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Forbidden fruit 

作者: A &I


epilogue


誰にでも人生に一度くらいはあるはずだ。


ダメだと言われたのに、内緒で「それ」に手を伸ばしてしまった経験。 


手に掴む前にやっぱりやめたり。

手にしてみたものの、怖くなって元にもどしたり。

秘密がバレて仕方なく手放したり。

逆に、ずっと誰にも知られずに今も自分の手の内にあったり。


これから話すことはほんの少しだけ昔の話。俺があの日まで生きてきた証の話だ。

誰に聞いてもらいたいわけじゃない。俺自身を相手にあの日々を回顧している。あれからずっとそればかりを繰り返している。


今となれば夢の中の出来事のようにも思えるが、あの時確かにここに、俺が望んで手を伸ばせばすぐ届くところに存在していた。


あの頃の俺の世界の全てだった。


俺はあの日からずっと途方に暮れている。

今の俺にとって「生きる」ということは「死ぬまで生を消化する」という意味でしかない。

しかしそれでも生きていなければならない。


生きる証がもう存在しないこの世界に。


それは想像以上に至極残酷なことだ。だがそれが罪を犯した俺に、そしてともに罰を受けられなかった俺に与えられた刑罰なのだろう。

後悔はしていない。ただ、このどうしようもない喪失感を抱いて死ぬまで生きていくしかない。

あの日から少しも消えることのない、彼女への変わらぬ愛をずっと抱きながら。


きっとこれ以上の罰はない。


人生には出会いがあれば別れがある。

生と死がある。

金持ちと貧乏人がいる。

大人がいて子供がいる。

希望があり絶望がある。


例えはじめたらキリがないくらい当たり前に存在しているものがあり、それに相反するものが必ずある。


俺にとっての彼女は正にそれだった。


いつもそばにいたかったのに、何をどうしても叶わなかった。


一番愛していたのに、それを最期まで伝えることすら出来なかった。


この世のどんなものより何より大切だったのに、命を投げ出して守ることができなかった。


今すぐにでも彼女の所に行きたいのに、それすら許されない。

彼女はもういないのに、俺は今もこれからも生きていかなくてはならない。


俺はどこで選択を間違えたんだろう。

今さら問うても仕方ないことを、俺は死ぬまで何度となく問い続けることになる。



[俺の回顧録]


白木いづも

という1人の女の子がいた。

俺の小学校からの同級生。

特別仲が良かった訳ではなく、何回か同じクラスになり、同じ生活班や同じ委員会だった事がある。最初はただそれだけの関係だった。

白木との出会いから全て始まって、そして終わった。

俺の希望と絶望は白木いづもが握っていたということになる。


俺はガキのころから頭の出来はイマイチだったが、運動だけは人一倍出来た。5歳で通い始めたスイミングスクールでは、平泳ぎと背泳ぎは小学生時代は負けなしだったし、4年の時に人数が足りないからと、臨時メンバーになった近所のサッカークラブでも、はじめて1年たたないうちに、クラブの得点王になった。中学で先生と先輩に頼まれ仕方なく入った陸上部では、短距離に関しては、市の大会くらいなら必ず表彰台に上るほどだった。なかでも水泳は特に抜きん出ていたことで、某オリンピック金メダリストが通っていたという市外のスイミングクラブに移ることになり、ジュニアの全国の記録会にも参加したりして、学校や地域の期待を背負い未来のオリンピック選手にと、周りの大人はもちろん、俺自身も本気で目指していた。


白木いづもは俺とは違って頭がものすごく良かった。小学中学ともに勉強は常に学年トップ。硬筆展や作文の賞などをいつももらっていた記憶がある。そのくせ運動は人一倍出来が悪く、リズム感に至っては皆無というほどの運痴。運動会や持続走のときなどらこの世の終わりか、と思わせるような面持ちだったし、水泳の授業では一度溺れかかってからずっと、プールサイドでの見学が当たり前になっていた。


生態は一言で言うとボッチ。何を考えてるか計りかねるようなポーカーフェイスだが、顔ははまるで石膏でできた美術のデッサンのモデルのように端正で、手足が長くスラっとして均整のとれたスタイルの持ち主だった。

