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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ある日突然、妻が交通事故で死んだ

作者: ムーン

いつも通りの朝。


「いってらっしゃい、あなた」


いつも通りの妻。


「いってきます、戸締り気を付けてね」


いつも通りの出社、いつも通りの会社。



いつもと違う電話。縁のない病院からの電話。


「もしもし……」


知らない男が妻の訃報を告げた。




会社を早退して病院へ向かった。タクシーを拾って、病院内を走って、警察の群れをかき分けて、いつもと違う妻に会った。


「損傷が──見ない方が──」


知らない男の声を無視して妻の名前を呼んだ。被せられた布をめくり、肉塊に向けて妻の名前を叫んだ。


『なぁに、あなた』


屈託のない笑顔も、優しい声も、もうどこにもない。




妻は死んだ。交通事故だった。疲労困憊のバス運転手がハンドル操作を誤って歩道に突っ込んだらしい。妻以外にも何人か死者や重軽傷者が居るらしい。


「……君は、真面目な人だからね」


妻には何の落ち度もない。交通ルールは完璧に守っていた。


「ん……? ふふ、大丈夫だよ……ちゃんと綺麗だ」


何の伏線もなかった、何の前触れもなかった、何の脈絡もなく妻は死んだ。


「大丈夫だって、君は美人だよ……鼻から上がなくたって、手足が揃ってなくたって、君はこの世で一番綺麗だよ……」


妻の身体は全て揃わなかった。タイヤや巻き込んだ縁石やガードレールに絡まってすり潰されたらしい。だから辛うじて形を保っている部品を集めても元の形には戻らなかった。




遺影の妻はいつも通りの屈託のない笑顔を浮かべている。


「あぁ……たくさん人が来たね。君は真面目で優しい身も心も美しい人だから……友達がたくさん。挨拶、しなきゃね……少し待っていてね、また来るからね」


遺影の妻へ手を振って、参列者へ挨拶回り。




葬儀が終わり、忌引も終わり、会社に復帰。しばらく休んだ程度では仕事はどうにもならない、俺が居なくたって会社は成り立つ。当然だ、一人抜けた程度で成り立たなくなるものは会社とは呼べない。


みんな俺に優しくしてくれる。その心遣いに礼を言う度に妻が死んだ事実を反芻させられた。


みんなの心配をよそに俺は定時まで仕事を務めあげた。いつも残業をさせようとする上司も今日はすんなり帰してくれた。俺は妻に今から帰るよとメールを送り、会社を出た。



自宅近くのケーキ屋で妻の好きなケーキを買った。久しぶりにあの屈託のない笑顔が見たかった、あなた大好きなんて言って欲しかった。


「ただいまー」


家が暗い。返事がない。妻の名前を呼ぶが、家は静かなままだ。妻の靴は全て玄関に置いてある。


「洗濯物でも干してるのかな………………ぁ」


妻は死んだ、そうだった、今日から一人暮らしだ。家事は全て自分でやらなければ。まずは食事だ。冷蔵庫の中身を見て献立を決める。


「えーっと、分量……二人分だから………………」


二人分? 一人なのに。妻はもう死んだのに。


「は、はは……まだ若いのに、ボケたかな……」


レシピを見ながらしっかり一人分の料理を作った。妻はあの日、何を買いに出かけたのだろう。会社に行く前に「戸締り気を付けて」なんて言わずに「車に気を付けて」と言っていたら、こんな料理食べずに済んだのだろうか。


「…………あ、何やってんだ俺。なんで一人分……ぁ」


味のしない料理を半分食べ終え、妻の分を用意していないことに気付いて立ち上がり、用意しないのが正解だと思い出す。


「……明日、食べよう。風呂、入ろう」


独り言が暗くて静かな家に響く。

『あなた、もっとちゃんと食べないと』

『お風呂、今日は一緒に入っちゃおうかな~』

明るい声は、二度と聞けない。



朝、スマホのアラームで目を覚ました。いつもはアラームが鳴る前に妻が起こしてくれる、頬を撫でて、キスをして、可愛い声で「あなた」と呼んでくれる。


「…………今朝は、忙しいのかな」


家は静かだ。ダイニングに行っても朝食がない、キッチンに行っても妻の姿はない。


「朝早くからどこに……どこ、に? 君は、真面目で優しい人だから、天国かな。きっと、そうだ……俺もちゃんと、いいことして、天国に行かないと」


昨日の夕飯の残りを食べ、家を出ると目が眩んだ。カメラのフラッシュだ、大勢の人が集まっている。いっぺんに話すから聞き取りにくかったが、どうやらマスコミの方々らしく、俺に取材に来たらしい。


