2 似た者同士の親子
「グレイス様! 起きてください!」
侍女のサラが、ノックもせずにすごい勢いで部屋のドアを開けた。
いつもながら侯爵家の侍女らしからぬ豪快さである。
小さい頃からほとんど姉妹のように育ってきて、もう慣れっこではあるのだけれど。
「……なに?」
昨日は思った以上に疲れていたのか、あれからすぐ眠ってしまったらしい。
もう少し寝ていたいのにという抗議めいた気持ちを滲ませて、尋常ではないサラの様子に半身を起こす。
「どうかしたの?」
「旦那さまがお呼びです。すぐに支度して応接室へ来るようにと」
「こんな朝早くに?」
そういえば、なんだか階下が少し騒がしい気もする。
「誰か来たの?」
「ディアハイル公爵様とご子息様が」
「は!?」
私は一気に覚醒して、ベッドから飛び起きた。
「それを早く言いなさいよ!」
とても人には見せられないような有様でバタバタと支度を終えた私は、急いでお父さまのいる応接室に向かった。
応接室に入ると、すでにお父様とお兄様、そしてディアハイル公爵とアシュレイ様がソファに座って歓談していた。
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
「いやいや、こんな朝早くに先触れもなく押しかけたこちらが悪いのです。かえって申し訳ない」
ディアハイル公爵は、トレードマークの黒い髭を触りながら温和な顔で眉尻を下げる。
その隣で、昨日も会ったアシュレイ様がニコニコとその笑みを崩さない。
なんだかもう、この場の空気が不気味なほど和やかになっていることに、そこはかとない不安を感じて怖気づく。
「グレイス」
お父さまは、思わず二度見しそうになるほど顔一面に喜びの色を浮かべていた。
「お前、昨日殿下から婚約破棄を言い渡されたあと、こちらのアシュレイ殿から婚約の申し出を受けたそうじゃないか。どうして昨日言わなかったんだ?」
「は?」
アシュレイ様を振り返ると、うんうんと頷いている。
「え、だって、あれは冗談だと……」
「冗談などではないのですよ、グレイス嬢。昨夜アシュレイが帰ってきてすぐ、あなたと婚約したい、あなたでなければ結婚しないと言い出しましてね。ジェイコブ殿下が婚約破棄を言い出したのなら、恐らく今日の朝いちばんにでもノーリッシュ侯爵は陛下に謁見してその手続きを進めるだろうと思ったのです。ならばその前に直接お会いして、グレイス嬢との婚約を申し込みたいと思いましてね」
「アシュレイ殿は『神童』の呼び声も高く、非常に優秀なことはお前だって当然知っているだろう? お相手としては申し分ないと思うのだが?」
お兄様もこれ以上ないというくらい、うれしそうに目を輝かせている。
え、なにこの雰囲気。微妙に怖いんですけど。
ていうか、爵位が上の公爵から申し込まれた以上、こちらが断ることはできないのでは?
抗えない暗黙の圧力を感じつつ、どうにも釈然としないものを抱えながら私は口を開いた。
「でも、アシュレイ様は帝国の公爵令嬢とのご婚約が決まっているとお聞きしましたが?」
そうなのだ。
まだ公にはなっていないが、そういう話を聞いていた。
帝国の皇太子から。「内緒だよ」と目配せされながら。
「それはライアン殿下からお聞きになったのですか?」
アシュレイ様の表情に、何故だか緊張の色が走る。
「そういう話が出ていたのは事実です。でも、決まっていたわけではありません」
「そうです。この子はずっと、どんな令嬢との婚約も嫌がっていましてね」
ディアハイル公爵は、嬉々として援護射撃を続けた。
「これまでにもいくつかそういった話はあったのです。なにせアシュレイは長男、いずれ公爵家を継ぐ身ですからね。しかし本人が頑として受け入れようとはしなかったのですよ。それが、ここへ来てようやくその気になってくれたのです。しかもグレイス嬢でなければ結婚しないとまで言う。グレイス嬢といえば我が国が誇る『博識令嬢』、さまざまな学問に通じ豊かな学識を備え、その見識の高さは『ラングリッジの至宝』とまで称されるお方。我が公爵家としても、この機を逃すわけにはいかないのですよ」
温和なお顔ながら、有無を言わさない圧がすごい。
お髭? お鬚のせいなのかしら?
などと現実逃避気味にぼんやり考えていたら、期待に溢れたみんなの視線が私に集中していることに気づく。
どうやら、逃げ場はないらしい。
私は少しだけ思いを巡らし、それからひっそりと覚悟を決めた。
「わかりました。このお話、お受けいたします」
諦めたようにつぶやく私の言葉に、その場にいた全員がしてやったり、という表情で頷いていた。
婚約破棄の手続きのために朝いちばんで陛下への謁見を願い出ていたお父様と、私たちの新たな婚約について陛下に報告したいディアハイル公爵はそろって登城の準備をし始めた。
もともと、お父様はこの国の外務担当、ディアハイル公爵は財務全般を担当し、王族の信頼も厚く良好な協力関係を築いている。
だから私たちの婚姻によって縁戚関係になることを、双方の家族が手放しで歓迎するのも無理はないわけで。
お父様たちがにこやかに退室したあと気を利かせたお兄様も退室し、私とアシュレイ様はそのまま応接室に残ってお茶を飲む羽目になった。
それにしても、解せない。
なんでこうなった?