こういう存在は、なんとなく女子からは疎まれ、男子にとっては憧れの高嶺の花的な感じで近寄りがたいと思えるが、なぜか周囲からはいたって普通の扱いを受けていた。

いい意味でも悪い意味でも白木には、いわゆる女を武器にするようなところが微塵もなかったからだろう。


髪は黒のゴムで下の方で一つに結び、スカートも規則通りのひざ下丈。休み時間は純文学などを読破して、トイレには誰も誘わず一人でゆく。

友達は極めて少なそうだが、逆を言えばどのグループにも所属せず、要領良く自分を貫いている印象だった。

自分の存在を、その時々でまわりの期待している位置に置くことができる。そんなふうに見えた。


目立ちすぎず埋もれすぎず、白木はみんなの中に自然に存在していて、そんな白木は俺にとって、しだいにいなくてはならない特別な存在となっていく。


俺自身のことを話そう。俺はアダチヒロム。安達天掴と書く、仰々しい名前だ。大抵はヒロムと読んでもらえない。天に掲げた夢を掴めと、今は無き父親がつけてくれた、いわゆるキラキラネームだ。今は無きといっても死んだわけではなく、親の離婚のせいでだ。

幼稚園が変わるから、と母親に言われて県外に引っ越す事になったのは俺が小学校にあがる少し前だった。


小さい頃、父親と遊んでもらった記憶はほとんどない。

父親は俺に、というか家族というものに無関心といった感じで、家にいることが多く、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいたように思う。

母親と会話をしたり、喧嘩らしい喧嘩をしていたかどうかも記憶がない。

気づいたらいなくなっていて、俺は知らない街に引っ越すことになっていた。


もともと母親は働いていたが、離婚したせいでみるみる家計は困窮した。

母親は昼夜問わず仕事に出掛けたが、金がないせいで俺は保育園に行くこともできなかった。

この頃は一人家で母親の帰りを待つ心細い日々だった。

だが俺は母親を助けたくて気丈に振る舞った。留守番も買い物も公園に遊びに行くのも一人で平気だ、という顔をしていた。

ゲームなんて物はもちろん無かったから、1人家で過ごす時はテレビを見るか、父親が残していった遺産?の本(引っ越しの時になぜ母親が捨てなかったのかが今だに謎だ)をパラパラ読んだり、好きなテレビのキャラクターの絵を描いたりして時間を潰した。


公園に行くと俺より小さい子供やその母親達が陣取っていて居心地が悪いから、昼時が過ぎてやつらが昼寝をしているであろう時間に1人遊具を独占した。

営業サボりのサラリーマンや、学生のカップルなんかがたまに俺より先回りしている時もあったが、悲しそうな顔で見つめると大抵どいてくれた。

そして仕事から帰った母にその日1日あった出来事を話すのが俺の日課だった。

朝の8時前には家を出て夜の22時くらいまでクタクタになるまで働いて、疲れ果てているはずなのに、母は次の日の俺のメシの支度をしながら、面白くもないオチもない俺のただの日常の他愛もない話を目を細めながら聞いてくれた。

俺はその話のほとんどを忘れてしまったが、母はよく覚えていてあの頃の俺の話で一冊本が書けるとよく言っていた。

それを聞く限り、退屈はしない日常だったようだ。

母は女手1つでパートをいくつも掛け持ち、休みもほとんどなく、俺に不自由ないよう身を粉にして尽くしてくれた。

運動が得意だった俺にサッカーやスイミングを習わせてくれもした。

父親もいない、金もない。ゲームも買えない、こづかいもない。まして母親もそばにいてくれない。

いつくさってもおかしくない俺だったと思うが、何とかそれまで人並みに生きてこられたのは、母の生き様をこの目で見続けてきたからだ。


母の口癖は「お前は人より持っているものが少ないかもしれない。だからこそ本当に手にしたいものは、誰にもゆずるな。決してあきらめるな。」だった。

その教えは俺の行く道を一筋に照らしてくれていた。

あの頃も、今までもずっと。



小学6年の時、俺は白木と同じクラスだった。白木は普段からあまりクラスのやつらと話したり遊んだりすることもないようだったが、ある時女子達が白木の家に行ってみたいと言い出し、クラスの何人かで白木の家に遊びに行こうという話が持ち上がっていた。

白木の家は父親が木の家や家具をデザインする仕事をしているとかで、何かの雑誌のお宅訪問みたいな特集にも出たこともある、この辺りでは有名な家で、白木の家はデカくて金持ちだと同級生の中ではもっぱらの評判だった。


女子達が白木を囲んでその話をしていた時、何故か女子達が俺を捕まえ「アダムくんも行こーよ!」と誘ってきた。ちなみに俺はこの頃から既に、かなりモテていた。頭が悪くても運動ができて見た目がソコソコ良ければモテる時期だ。仕方ない。