「奥様を亡くされたそうですが、今のお気持ちは」


答えたら、妻は帰ってくるだろうか。


「事故の原因は運転手の疲労と見られていますが」

「連勤させていたバス会社に言いたいことは」

「他の被害者遺族の方と連絡は」

「奥様を亡くして暮らしはどう変わりましたか」


全部丁寧に答えたら天国に行くための善行になるかな。会社に遅刻してしまうから悪行とプラスマイナスかな。


「……すいません、電車に遅れるので」


質問を無視するよりは会社に遅刻する方が悪行だろうから、会社を優先しよう。


「泣きもしねぇ、使えねぇな」

「表情一つ変わりませんでしたね」

「冷酷夫とか書きます?」

「浮気相手とほくそ笑むみたいなのイイな」


あ、そういえば、いってきますのキスしてないな。




いつも通り、いや、みんなが少し優しい会社。きっとこういう周りの人の気遣いで人は立ち直っていくのだろう。不思議だな、こんなヒジキ乗っけたジャガイモの群れの戯言で、どうすれば立ち直れるのだろう。


「あの……奥様のこと、残念でしたね」


そもそも立ち直るってなんだろう。今、立っていないのかな。二本の足を床につけて立っているはずだけど。


「……気晴らし、必要だと思うんです。新しい恋とか…………あ、あのっ、今日、お食事に」


「…………あっ、聞いてなかった。ごめん、何?」


「へ……? あ、いえ……今日、お食事、どうですか?」


このヒジキonジャガイモ何? 名札……あぁ、部下の女性社員だ。


「今日はやめておくよ、妻が夕飯の準備をしているだろうしね。そうだね、ちょうど今頃……買い物帰りかな」


「え……? あ、あの、奥様は」


「直帰した時に買い物帰りの妻と会ったことがあるんだけどね、妻は一人で歩くのも楽しそうにするんだ。鼻歌歌って、足取り軽やかに……何がそんなに楽しいのって聞いたらね? ふふ……あなたが美味しいって言ってくれる料理を作るのが楽しみなのって……ふふふ、可愛い人だろ? 自慢の妻なんだ」


今日は何を作って待っていてくれているのだろう。


「本当に愛らしい人なんだよ、毎日出迎えられるのが楽しみで会社に来ているんだ。玄関で待っていてくれるんだ、胸に飛び込んで来るんだよ。この話を同僚にすると、もう結婚して何年も経っているんだろって呆れられるんだけど、なんなんだろうね。結婚して何年か経ったら毎日抱き合ったりキスしたりしちゃいけないみたいなんだよ、なんでかな、好き同士なのに」


「あ、あのっ! 奥様は事故で亡くなられたんじゃ……」


「え……? ぁ……そっか、家で待ってないのか。なんで? いつも待って……あ、そうだ、バスが潰した、あんなに真面目で優しいいい人だったのにっ、あんなに可愛い人だったのにっ、あんなに明るい人だったのにっ、綺麗な顔がぐちゃぐちゃ……ぁ、そう、だ、顔見てない、死体の顔見てない! 違う、別人だ、騙されたんだ、葬式まで挙げちゃった、どうしよう、帰ってきた時困るよね、どうしよう、騙されちゃった、なんで間違えたんだろ、あの人があんな惨い死に方していいわけないんだからっ! あんなぐっちゃぐちゃあの人じゃないっ!」


「ひっ……だ、誰か、誰かーっ!」


ヒジキonジャガイモがダイコンばたつかせてどっか行った。





過程はよく覚えてないけれど、休暇をもらった。妻と旅行にでも行こう、今の時期なら空いているだろうからどこへ行ってもいい、どこへ行きたがるかな、帰ったら相談しないと。


家は無人だ。妻は居ない。買い物……違う、死んだ、何度忘れたら気が済むのだろう。

その日は仏間で遺影を抱き締めて眠った。その日から遺影を抱えて生活することにした。





休暇明け、会社に行った。特に何も起こらなかった。

買い物に行ったスーパーも、特に何もない。

家に帰るまでの道にも、目立った事柄は──なんでないの? 妻が死んだのに、どうして世界はいつも通りなの? どうして俺だけいつも通りじゃないの?



あなただけじゃない。



そんな言葉で誘われたのは、あの事故で家族を失った人達の集まり。どうやら今回のような事故を二度と起こさないために、労働環境の改善の活動を始めたらしい。


「……労働環境の改善、ですか」


「はい、少しでも改善することが出来たなら、あなたの奥様や、私の祖父のような犠牲者は減ると思うんです」


立派な人だ。


「会社員ということでお忙しいかもしれませんが……」


改善させたって、妻は帰ってこないのに、なんでやらなきゃいけないんだろう。

事故を未然に防いだって、その事故の犠牲者になる人達が助かったって、それは妻じゃないのに、なんでやらなきゃいけないんだろう。


「何かに集中していれば、悲しみを忘れられるかもしれませんよ」


それなら問題ない、よく忘れている。今日も二人分の夕飯の材料を買ってきた、昨日は妻に似合いそうなワンピースを買ったし、一昨日は妻が好きなアイドルグループのライブチケットの抽選を──


「お断りします。仕事が忙しいので」


「そうですか…………あなた、どう言われてるか知ってますか? 嫁が死んだのに涙一つ流さない冷酷な夫だって、浮気してたからむしろラッキーなんて言ってるって……あれ、本当ですか?」


