4 博識令嬢の生理的嫌悪
「博識令嬢殿」
ランチを取ろうとみんなで教室を出たところで、聞き覚えのある平坦な声に行く手を阻まれた。
顔を向けるより早く、アシュレイ様が私を庇うように前に出る。
「何か?」
声の主はくつくつと乾いた笑い方をして、けろりと答えた。
「あなたに用があるわけではありませんよ、アシュレイ・ディアハイル公爵令息殿。そのような余裕のない態度では、先が思いやられますね」
見上げると、アシュレイ様の顔が珍しくはっきりと屈辱に歪んでいる。
そして、ひょろひょろと背が高く、きついウェーブのかかった赤茶色の髪をかき上げながらエルドレッド・ジンデル侯爵令息は得意の薄笑いで私を見下ろした。
「いいのですか、博識令嬢殿。せっかくジェイコブ殿下との婚約がなくなったのに、今度はこのようなお子様が相手で」
その言葉に一瞬で感情を昂らせたアシュレイ様は、反論しようとして何か言いかけた。
それを目で制した私は、必要以上に表面的な作り笑いでエルドレッド様の顔を見据える。
「ええ。アシュレイ様が良いと決めたのは私です。少なくとも、あなたよりは数倍マシですわ、エルドレッド様」
「そんな冷たいことを。ジェイコブ殿下との婚約などさっさと解消して、我がローダム公国に一緒に参りましょうと何度もお誘いしておりましたのに」
このひょろひょろというかなよなよというか、とにかく背の高さから妙に目立つエルドレッド様は、ものづくりや加工・製造など工業の盛んな「技術力の国」ローダム公国の侯爵令息である。
学年は1つ上だからあまり会う機会はないはずなのに、こうして隙を見ては私に声をかけに来る。
近隣諸国から「知の国」と呼ばれ、多くの知識人や学者、研究者を輩出して来たラングリッジ王国の王立学園には、その教育レベルの高さからさまざまな国の留学生が集まってくる。
ライアン殿下しかり、エルドレッド様しかり。
このエルドレッド様はローダム公国侯爵家の次男でありながら、ローダム遺跡研究所の研究員も務めているらしい。
遺跡研究の更なる発展のため、より深く学ぶことのできるこの学園に編入してきたのは1年半ほど前だという。
「ローダムに行くことはないと、何度もお断りしたはずです。遺跡や古代語の研究ばかりしていらして、現代語が通じなくなったのかしら」
「相変わらず辛辣ですね。でもその冷たさもあなたの魅力なのですが」
そう言って、エルドレッド様は鬼のような目で凄むアシュレイ様を一瞥し、抑揚のない声で続けた。
「私の方が、あなたの知的好奇心を満足させられると思うのですがね。まあ、子どものお守りに飽きたら、いつでもいらしてください。歓迎しますよ」
言いたいことを言うだけ言って満足したのか、エルドレッド様は見るからに上機嫌でその場から去って行った。
「あの人、いまだにグレイスに言い寄ってたの? しつこいのね」
ランチのためにカフェテリアに入るや否や、我慢できないといった様子でイヴリンが振り返った。
「そうみたいね。最近見かけなかったのだけど」
「ジェイコブ殿下との婚約がなくなったからこれはチャンスだと思ったのに、あっさりアシュレイに取られたから嫌味の一つでも言いにきたんだろうよ。なあ、クライド」
「そうですね。随分とアシュレイ様に対して意地の悪い物言いでしたが」
「殿下と婚約していても、全く意に介さずグレイス様に言い寄ってらしたのだもの。悔しくて仕方がないのでしょう」
みんながランチを囲みながら先程の無遠慮な襲撃に関してあれこれ話しているのに、ふと気づくとアシュレイ様が顔全体の筋肉を強張らせて硬い表情をしていた。
「アシュレイ様?」
声をかけると、アシュレイ様は強張っていた頬を少しだけ緩ませる。
「僕は今、うれしさと悔しさでこの身が引き裂かれる思いです」
「は?」
「先程グレイス様に、僕がいいと決めたのは自分だと言われて飛び上がるほどうれしいのですが、エルドレッド様に子ども子どもと馬鹿にされてカーッとなってしまい、うまく言い返せなかったのが本当に悔しくて」
「あら」
私は手にしていたトレイをテーブルに置いて、複雑な表情を浮かべるアシュレイ様の方にくるりと向き直った。
「アシュレイ様。私、これでもうれしかったのですよ?」
「え?」
「殿下に婚約破棄を言い渡されたあと、すぐさま婚約を申し出てくださって。こうなることを予想していたとはいえ、やっぱり落ち込む気持ちもあったのです。でも次の日にはすぐディアハイル公爵と一緒に婚約の申し込みに来てくれて、ああ、私にもまだ求めてくださる方がいるのだと」
「グレイス……」