この頃、俺はアダムというアダ名をつけられていた。

アダチヒロム、だから縮めてアダムなのだが、

ある日の弁当の時に、たまにはフルーツとか洒落たものを入れてくれと頼んだら、母親がまるのままの真っ赤な林檎を包んでくれたことが決め手になった。


女子達の面倒くさい思惑がからむ誘いだとは分かっていたが、俺自身、内心金持ちの家を見てみたいと思っていたこともあり、仕方ねーなーと、しぶしぶの体でOKした。


白木は明らかに迷惑そうな曇った顔をしていたが、再三言われて観念していたのだろう、来週の日曜日の午後なら、と承諾した。


あの日、もし俺が白木の家に行かなかったら?

俺の今は違った世界だっただろうか。

俺の昨日も今日も明日も違う日々だったのか。


ほんのすこしの偶然とほんのすこしの必然。

その結果に今が、ある。


出会わなければ、好きにならなければ、

諦めていれば、忘れていれば、

いくつもの、もしも。


でも結果は同じだったと


彼女に出会った時感じた、そうパズルの最後のピースがハマった時のようなあの感覚。


理由などない、おさまるべき場所にただそれが存在したという、自然の摂理。


運命、というと安っぽい。必然といえば嘘くさい。


ただ

彼女が存在しないこの世界でただ生きているだけの今の俺に言えることは、

あの日、彼女に出会えたことが今の俺の唯一の救いだということだ。


あの日の彼女が今の俺を生かしている。

まさしく過言ではない。




白木の家は庭に桃の木やツツジや金木犀や椿や薔薇の木々が生い茂る、木に囲まれた豪邸だった。こんなに広い庭を俺は見たことなかったし、他のやつらもスゲーデケーヤベーとしか言葉を発していなかった。

テンションも語彙もマジやばい事になってる俺たちを尻目に、白木は玄関へと先導した。

門から庭を行き過ぎる長いアプローチを過ぎ玄関にたどり着くとそこには、

俺の「生きる証」が存在していた。


俺の母親は仕事で忙しく、学校の行事に顔を出すことは滅多になかった。

ママ友なんていなかったと思うし、PTAの役員なんかも断っていた。

白木の母親はそれに輪をかけて、ほぼほぼ学校に来ていなかったと思う。

授業参観や運動会の時はごくたまに父親が来ていたか?というていどなイメージだ。

他の母親達の間では、白木の母親は身体が弱く人前に出ることができなくて家事もロクにしないらしいと、噂されていたようだった。

子供達の間でも白木の家の事や母親の事はたまに話題にのぼってはいたが、当の本人が人の意に介さずのキャラだけに、それほど興味の対象にはなっていなかった。


玄関で俺達を出迎えてくれた白木の母親は、薄いクリーム色のシャツにアンクル丈のデニムを履いて、髪は肩に届かないくらいのショートボブ、白木よりも小柄だということは、身長は150cmもなさそうだった。

年は30歳は超えているはずだが、子供の俺から見てもかなり若くみえた。

身体が弱くて(?)外にあまり出ないせいなのか、肌が透き通るように白かった。

俺達が遊びに来たことをとても喜んでいるようで、手作りのクッキーやケーキを沢山ふるまってくれた。

母親の手作り菓子なんて食べたことが無い俺は正直、100円ショップのヤツのほうが甘くてうまいな、なんて思いながらも夢中で頬張っていた。

うまいかどうかなんかより、紅茶を淹れてくれている白木の母親の手の指が白くて細くて折れてしまいそうだ、ということの方が気になって仕方なかった。


「また遊びに来てね」と白木の母親は俺達をいつまでも見送ってくれていた。


帰り道、俺はへその辺りが何だかムズムズして、真っ直ぐ家に帰りたくない気持ちになって、意味もなく辺りをブラついたりした。

この時はまだ自覚していなかったと思う。しかし間違いなくこの時から俺は彼女に、

白木いづもの母親に懸想した。


白木の家に行ってからというもの、日に日に俺の頭の中は彼女のことでいっぱいになっていった。そう簡単に会えない相手だからこそ想像力がはたらき、俺の中の彼女の存在はどんどん大きくなった。

なぜ、親ほどに年の離れた人を愛してしまったのか?今の俺にも説明はできない。

ただ言えることは、彼女がこの世に存在していることが、俺がこの世に存在している意味だとあの時感じたからだ。

運命。という言葉では足りない。宿命とも天命ともいえるくらい、彼女に惹かれたのは俺にとって自然な衝動だった。


どうやったら彼女に会えるだろう?どうやったら彼女に近づけるだろう?どうやったら彼女に愛してもらえるだろう?

