3 神童の独占欲
「ほんとにいらしたわ……」
翌日、学園へ向かう時間に合わせてアシュレイ様が公爵家の馬車で迎えに来てくれた。
昨日の帰り際、「これからは毎朝僕が迎えに来ます。少しでもあなたと一緒にいたいので」などと言い残していったからだ。
殿下との婚約破棄からのアシュレイ様との婚約という急転直下の状況に気持ちが追いついていない私は、だいぶ半信半疑だったのだけれど。
昨日、陛下は私とジェイコブ殿下との婚約破棄に難色を示し、多少揉めたらしい。
でもいくらジェイコブ殿下が勝手に宣言してしまったとはいえ、王族の言葉を簡単に取り消すことはできない。
しかも、ジェイコブ殿下の学園での行動は王宮でも噂になっていて、それを知っていた王妃様や第一王子で王太子でもあるカーティス殿下は「婚約破棄は王室の有責とすべき」と主張したらしい。
さらに、ディアハイル公爵が後ろに控えていて睨みを利かせていたものだから、結局陛下も折れるしかなかったそうだ。
「おはようございます、グレイス。待っていてくれたのですか?」
馬車からにこやかに降りてくる制服姿のアシュレイ様。
なんだか堂々としすぎている。
まるでこれまでも毎日来ていたような雰囲気である。
「待っていたわけではありませんが。本当にいらっしゃるのかと思いまして」
「来ますよ。あなたに会いにね」
私の皮肉めいた言葉にも怯むことなく、アシュレイ様は近づいてきて当然のように私の手を取った。
「では、行きましょうか?」
そこにあったのは一昨日から何度か目にした甘やかな視線。
アシュレイ様が私への好意を隠すことをやめたのは、一目瞭然だった。
学園に着いて、アシュレイ様の手を借りながら馬車を降りた途端、驚きの声がざわざわと広がっていく。
それもそうだろう。
一昨日の夜会での茶番は、ほとんどの学生が目撃している。
その翌日、つまり昨日は休日だったけれど、殿下との婚約が破棄され、代わりにアシュレイ様との婚約が成立したという噂は一部の高位貴族にはすでに伝わっていたのだから。
そこかしこで「やっぱり婚約は破棄されたのか」とか「なんでアシュレイ様と?」とか「遅かったか!」なんていろんな言葉が混じる中、低学年の令嬢だろうか、悲鳴じみた声を上げている集団もある。
何事かしら? と首を傾げていると、笑いを堪えきれないといった涼やかな声がした。
「あらあら、この度はおめでとうございます」
振り返ると、そこにいたのはコーデリア・ハーシェル公爵令嬢。
筆頭公爵家でもあるハーシェル家の次女で、私の親友である。
ちなみに、お兄様の婚約者でもあるのだけれど。
「お父様からお聞きしましたわ。アシュレイ様、大願成就、よかったですわね」
「ええ」
「え?」
訳知り顔で微笑み合うアシュレイ様とコーデリア様。
「どういう意味?」
「ふふ。それはアシュレイ様からお聞きになったら? それよりも」
コーデリア様は悲鳴の上がった集団の方をちらりと見ながら、苦笑する。
「これから大変ですわね、グレイス様。『神童』で眉目秀麗なアシュレイ様は低学年の令嬢たちにとっては憧れの的でしたし、婚約者の座を狙っていた方々も多いと聞きますから」
「え、そうなの?」
思わず砕けた口調になったことにも気づかず、2人を見返す。
確かに、アシュレイ様はディアハイル公爵家特有の黒髪を長めに伸ばして後ろで束ね、神秘的な紫色の瞳をしている。さらに眼鏡のせいか理知的な印象もあり、年齢のことを考えれば低学年の令嬢たちに人気があるのも頷ける。
「僕にとってはグレイスの人気の方が脅威ですよ。殿下との婚約が破棄されたと聞いて、色めきだった令息が何人いたことか。だから誰にも取られないように、いち早く動いたのです。その判断が正しかったようで」
「全くだよ」
今度は後ろから、心なしか尖った声が飛んできた。
「俺がグレイス嬢をずっと狙ってたの知ってるくせに、堂々と横からかっさらいやがって」
ライアン殿下が、皇太子とは思えないほど荒れた口調で現れた。
後ろに控える従者のクライド様は、ほとほと参ったというように困り果てた表情をしている。
「殿下は一昨日の夜会のあと、これでグレイス嬢を帝国に連れて帰ることができると大喜びだったのですよ。ところが昨日になって、すでにアシュレイ様と婚約を結ばれたと聞かされましてね。その後の荒れようと言ったらもう」
「ほらね。『ラングリッジの至宝』と名高いグレイスの人気は僕なんかとは比べ物にならないんですよ。ライアン殿下だけじゃない。僕が急いでいたわけ、これでわかったでしょう?」
いつの間にかすぐそばに立って私の顔を覗き込むアシュレイ様は、まるで見せびらかすように私の手を取って優雅に微笑む。