「いくら爵位が上の公爵家からのお話とはいえ、私が心から嫌だと言えばお断りすることもできたでしょう。双方とも親が乗り気だったこともありますが、アシュレイ様だったからこそ、私は受け入れることに決めたのです。これが逆に、エルドレッド様だったら迷わずお断りしていましたわ」
私の話が聞こえたのか、イヴリンはたまらず吹き出した。
「あの方はこれまでもなんだかんだと声をかけてこられました。私のことをわざとらしく『博識令嬢』といつまでも呼びますし、胡散臭い上に私の頭の中の知識にしか興味がないようで、ちっとも好ましく思うことはなかったのです」
1年半前、エルドレッド様が編入してきてすぐ今と同じように廊下で呼び止められた。
突然の自己紹介のあと、自分もローダム公国では秀才と認められていて、その証拠に遺跡研究所の研究員をしていることなどを一方的に説明され、ローダムの遺跡についての見解を求められたのだ。
ローダム公国では10年ほど前に古代文明の遺跡が見つかって、ラングリッジ王国の研究者協力のもと、長年その遺跡の調査研究が進められている。その頃ちょうど古代文明や古代遺跡といったものに興味を持ち始め、王立図書館にある古代に関する本を片っ端から読んでいた私は意見を求められたことでちょっと興奮してしまい、自分の考えをつい得意げに話してしまった。
今思えば、あれがいけなかった。
エルドレッド様は私の指摘にいたく感激され、それからもちょくちょく呼び止められては質問され、それに答え、また質問されるというやりとりを繰り返した。
そうしているうちに「私と一緒にローダムに行って遺跡の研究に携わってほしい」とか「あなたの知識を提供していただきたい」とか「博識なあなたの頭脳がほしい」なんてあまりうれしくない、というか若干薄気味悪いことを言われるようになっていた。
この国の第二王子であるジェイコブ殿下と婚約している私に、ローダムに行く選択肢などあり得ない。
たとえ婚約していなかったとしても、エルドレッド様が「一緒にローダムに帰りましょう」なんて薄笑いで言うたびに虫唾が走るくらいには、生理的な不快感を抱いていたのは事実である。
「ですから、あの方が何を言おうと所詮負け惜しみなのですし、アシュレイ様が気に病む必要はないのです。それに、あの方はアシュレイ様を子ども子どもと揶揄しますけど、アシュレイ様が子どもでないことは私がよく知っていますから」
「僕は、子どもではありませんか?」
「ええ。だって、子どもだなんて思っていたとしたら、こんなに――」
言いかけて、口を噤む。
自分が何を言いかけていたのかに気づいて、顔が真っ赤に染まっていくのを止めることができない。
「子どもだなんて思っていたとしたら、なんです?」
「え、いえ……なんでも……」
い、言えない。
「子どもだなんて思っていたとしたら、こんなにドキドキしたりしません」なんて……。
さっきまで難しい顔をしていたアシュレイ様は私が何を言おうとしていたのかだいたいの察しがついたらしく、いつのまにかうれしそうに顔をほころばせている。
「僕は、思ったよりあなたに嫌われていないようでよかったです」
「あ、はい……」
まともなことは何も言い返せずしどろもどろになっていると、私たちの様子をうかがっていたみんなの楽しそうな声が聞こえてきた。
「思ったより、お似合いね」
「ほんとほんと。もうラブラブじゃないの」
「くそー! 俺も早々に名乗りを上げればよかった!」
「殿下、下品な言葉は慎んでください」
その言葉に私はふと思い立って、ライアン殿下に視線を向けた。
「殿下。もし殿下から婚約の申し込みがあったとしても、私はお断りしておりましたけど」
「え!? なんで?」
「殿下は帝国の皇太子。留学が終わって帝国に戻られたら、すぐにでも近隣諸国の王族かそれに近い方とご婚約されるのでしょう?」
「うーん、まあ、多分そうなるね。諸外国の情勢を鑑みて、いちばん適した人と政略結婚することになるとは思うけど」
「では、もしも私を連れ帰ったとしても、私は側妃ということですよね?」
「あ、ああ、それは、まあ……」
「私、ほかの方々と夫の愛を分け合うなんて、嫌なので」
はっきり言ってのけると、ライアン殿下は唖然としている。
帝国には今も後宮制度が残っていて、皇族の存続を確実にするために正妃一人に複数の側妃という一夫多妻制が認められている。
現皇帝にも側妃が3人いらっしゃる。ちなみに、ライアン殿下は現皇帝の最初のお子であり、正妃様のお子でもある。これ以上ないというくらい、正統性を保持した後継者なのだけれど。
「私だって、唯一無二の方から愛されたいので」
私の正論にコーデリア様もイヴリンも大きく頷き、そしてライアン殿下はぐうの音も出なかった。
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