そんな事を毎日毎日考えていた。


小学校の卒業式にも、彼女は来ず父親だけが出席していた。白木の父親はだいぶ年がいっているようにみえたが、痩せ型の長身。白髪混じりの洒落た短髪。ピカピカに磨かれた黒の革靴に折り目のピシッとしたスーツを着こなし、誰が見ても出自の良さそうな上品な紳士だ。


俺の愛する彼女の夫。


俺は彼女の夫に死ぬほど嫉妬して止まないはずだ。本来なら。

しかし俺の中で彼女の夫の存在はあまり意味をもたなかった。彼女に夫がいてもいなくても、彼女が俺ではない他のだれかを愛していても、俺が彼女を愛してしまう事に何の疑いもないからだ。

大人の世界なら、既婚の女性に横恋慕することは、人の道に反するとかモラルに欠けるとか許されない事だと、非難の対象になるのだろう。

俺がまだ大人じゃないからなのか、それがどうしていけないことなのかがイマイチ分からなかった。

どうしても手に入れたいコト、モノだとしたならば誰かの許しなんて必要ない。自分が罪を自覚し、罪と生き、その罪を背負って死んでいけばいい。と俺は理解した。

俺はその覚悟でこの愛を貫こうと、わずか12歳で決意した。


ガキの決意なんて、儚いものだ。でもガキなりに本気だったんだ。このときのこの気持ちに嘘はなかった。


俺と白木いづもは同じ中学に入学した。

入学式で俺は半年ぶりに彼女を見ることができた。

遠くから見れた、だけだったが俺は満足だった。

紺のパンツスーツ姿に少し伸びた髪を後ろで一つに束ねていた。

黒い縁のメガネをかけて、むしろ娘の白木よりも新入生らしい初々しさだった。

隣には白木の父親が、いなかった。

友達の少ない白木に輪をかけて、ほぼ学校内に知り合いがいないであろう彼女はとても心細そうにみえたが、浮き足立って高揚しているようにも思えた。

あの頃の俺はまだ子供で、恥ずかしさが先にたって話しかけることはおろか、そばに近寄ることもできなかった。ただ俺の視界に彼女が存在していることにこの上なく満足していた。



中学でもやはり彼女は学校にあまり姿をあらわす事はなかった。

募る俺の想いとともに時は過ぎ、季節はもう秋を迎えていた。

11月には1年の内で最も大きい行事、オープンスクールという高校で言えば文化祭のようなものがあった。入学式から既に半年、彼女に会いたくてしびれを切らしていた俺は思いきって白木に「お前んちの母ちゃん、来るの?」 と聞いてみた。