い、嫌だわ。
昨日から、自分で自分がうまくコントロールできていない。
アシュレイ様に見つめられて、体中の血液が顔に集まっていくのが自分でもわかる。
あ、こういうのを「顔から火が出る」と言うのかしら。
「ふふ。グレイスは可愛いね」
揶揄うようなアシュレイ様の声に、ライアン殿下の叫ぶようなうなり声が重なった。
「グレイス!」
アシュレイ様と一緒に教室に入って行くと、はしゃいだ様子のイヴリン・メレディス伯爵令嬢が駆け寄ってくる。
メレディス伯爵家は帝国をはじめとした諸外国との貿易で財を成し、この国の外交を担う我が家ともかかわりが深く家族ぐるみのつきあいがある。
その縁もあり、イヴリンとは小さな頃から仲が良かった。お互いに「グレイス」「イヴリン」と呼び合うくらいに。
「やっぱり噂は本当だったのね。昨日お父様から聞いたときにはちょっと信じられなかったのだけど」
「驚かせてすみません」
私の代わりにアシュレイ様が軽やかな声で答える。
「アシュレイ様だったらいいわよ。グレイスのこと、ちゃんとわかってくれそうだもの。どこぞの殿下みたいに蔑ろにしたらただじゃおかないけどね」
「そんな心配は要りませんよ。僕はこの世界でいちばん、グレイスに心酔している人間ですから」
恥ずかしげもなく、むしろうれしそうにそんなことを言うアシュレイ様を、みんながぽかんとした顔で見つめる。
「アシュレイ様もそんなことを言うのね」
「いつの間にか呼び方まで……。意外です」
「勝ち誇った顔するなよ。腹立つなあ」
みんなが驚きのあまり多少失礼な反応をしても、アシュレイ様は全く動じることなく穏やかに微笑んでいた。
「ところで、ジェイコブ殿下はその後どうなったの?」
イヴリンが無邪気な笑顔でコーデリア様に尋ねる。
コーデリア様のお父様、つまりハーシェル公爵はこの国の宰相であり、王族に最も近い立場にある。
コーデリア様がさまざまな情報に精通しているのはそのためだ。
「婚約破棄に関しては、王妃殿下とカーティス殿下がかなりご立腹でね。ジェイコブ殿下の学園での様子はすでに王宮にも届いていて噂になっていたそうよ。はじめはグレイス様との婚約破棄を渋られた陛下も今回のことで初めてそれを耳にして、最終的には相当憤慨されたみたい。結局、ジェイコブ殿下はしばらく自室で謹慎ということになったそうよ。だから当分学園にはいらっしゃらないわね」
「じゃあ、レベッカ様も?」
「あちらのことはよくわからないけれど。でも、婚約破棄の理由が『レベッカ様を虐げたから』と言われた以上ソラーズ子爵も無関係だと開き直ることはできないし、肩身が狭いからしばらく大人しくしてるんじゃないかしら」
「ほんとに身の程知らずだよな。あの様子じゃあ、何のためにグレイス嬢が婚約者になったのか理解できてないんだろ」
「力不足が懸念されたこともあって、博識で知られたグレイス様が選ばれたという側面は否定できませんからね。グレイス様との婚約がなくなったからといって、レベッカ様と婚約できるとは限りませんのに」
みんなが話しているのをぼんやり聞きながら、私はジェイコブ殿下に初めてお会いしたお茶会のことを思い出していた。
自分で言うのも烏滸がましいけど、確かに私は昔から本を読んだり何かを調べたり、新しいことを「知る」ということに限りない興味を抱いていて、子どもながらに大人顔負けの知識を披露することもあった。
「博識令嬢」の呼び名はその頃からで、殿下の婚約者に選ばれた理由の一つではあると思うのだけど。
でも多分、それは単に大人の思惑であって、殿下にとっては違っていたのでは、と思えてしまう。
遠いあの日の純粋な笑顔を知っているから。
それに、極めて優秀な王太子・カーティス殿下に比べると自分は「凡庸」と評されがちだということを、ジェイコブ殿下は残酷にも知っていた。
そんな殿下の力になりたくて、私が王子妃教育にのめり込んだことは否定できない。
でもそのことが結局は殿下を傷つけ、追い詰める結果になってしまったのだけれど。
だからあんなことがあったとしても、私は殿下を嫌いになることができないのかもしれない。
「グレイス、どうしたの?」
隣に座るアシュレイ様が、どことなく不満げな表情で眼鏡の真ん中をくいっと押し上げる。
「え、なんでもありません」
「そう? ジェイコブ殿下のことでも考えてた?」
「そういうわけでは」
「僕の隣にいるときは、ほかの男のことを考えないでほしいな」
眼鏡の奥で胡乱な目をしながら明確な独占欲を誇示するアシュレイ様に、翻弄される日々が始まろうとしていた。
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