1 予想通りの婚約破棄
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「グレイス・ノーリッシュ侯爵令嬢! 貴様との婚約は今日限りで破棄させてもらう」
王立学園の新年を祝う夜会の真っ只中。
煌びやかなホールで唐突に響いたのは、久しぶりに聞いたあの方の声だった。
興奮のせいなのか上気した表情のジェイコブ第二王子殿下がエスコートしているのは、ふわふわした苺色の髪にうるうると目元を潤ませたレベッカ・ソラーズ子爵令嬢。
とっくに見慣れた光景ながら、私は扇で口元を隠して小さくため息をついた。
そして気を取り直し、顔色一つ変えずに目の前の殿下を静かに見返す。
「理由をうかがっても?」
「理由? そんなものはここにいる皆が知っている。お前はこのレベッカ・ソラーズ子爵令嬢が学園に編入して以来、執拗に非難や批判を繰り返し、さまざまな嫌がらせをしてずっと彼女を虐げてきただろう? しかも、どうしても孤立しがちな立場を不憫に思った私がレベッカをそばに置くようになった途端、嫉妬からその行為は苛烈さを増したと聞く。お前は巷で流行りの恋愛小説とやらに登場する『悪役令嬢』そのものじゃないか。そのような者が王子妃などふさわしくない」
厳しい顔つきと刺すような目で私を断罪するジェイコブ殿下。
わざとらしく「ジェイさまぁ」などと言いながら殿下の腕に縋りつくソラーズ子爵令嬢。
私は堪えきれず、もう一度扇で口元を隠して小さくため息をついた。
一体なんなのでしょう? この茶番は。
殿下の言い分には、はっきり言ってツッコミどころしかないのですけれど。
いちいちツッコんでたらキリがないくらいのレベルなんですけど。
「殿下」
思いの外、冷たい声が出てしまったことに自分でも驚いてしまう。
こんなことだから、「悪役令嬢」などと揶揄されるのよね。
まあ、いいけどね。悪役令嬢、上等ですわよ。
「私はソラーズ子爵令嬢を虐げたことなどございません」
「この期に及んでそんなことを! 目撃証言も数えきれないほどある! この私でさえその行為を何度か見ているのだ。今更言い逃れなどできないぞ!」
「……目撃証言とは?」
「レベッカのやることなすこと全てに逐一文句をつけたり馬鹿にしたりしただろう? レベッカの教科書を破り捨てたり、ドレスを切り裂いたり、中庭の噴水にレベッカを突き落としたりしたことも聞き及んでいる!」
「どれも身に覚えがございません」
私は冷静に、背筋を伸ばしてきっぱりと言い切った。
殿下は忌々しそうな目をして私を睨みつけ、苛立ちを募らせていることが手に取るようにわかる。
王族たる者、己の感情を表に出して悟られてはならないとあれほどお伝えしてきたのに。
結局、私の想いなど殿下には何一つ届かなかったということね。
「私がソラーズ子爵令嬢にしたことは、貴族令嬢としてあるまじき行為について指摘し、改善を求めたことのみです。それ以上でも以下でもございませんが」
そこで私は一旦言葉を切り、改めて殿下のお顔を黙って見つめた。
殿下との婚約は12歳。それから5年間、私なりに精一杯努力してきたつもりだった。でも、努力すればするほど、殿下のお気持ちが離れていくこともまた痛感していた。
私は一瞬だけ視線を下に落とし、決別の意味を込めてにっこりと微笑んでみせる。
「しかし婚約破棄については承りました」
そう言って、これまで私が学び、身につけ、実践してきた王子妃教育の集大成ともいえる最高のカーテシーをして、身を翻した。
「今後のこともございますので、私はこれにて失礼いたします」
淡々と言い放ち、そのまま振り返ることなく堂々とホールを後にした。
いつも通りの速度を保ちながらつかつかと廊下を急いでいた私の耳に、ふと後ろから足音が聞こえてきたかと思ったら意外な声に呼び止められる。