「文学部もさ、展示発表とかあるんだろ?」

白木は文化部中の文化部、文学部に入っていた。

白木は、来たがってるけどどうかな? と何か含みのある言い方をした。

来ないとは言わなかった白木の言葉を小さな希望に俺はその日を待った。


オープンスクールでの俺達、陸上部の持ち場はグラウンドだ。

正門からほど近く、人の出入りが見渡せる絶好の場所。

デモンストレーションをしながらも、俺の目は彼女の存在だけをサーチし続けていた。

良く晴れて澄んだ空と少し冷たい風が季節を感じさせた。


来るか来ないか期待も半分半分だったが、待つ時間は辛くなかった。

11時をまわろうとした頃、遠くフェンス越しに明らかに他の誰とも違う、俺にしか分からない空気をまとった女性が見えた。


俺の念が届いた、彼女が来た。

駆け寄りたい気持ちでいっぱいだがそこをおさえ、傍らにいた仲間に

「あー、俺昼前に担任とこ行くよう言われてるんだった」と伝え、

ちょっと外すわ、と急いで白木のいるであろう文学部の発表の教室に向かった。


全力疾走でたどり着いたそこには、まだ彼女は到着していなかった。

息を切らして駆けつけた俺を文学部の連中が訝しげに見ていた。

とりあえず場がもたないので、その辺の展示物をパラパラめくっていたら白木が近づいてきた。まさか見学に来たの?と聞くので俺は、まぁ、と答えた。

疑わしい目を向けながらも、白木は本の紹介や部員の自作の小説などを見せて説明してくれた。一方、俺はそんな話は一切頭に入らず、なかなか来ない彼女を心配していた。

ちょっと他もみてくるわ、と言って教室を飛び出し、俺は彼女を探しに下の階に降りた。

1階の教室の前で彼女を見つけた。

3年の奴ら何人かが彼女をかこんで、誰のおかーさんですか?ちょー可愛いんだけどー、と見るからに軽薄に絡んでいた。

「白木の!お母さん!」俺は思わず大きな声でその中に割り込んだ。

文学部の展示、3階ですよ。と、俺は案内するふりをして彼女をそこから連れ出した。


「前にうちに遊びにきてくれた子よね?えっと、たしかあだち君?」

「そうです。」

俺の名前覚えてるのか!

「ありがとね、私あまり学校に来ないから教室の場所とか分からなくて。」

「いえ。今日は来られて良かったですね、白木も喜ぶんじゃないですか。」

「うん、」

彼女が少し言い淀んだ。

「あだち君は今いづもと同じクラスなのかしら?」

その時、彼女の肩が少し俺の腕に触れた。俺の左腕が熱した鉄の棒みたいに熱くなって体中がしびれた。彼女の視線を感じ、顔が熱をもって赤くなるのが分かった。動揺を隠せなかった。その時