私は自分の中に広がる警戒心や猜疑心を前面に押し出して、アシュレイ様に尋ねた。
「どういうおつもりなのでしょうか?」
何食わぬ顔で優雅にお茶を飲んでいたアシュレイ様は、おかしそうな目をして私を見返す。
「どういうつもり、とは?」
「これまでもアシュレイ様とは学園で何度もお話しする機会がございましたし、ライアン殿下を含めての交流だって幾度もございました。でもアシュレイ様が私に対してそうした感情をお持ちだなんて、これっぽっちも気づきませんでしたが」
私の遠慮のない攻撃に、アシュレイ様はふふっと小さく笑うと静かにティーカップを置き、唐突に立ち上がった。
そして当たり前のように私の隣に腰を下ろし、滑らかな動きで私の手を取って頬を緩ませる。
「当たり前です。あなたはつい昨日までジェイコブ殿下の婚約者だった方だ。王子の婚約者への恋心など、絶対に悟られてはいけないでしょう?」
「そ、それはそうですが」
「ライアン殿下のように、気軽に『帝国に嫁に来い』などとは言えないのですよ。あの人は皇太子だから、まだ冗談で許されるのでしょうけど」
そうだった。
ライアン殿下という人は、気さくとかフレンドリーとか言えば聞こえはいいが、なんというかまあ軽い。
強大な武力を誇るベレガノア帝国は、「武勇の国」として知られている。ライアン殿下はそんな帝国の方に特徴的な、いかにも武人らしい丈夫な体格ながら濃い金髪に精悍な顔つきをされている。
だけど普段は砕けた物言いで誰にでも愛想を振りまくから、一部の令嬢たちにはとても人気があったりする。
そして時々、ふざけたように「あんなぼんくらとの婚約は解消して、帝国に嫁に来ないか?」などと言われることがあったことを思い出す。
「僕はね」
アシュレイ様は私の手を握る力を少しだけ強め、昨日と同じ甘やかな視線で私を捉えた。
「入学してすぐ、夕暮れの王立図書館であなたを見かけたときからずっとお慕いしてきたのです。でもあなたはすでに、ジェイコブ殿下と婚約されていた。だから僕はこの気持ちを封印することにしたのです。でもできなかった。同じクラスになって、ライアン殿下につき従っていればあなたと話す機会も増える。はじめはそばで見ているだけでも幸せだったのです。でもジェイコブ殿下はあなたを大事にしないどころか蔑ろにしていたし、おまけにソラーズ子爵令嬢が現れてからはどちらが婚約者かと思われるような醜態を見せ続けた。僕は我慢ができなかったし、こうなることを期待して待ち望み、そしてようやく手に入れた」
そう言って、これ見よがしに私の手を持ち上げ、手の甲にそっと口づけする。
「僕の唯一」
え?
こ、この人、年下よね?
同じ学年だけど、年は2つも下なのよ? なんなの、この圧倒的な色気は。
慌てて手を引っ込めようとするけれど、アシュレイ様の力が思った以上に強くてびくともしない。
年下だけれど、れっきとした男性なのだと今更ながら思い知る。
そういえば、入学した頃は2つ年下ということもあって私たちの誰よりも身長が低かったはずだ。そのことでほかの令息たちに揶揄われたり馬鹿にされたりもしていたけれど、いつの間にかその身長はぐんぐん伸びてとっくに私を越えている。
「グレイス様」
アシュレイ様の静かな声は、少しの怯えと切なさを含んでいた。
「もしや、まだジェイコブ殿下にお気持ちを残しておいでなのでしょうか?」
「残念ですが、それはありません」
私は真っすぐにアシュレイ様を見返し、ため息交じりに答えた。
「確かに、5年間婚約者としての務めを果たして参りましたので情というものはございます。でもそれは、『お慕いしている』という類のものではありません。だいたい、婚約者がいながら別の女にうつつを抜かす方を、どう好きになれと?」
思わず苦笑いしてしまった私を見つめる眼鏡の奥の知的な瞳が、教室では見たこともないような熱を孕んでいて息を呑む。
「では、もう諦めてください。僕は今後、あなたを手放す気は一切ありませんので」
「え?」
「……グレイスとお呼びしても?」
なんだこの、有無を言わさない雰囲気。
そして年下なのに、ぐいぐい来る感じ。
親子ともども、同じ雰囲気を纏うのね。
髭はないけど。
などとまたしても現実逃避気味になってしまうほど、これまで経験したことのないような恥ずかしさが私を襲う。
こんなの、どんな書物にも書いてなかったし王子妃教育でも習わなかった。だからどう反応していいかわからない。
世間では「博識令嬢」などと呼ばれる私にも、わからないことがあるなんて。
「……ど、どうぞ」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でようやく答えると、ふふっと笑う優しい声がするものだから私は俯くしかなくて、しばらく顔を上げることができなかった。
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