「グレイス様!」
振り返ると、はあはあと息を切らしたアシュレイ・ディアハイル公爵令息の姿が。
「神童」とも称され、2年も飛び級して私たちと同じ学年に所属するほど頭脳明晰かつ冷静沈着なアシュレイ様がこんなにも慌てている様子は珍しく、少し見入ってしまう。
「何か?」
「殿下との婚約破棄について、本当に応じられるのですか?」
「そうですわね。殿下がそのようにおっしゃるのですから、私はそれをお受けするしか」
「では」
アシュレイ様は徐に私の手を取り、眼鏡の奥で熱のこもった目をしながら跪いて私を見上げた。
「僕と婚約してくれませんか?」
「は?」
余りにも突然かつ想定外すぎて、とても侯爵令嬢とは思えない反応をしてしまった。
……殿下のことをとやかく言えませんわね。
でも、これはちょっと、俄かには信じがたい展開だった。
アシュレイ様と私は年は違えど同学年。しかも同じクラス。
双方とも高位貴族であり、父親は王族を補佐する重要な役割を担っている。父親同士は馬が合うのか、わりと近しい間柄でもある。
だから全く面識がないというわけじゃない。というか、同じクラスだし、毎日会っているし、思った以上に交流はある。
それに、アシュレイ様は留学中のベレガノア帝国皇太子・ライアン殿下の案内役として入学直後からつき従っていて、気さくなライアン殿下との交流の際には必ずアシュレイ様もそばにいたわけなんだけど。
でも、これまでそういった気配は1ミリも感じられなかったのだ。
「どういうことでしょうか?」
「そのままの意味です。ずっとお慕いしておりました。でも気づいたときにはすでに殿下と婚約されていて……。だから僕は、この想いが叶うことはないと半ば諦めていたのです。でも殿下との婚約がなくなるのなら、どうか僕と婚約を」
「いえ、あの」
私は焦って、アシュレイ様の言葉を遮った。
甘やかな視線を隠そうともしないアシュレイ様に、どうしても違和感を抱いてしまう。
でも、と言いかけて、思い直した。
「婚約破棄については帰って父に報告しなければなりませんし、今後のことはまだ何とも言えません。アシュレイ様もどういった思惑なのか存じませんが、こんなときにご冗談はおやめください」
姿勢を崩さず、目も合わせることなく早口に言って、私は逃げるようにその場を去った。
*****
思いもよらない私の早すぎる帰宅に驚くお父様やお母様、お兄様に対して先程の夜会での茶番劇を手短に説明し始めると、みるみる3人の顔つきが変わっていく。
話が終わった頃には、3人が3人とも殺気を含んだ鋭い表情になっていた。
「やはり噂は本当だったか」
真っ先に激昂して声を荒げたのはザカリーお兄様。
「ジェイコブ殿下が学園に編入してきたどこの馬の骨ともわからない令嬢に熱を上げているという話はカーティス殿下の側近の間でも噂になっていたんだよ。熱を上げるだけでは飽き足らず、婚約破棄などという暴挙に出るなんてあいつはやっぱり馬鹿だな」
……お兄様。
聞く人が聞いたら、不敬を問われますわよ。
諫めようと口を開きかけるより早く、お母様が何か企むようにニヤリとした笑みを浮かべた。
「あら、でもこれは好機ではなくて? 理由はともかく、これでやっとあの馬鹿からグレイスが解放されるのよ? 王家だってあの馬鹿が公衆の面前で宣言してしまったことを今更取り消すなんてできないでしょうし」
「そうだな」
いやいや、そこは納得してないでお兄様やお母様を諫めるべきです、お父様。
「だいたい、婚約だってあの馬鹿がどうしてもというから渋々受けてやったのだ。『知の国』とも称される我がラングリッジ王国の王族ともあろう者が学ぶことを嫌い、我が身を振り返ることもせず、ここにきて婚約破棄など言語道断。『ラングリッジの至宝』とも言われるグレイスを手放したことを一生後悔させてやる」
