。葬儀の段取りから各種届出まで、すべて滞りなくやってやるよ」
「それは助かる。家族のことよろしく頼んだぜ」
喪服を着た妻と娘のすがたが一瞬あたまをよぎった。
会社に着くとすぐに朝礼があり、全社員のまえで挨拶をさせられた。営業部の女の子たちが泣きながら花束を手渡してくる。白いユリと菊の花だった。何人かと個人的なあいさつを済ませ、トイレの鏡でネクタイを締めなおすと、おれは役員会議室の扉をひらいた。
会議室にはすでにくじら幕が張られ、床一面にビニルシートが敷かれている。その真ん中には白木でつくられた三方が置いてあり、新品の刺身包丁と、白紙のコピー用紙が一枚のせられていた。
おれは靴をぬいで三方のまえに正座した。
ふと見ると業務課長の大石が、神妙な顔つきで傍らにひかえていた。おれと目があうと気まずそうにおじぎをする。
「このたびはどうも……不肖このわたしが介錯をつとめさせていただきます」
おれはびっくりして目をみはった。彼は両手に重たそうなチェーンソーを抱えていたのだ。
「おい、なんだよそれは?」
「すまんな。うちの会社に剣の心得のあるものがいなくて」
「だからって、なにもそんなものを持ち出すことはないじゃないか」
「素人が刃物を振り回すよりは安全だよ。それにこれなら首の骨まで確実に切断することができる」
おれは全身おぞ毛立った。
そこへ役員連中がぞろぞろと入ってきた。フランス人、フランス人、中国人、イギリス人、フランス人。五人とも外国人だ。もちろん検視のために来たのだが、彼らは長テーブルへ腰かけるなり、まるで新製品のプレゼンテーションでも待つような面持ちでこちらを眺めた。
おれは一礼すると、刺身包丁の柄にコピー用紙を巻きつけた。
三宝を尻のほうへ回す。
大石課長がチェーンソーのスターターを引いた。甲高いエンジン音とともにノコギリの歯が高速で回転し始めた。
短刀の柄を両手でにぎりしめ、ぎゅっと目を閉じた。息を詰めて歯が折れそうなほどに食いしばる。
妻の顔が浮かんだ。娘の顔も浮かんだ。みんな、みんな、サヨウナラ。
短刀を腹につき立てた。
「ぎゃっ」
おれは半泣きになって床をゴロゴロ転げまわった。皮下脂肪をほんの少し裂いただけなのに飛びあがるほど痛い。
「だ、だれか助けてくれ、医者だ、早く救急車をっ」
ワイシャツを血で真っ赤に染め身をくの字に折りまげる。すると会議室のすみから屈強の若手社員がわらわらと寄ってきておれを羽交い締めにした。
「部長、我々がお手伝いします」
「ばか、やめろっ。ハラキリはもう中止だ、こんなに痛いとは思わなかった」
「そういうわけにはいきません。この様子はリアルタイムで全国へネット配信されているのです。わが社の威信がかかってるのですよ」
そう言うと二人がかりでおれの両腕をねじあげ前屈みにさせた。
「ひっ、人殺し、おまえらは人殺しだ」
ギュイーンという回転音が首のすぐうしろまで迫ってくる。刃風がうなじに当たり、おれはついに失禁してしまった。
「た、頼む、いったん落ち着いてくれ」
「ご、ごめんなさいっ!」
ひと声叫ぶと、大石課長はチェーンソーでおれの首を切り落とした。
一瞬ビリっと電気に触れたような痛みがあり、ついで後頭部をハンマーで殴られたような衝撃が走った。
切断されたおれの首は、床のうえで一回転してピタリと止まった。
急速にせばまってゆく視界のなか、会議室の片隅に設置された中継カメラがおれの目に入った。そして感じた。レンズのむこうにある無数の視線を。
憤懣。
好奇。
嫉妬。
差別。
享楽。
欺瞞。
ネットという無明の闇のなかでありとある負の感情が渦を巻き、じっとおれのほうを凝視していた。
くそ、こいつら……。
最後にカメラへ向かってなにか言おうとした。言うべきだと思った。しかし急速に訪れる寒さと眠気のなか、おれはついに意識を保てなくなり、そのまま静かに目を閉じた。