「おーい、アダムー!校庭でお前のことせんぱいがさがしてたぞー!」

同じクラスの奴が声をかけてきた。

「おーサンキュー、すぐ行くわー」

ほんとにサンキュー。間がもった。

「アダム?」彼女が不思議にした。

「あー、俺の名前アダチヒロムっていうんで、そんで誰かがちぢめてアダムってあだ名でよびはじめてー」

林檎のことはあえて言わなかった。


「ヒロム、くん? っていうの?」

彼女が顔を見上げて俺を見た。


「あ、そうです、天を掴む、でヒロムです。何かデケェ夢を掴めって大層な意味で。」


少し不思議な間があいた。


「― そう、すごく素敵な名前ね。」

「あざます!」


彼女の視線が俺を捉えて離さなかった。

が、じきに見上げた顔を下ろして


「ありがとう、もう場所分かったわ。忙しいのにごめんね、助かりました。」

「そうですか?大丈夫ですか?」

「うん。」


俺はもう少し話していたいけどな、しつこくはできないし

「じゃあ、また…」

彼女は去りかけて、俺も体をひるがえした。とその時だった


「あ、あなたの夢に入れてもらえたら頼もしいわね。私の夢でも叶う気がするわ。」


突然の彼女の言葉に驚いた俺だったが、この言葉何かどこかで聞き覚えがあるような。

ともかく俺はすかさず

「はい!どうぞ入ってください!必ず叶えますから!」

熱くなって答えた。

「ありがとう!またね、天掴くん。」

彼女は俺の名前を呼んでその場を去っていった。


校庭にもどりながら彼女の笑顔の余韻をいつまでも感じていた。

そして言葉に出来ないほどの充足感を味わっていた。

未だかつて感じたことのない感覚だ。

俺の存在が確かな形で彼女に認識された、今がまさにその瞬間だと思った。

何が進展したわけでもないが、明らかに昨日までの悶々とした俺はもうどこかに消えた。


今思えば、この頃の俺はただただ無邪気に恋をしていた。

成就するわけも祝福されるわけもないこの恋を、俺は本気で無邪気に育てていた。


2年に進級した俺と白木はクラスが分かれた。

彼女との縁が少し遠のいた気分で寂しかったが、どちらにしても会えない日々であることに変わりがなかった。

変化といえば、2年になり俺の周りが少し騒がしくなった。

2年の水泳の記録会で、平泳ぎで俺は県の新記録を出した。

ただそれだけの事だが、後輩の女子からやたらアイドル視されるようになり、先輩のお姉さん方に声をかけられる事も増え、時には遊びに誘われ、時には告られた。


突然やってきたモテ期にもちろん満更ではなかったが、大して知りもしない、ましてや好きでもない相手からのアプローチは、かなり気味の悪いものだった。

かといって俺にも好奇心もあれば、性欲だって人並みに育っていたので、試しに何人かとお付き合いゴッコのようなものに身を投じたりした。

行くところまで行けば後は飽きて放置するか、面倒くさいやつは完膚なきまでに振ってやった。

ひどい事をする?そんな事はないだろう。

俺の全ては彼女のものだ。他のどんな女も彼女に代わることはできない。

だから期待させない。むしろ俺は優しい男だ、と思う。

ただ、女は麻薬のようだと思った。好きでもない気味の悪い女の肌でもその最中は夢中になれる。


1年の秋に話して以来、彼女を学校行事等で見かける機会はなかった。

偶然会えたらと、部活や水泳クラブの帰りなど時間のある時に白木の家の辺りを自転車でウロウロする事が多かったが、会うことは出来ないでいた。


2年の2学期が終わろうとしていた。

俺はその頃、2才年上の女とお付き合いゴッコをしていた。部活のOGの友達の友達とかで、俺を大会で見かけてずっと気になってたとか何だとかで紹介された。

スラっとした痩せ型で背が俺より少し高く、大人びた仕草をするそこそこの美人だった。

彼女に似たところはもちろん見い出せなかったが、細くて長い指が気に入ったのと、タイミングよく丁度体が空いていたからOKした。


本来どこかに出掛けるとか時間を無駄にする事はしたくないのだが、クリスマスはイルミ見てカラオケしたいと女がいうので、その日は時期的にさけられないかと諦めてついていく事にした。

電車で3つ目の駅に降り立つと、イルミよりも人混みが目にうるさかった。

いつもより必要以上にしがみついてくる女がかなりうざかったが、その後の事情のためにいやいやながら我慢した。


広い通りに出る手前にあるカラオケ屋に向かう途中だった。

俺は白木の横顔を雑踏に見つけた。

とっさに、彼女もいる!と確信した。

と、同時に白木の方へ走り出した。

なんという偶然、いや必然だろう。聖なる夜の奇跡に、いるかどうか知らんが神に感謝したい。


「白木!」俺は大きな声で呼びかけた。白木は辺りをキョロキョロしてやがて俺を見つけた。

人混みをかき分け白木に近寄ると、その傍に彼女が佇んでいた。

「何、してるんだ?」 我ながら気の利いた事が言えず情けない。

「これから家族と食事。安達は―、 あー 。」

白木は女をチラっと見て小さく会釈した。

俺、彼女に話しかけろ!

「今晩わ。白木の、お母さん。」精一杯の言葉がこれだ。

「ーこんばんわ、ひ、安達くん、お久しぶりね。」

1年と48日ぶりですよ。会いたくて会いたくてどうにかなりそうでした。

「そちらは?どなたかな?」

白木の父親もいた。俺を見て明らかに不信感と敵対心を露わにしていた。

こうして面と向うのは初めてだ。

「同級生のアダチヒロムくん、小学校からずっと友達、の。」

白木らしくない紹介をしてくれた。

俺はとりあえずお辞儀をした。

フン、と言わんばかりの顔で、そうか、とだけ言い白木の父親は先に歩きはじめた。


そんなことより、俺が戸惑ったのは彼女の服装だ。

グレーのショート丈のファージャケットに、髪はゆるいアップスタイルで白い首筋が目にまぶしい。黒のタイトなスカートは膝が見えてしまう丈で、薄手のストッキングと7センチはあるであろう赤いピンヒールが不安定さを駆り立てて、ただでさえ華奢な彼女の庇護欲をそそらせていた。


じゃあ、またね。と白木と彼女は父親のあとを追いかけ追いつき、やがて白木の父親はその汚らしい掌を彼女の細い腰にあてた。


人混みに消えていく後姿を眺めながら、俺は白木の父親に例えようのない殺意にも近い憎しみを覚えた。こんな感情は生まれてはじめてだ。

俺はこの時はじめて男として彼女の夫に激烈に嫉妬し、その存在を抹消したいと切に思った。

この男は俺と彼女の世界から消さなくては―と。


て、いうかあの子誰?お嬢様って感じ?お母さんもメチャ綺麗だしー。


女のつぶやきにハッと我にかえった。 

「そうか?お前のほうがぜんぜんイケてるだろ。」

まるで感情のこもってないその言葉に、

マジで〜!?と女は馬鹿みたいに浮かれて喜び俺の腕にしがみついた。


左側にその重苦しさを感じながら、俺は彼らと逆の方向へと歩きはじめた。


あれから俺はすっかり塞ぎこんだ。今まで想像にも及ばなかった、いやあえて考えないようにしてきた彼女とあの男の夫婦関係を垣間見たことで、俺の想像の世界は無限に広がり、俺を嫉妬と絶望と喪失感でいっぱいにしてくれた。