私以外の3人が一致団結しているのを尻目に、私はやれやれと肩をすくめた。
3人して馬鹿馬鹿言うけれど、ジェイコブ殿下は本当は馬鹿じゃない。
ただ少し、学んだり努力したりということが好きではなくて、何かを考えるということもあまり得意ではないというだけで。
それに、婚約したての頃はもっと優しかったのだ。
12歳のとき、婚約者を選ぶ茶会で初めてお会いしたときには温かく微笑んで私の手を取り、「僕は君がいい」と言ってくれた。
それから半年ほどはそんなに関係も悪くなかったはずだった。
それが、私の王子妃教育が進んで互いに成長するにつれて、あの温かな微笑みを見せてくれることはなくなった。代わりに「グレイスはどうせ僕を馬鹿にしてるんだろう」「女のくせにでしゃばるな」「偉そうに知識をひけらかすな」と悔し気に顔を歪めて苦言を呈することが増えていった。
そんなことが続けば、私の中に芽生え始めていた殿下に対する淡い恋情など花開くことはなく。
というか、早々にそんなものは霧散してしまった。
ただ、王子妃教育での学びはとても興味深い上に楽しくて、学べば学ぶほど私の知識欲はどんどん刺激されていったのだ。
そうして、殿下と心を通わせることより学ぶことを優先させてきた結果がこれなんだとしたら、殿下だけが悪いとは言えない気もする。
さらに、去年あのソラーズ子爵令嬢が学園に編入してきてすぐ、殿下はあの方を特別扱いするようになった。
ソラーズ子爵令嬢は、もともとソラーズ子爵の庶子だと聞く。
母親が流行り病で亡くなってしまったため、子爵家で引き取ることになったそうだ。その前はほとんど平民と変わらない暮らしをしていたらしく、1年間の子爵家での貴族教育を経て学園に編入した。
ところがだ。
必要な貴族教育を受けてきたはずなのに、言葉遣いは少しおかしいし所作や仕草もやけに演技がかっているし、おまけに男性との距離がとにかく近い。
婚約者のいない令息ならまだいいが、婚約者のいる令息に対しても誰彼構わずやたらベタベタとスキンシップしたがる。
その最たるものが、ジェイコブ殿下だった。
だから私は、「婚約者のいる令息に必要以上に馴れ馴れしくしてはいけない」と指摘した。
自分としてはやんわり言っていたつもりだったけど、傍から見たら悪役令嬢が虐めているようにしか見えなかったのかも。
それに、殿下に対しても再三注意を促し忠告し続けたのだ。
ソラーズ子爵令嬢と適切な距離を保つように。
まるで婚約者のように彼女をそばに置くのをやめるように。
それは決して嫉妬からではないというのが、まあ、我ながらかなり残念なのだけれど。
でも確たる理由を言わなかったことが、殿下の不信と反感をかえって強めてしまったらしい。
私と殿下の言い分は常に平行線で、ついにわかりあうことはなかった。
だから今日のあの茶番も、近いうちきっとそうなるのだろうと予想はしていた。
ただ、いくら予想していたとしても、やっぱり多少、気は滅入る。
「グレイス」
沈んだ気持ちがそのまま表情に出てしまっていたらしく、お父様が私の頭をそっと撫でる。
「お前の価値を正しく理解できるような、もっとふさわしい婚約者を探してあげるから心配しなくていいんだよ。なに、この国にいなければ帝国や公国を探せばいいのだしな」
「無理にお嫁にやることはないわ。ずっとこの家にいればいいのよ」
「そうだよ。グレイスが家に残ってくれたら、コーデリアだってきっと喜ぶ」
どこまでも私に優しい家族の温かさに、これまで抱え続けていた徒労感や虚しさまでもが救われていくような、そんな気がしていた。
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