もうやめよう、そもそも無理な話だった、

14の中学生の俺にできることなんてたかが知れてる。

相手にされるはずがない、思いが届くわけなんてない、

誰にも教えてない、誰にも知られなかった、

もう忘れるしかない、傷つくだけなんてイヤだ、

叶わないことを思いしらされるのは想像してた以上に耐えがたい、これ以上ミジメな思いはもうしたくない。


彼女を諦める理由ばかりを連ねては、自分に毎日言い聞かせた。


正直、俺は彼女にも失望していた。自分がしてることは棚に上げて、彼女を不潔だと感じた。二人の愛の結晶である白木にまでも嫌悪を抱いた。


夢見る夢子ちゃんのただのガキだった、俺は。

青くさい想像力で彼女を俺の理想に仕立て上げていた。彼女は夫を愛しておらず、ましてや夫と肌を触れ合うことなんてありえない、清廉潔白なのだ、と。

数年後には彼女は夫婦関係に限界を迎え、その時身近にいるはずの大人になった俺を頼りに思い、やがて恋愛感情を抱き、全てを捨てて俺の胸に飛び込んでくることになる。そうなるに違いない、と。

とんだ妄想ヤロウだ。

救いようがない。馬鹿なガキ。

でも本気だった。

だからこそ、救いようがない。


年が明け、新学期になり学校で俺は白木を避けるようになっていた。

クラスが違うのが幸い、あまり会わずに過ごすことが出来ていた。


忘れたい、は、思い出してしまう、の対義語だ。

俺の頭の中では彼女のことが、そして彼女の夫と白木の顔がいつもちらついていた。


3年になり、奇しくも白木と同じクラスになってしまったが、もうどうにでもなれという心境だった。

最高学年、受験に向けてそもそもそれどころじゃない。

俺はたぶん陸上か水泳の特待枠で進学する事になるだろう。地方の学校でもいいかもしれない。どうせ白木は名だたる一流校でも受験するのだろうし、俺達の関係はどうせあと1年の間だけだ。

1年の間の我慢だ。

こんな身悶えするような日々もあと1年で終わるんだ。

そう何度となく自分に言い聞かせて1日1日ををやり過ごしていた。


神様のイタズラ、なんて言葉を耳にすることがあるが、そんなの神様の仕業じゃない。ただの必然だ。

あのクリスマスの夜、白木を見つけてしまったのも必然なら、小学生の俺が白木の母親に恋をしてしまったのも必然だ。運命、などではない。


今日の学級会はやけに長い。修学旅行の実行委員を決めるとかで立候補が出ることなく、皆貝のように押し黙って下を向いてる。このぶんだとおそらくタイムリミットを迎えて、仕方なく学級委員の二人が引き受けざるを得ない状況になるだろう。

俺はウトウト眠りに落ちそうになったいた。

「…じゃあ、先生の提案で学級委員それぞれが推薦するということで決めたいと思います。」

「女子は白木さん、男子は安達くんで。異議が無ければ拍手で承認してください。」

パチパチパチ

あ、拍手ね、パチパチパチ

て、ちょっと待て。安達って俺か?

「…っちょ、待てよ、無理だし!」

「安達、クラスの決定だからな、ワガママは通らないぞ?」

担任のその一声でクラスメイトたちはいそいそ帰り支度をはじめた。


「とりあえず、やるしかないでしょ。よろしく。」

白木は俺にそう言って、少し笑った。


実行委員の集まりの前にクラスの意見をまとめておくために、俺と白木は二人で残ることになった。

あの日、クリスマス以来、白木とは口をきいていない。正直気まずかった。

「…なんかひさしぶりじゃない?安達と話すの。」

「そうか?知らないけど。」

「クリスマスの日に会ってからだよね?」

なんでお前いきなり確信つくんだよ。

「ぁっのさぁ!」

俺が急に大きい声を出したので、白木はビクっと肩を揺らした。

「お前の父ちゃん、何か怖いよな!娘に近寄る悪い虫は許さんって感じかぁ?」

俺はわざとふざけ気味に言った。

「あー。誰に対してああなの、あの人。気を悪くしたならごめん。」

「いや、俺は全然。でも今からあれじゃお前に彼氏でもできたら大変なことになるな。」

白木は俺の言葉に、フッと少し苦笑いした顔で言った。

「そうじゃないよ。私っていうより、お母さんに近づく男の人にあの人、敵意むき出しになるんだ。」

は?すげーヤキモチ焼きってことか?

俺みたいなガキにも嫉妬するってことか。

大人のクセに小せーな。

「そうか。ごちそうさま?ってやつか。」

リアクションに困り俺は話題を変えようと、

「クリスマスの日と言えば、お前の母ちゃん、なんかいつもと雰囲気ちがってビビったわ。何かイケイケな服着てさ。」


―無言

何か地雷ふんだ感じだ。


「ごめん、大きなお世話だな。それにセクハラだな。」

白木は下を向いて首を小さく振った。

何だかこれ以上、この話をすると白木に悪いような気がして、

「さ、早く終わらせて帰んべ。」

とまとめたノートを閉じかけた時、

「…あの服もお父さんに着させられてるし。」

は?

何を言い出したんだ?


「お母さんに全然似合わないから、私嫌いなんだ。やっぱり変だよね。」

て、いうか、何だそれ?


「お母さんも嫌だと思うけど、お父さんの言うことに逆らわないんだよね。」

彼女はあの男の言いなり、っていうことか?

「そんなん、それでいいのか?」

思わず声に出た。

怒りがふつふつと込みあげてくるのがわかった。

「私は絶対にイヤ。服装や話し方とか考え方まで男の人の好みどおりに自分を変えるなんて。でもお母さんは―」

白木が黙った。

お母さんは、彼女はどうなんだ。もっと詳しく聞きたい、彼女がどんな日々をおくっているのか。あの男にどんな仕打ちをされているのか。

だが俺が根掘り葉掘り聞こうとしたら頭の良い白木のことだ、俺の気持ちに気づいてしまうかもしれない。

「なんか白木の母ちゃん、かわいそうだ、な。」

俺は努めて興味なさ気につぶやいた。


教室を出て家までの帰り道、白木はこれまでにないほど終始自分の話をしていた。

急にこの街に引っ越して幼稚園が変わり悲しかったこと。

父親が休みで家にいると、何かと叱られ、母親もソワソワ落ち着かなくなるから嫌だったこと。

小学1年の時の担任が若い男の先生だったことで、ずっと母親が学校に行くことを禁止されていたこと。

聞いていて虫唾がはしった。

とんだオセロ症候群だ。

なんでそんな男の言う事を黙ってこれまで聞いてきたんだ。

愛している?そんなわけはないだろう。


「お父さんがお母さんのこと本当に愛してやってることじゃないと思うんだ。お母さんもお父さんを愛してるから言いなりになってるわけでもなさそうだし。でも何故かずっと一緒にいて、一緒に生きている。変なのって。」

「でも結局、子供の私には本当のところは分からない。バカみたいだね。」

たしかに。

子供の俺達には大人の事情は分からないし、理解したいとも思わない。

でも。

白木にとって、自分の家の事を俺に話すのはかなり決意のいる告白だったに違いない。

いつも自分の存在を目立たせずにまわりに違和感なく調和するよう努めていたようなやつだ。

自分の個人的事情をそう簡単に他人に相談できるようなやつじゃないし、どんな親友にだって軽く話せるような内容では決してない。

でも、俺には話した。

もしかしたら白木は俺の彼女への気持ちに気づいたか、と少し思ったが、いやそれは可能性としては低い。

自惚れだが、白木は俺をおそらく特別な存在として感じているのだろう。

恋愛感情、だとするとより納得がいく。


もちろん俺にとっても白木は特別な存在だ。

白木のこの告白が、俺のこれからの人生を変えると言っても過言ではない。


一度はもうあきらめようと逃げ出した。

諦める理由を探していた。

俺が彼女から遠ざかればいつかは忘れることができるだろうと自分に言い聞かせていた。

でも全てが振り出しに戻った。白木のおかげだ。


俺はもうあきらめるなんて2度と言わない。決して思わない。


彼女を愛し続けることが、彼女の存在そのものが俺の生きる証だ。


俺は必ず彼女と添い遂げてみせる。あの男と別れさせる。


その日を迎えるまで、俺は彼女をずっと密かに想い続ける。

そう、決して誰にも知られずに。


俺はずっと何も言わずにただ白木の話を聞いていた。

他にしてやれる事がなかったからだが、ようやくかけてやる言葉を見つけた。


「白木。修学旅行、楽しみだな。」


俺が不意にそう言うと、白木はモナリザのような静かな美しい微笑みを俺に向けた。



[Forbidden fruit 白木いづも回顧録1につづく]


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