「否定したら信じるんですか? あなたにとって都合のいい方信じてください、妻以外からの印象なんてどうでもいいので」


チケット、当たったらどうしよう。遺影とか位牌とか持って行っていいのかな。




ある日、ニュースを見ていたら妻の顔写真が映った。


「あ、ほら、君だよ。どうしよう、全国ネットでこんな可愛い君を放送したら、財力のあるイケメンが求婚しに来くるかも……」


咳払いをし、裏声を出す。


「大丈夫よ、あなた。私はどんなイケメンよりもあなたが好きだもの」


地声に戻す。


「ありがとう……でも、このアイドルグループにはご執心みたいだね」


裏声を出す。


「うっ……いじわる、夫とアイドルは別の好きなの!」


地声に戻す。


「ふふ、分かってるよ。さぁ、プレゼントだ、そのアイドルのライブチケット……当選したんだ、一緒に行こうか」


裏声を出す。


「きゃあ! 本当? 嬉しい、あなた大好き……げほっ、けほっ…………こんな気持ち悪い声してねぇよっ!」


自分の裏声の気持ち悪さに耐えられなくなり、喉を引っ掻く。妻の遺影が視界に入り、それを抱き締める。

指は赤い、爪の隙間は赤黒い、会社に行かなくなって何日か経って、電話や訪問者も無視して、たまに首を引っ掻くからソファや服に血が点々としている。


「運転手は過労で──」

「加害者も被害者であると──」

「これはただの事故でなく、社会問題──」


「うるっせぇ被害者の被害者はそのまんま被害者だぁっ!」


リモコンをテレビに投げつけると液晶が壊れ、映像が乱れる。


「運転手……アイツ、取材受けてんのかな。こっちにはよく来たけど…………なんで、こっち来るんだろ、ジャーナリズム……? 事故の真相なんか現場かバス会社だろ……急に死んだんだ、なんにもない……なんにもないのに、なにが欲しいんだよ」


家財、家、私物、全て売り払って実家に帰った。トランクに詰まっているのは妻の物だけだ、俺の服は今着ている一枚しかない。




実家の工場を手伝ってそれなりに健康になった。父母は遺影と話す俺を気味悪がっていたけれど、飯は作ってくれたし仕事はくれた。いい両親を持った。


「……ここチャンネル少ないね。ごめんね、君の好きなアニメは放送されないかも……」


CMが流れる。余命僅かな女性との恋物語だ。突然奪われるのと、死がジリジリと近付いてくるの、どっちがマシだろう。

CMが終わり、バラエティ番組が始まる。幸せそうな夫婦が出てきた。


「…………ふ、おしどり夫婦なんて持って二年だね」


テレビの電源を切り、リモコンを床に投げつけた。電池が飛び散った。





運転手が釈放されたらしい。当然居場所は分からないので、妻が死んでからの数年間で溜めた金を使って探偵に調べさせた。


「ありがとうございます、生き別れの親族なんです」


依頼者の素性も調べる探偵なんてフィクションなのかもな。




運転手に会いに行ってみた、随分げっそりしている。


「こんにちは」


「あ、あぁ……こんにちは」


事故のことを話すと狼狽していたが、被害者遺族であることを明かすと土下座してくれた。どうやらとてもとても反省しているらしい。


「あなたは悪くないんでしょう? 悪いのは会社ですよ、酷い労働環境だったんですってね」


そう言うと泣き出した。殴られる覚悟、殺される覚悟もしていたらしい。


「あなたも人生を狂わされた被害者なんですから。そうだ、被害者同士、飲みにでも行きません? 奢りますよ」


いやこっちが払わせてもらう、せめて割り勘で頼むと頭を下げられた。いい人そうだ、いい人なんだろう、人を殺してしまった罪悪感に耐えていられないのだろう、手首にはリストカットの跡が見えた。


「さ、どうぞ……飲んで」


彼が目を離した隙に酒に強力な睡眠薬を入れた。


「あれ、眠いんですか? ちょっと……あぁ、酔い潰れてしまった。すいません、お会計……」


酔い潰れた男を介抱するフリをして睡眠薬でぐっすり眠っている彼をタクシーに乗せた。何万もかかったが実家に帰ってこれた。


「よっ……と」


男を抱えて真っ暗な工場へ向かった。


「プレス機……プレス機どこだ……あぁもう、灯りつけるか」


明るくなった工場を歩いてプレス機の元へ。男の左足を挟ませ、ガッシャーン。悲鳴を上げて飛び起きた男を押さえて鼻から上を挟ませ、ガッシャーン……動かなくなった。


「えっと……あぁ、右足もなかったね。あと確か、二の腕の半分辺り……」


これで手足と顔はどうやっても元に戻らないくらいに潰れたかな。妻とおそろい……いや、もう少し傷があったな。電動ノコギリでも使うか。


「よっ……おぉ、グロい……こんなもん、いやもうちょい……」


納得のいく出来栄えになる頃には床も身体も真っ赤に染まった。


「ふぅっ……あぁ、そうだ、電話」


110を押して発信。


「もしもし、警察ですか? 人を殺したんですけど、いや、最初は持っていくつもりだったんですけどちょっとキツそうで……そっちから来てもらっていいですか? 悪戯じゃないですよ、はい……」


住所を言って、死体の上に座る。ぐぢゅっとした感触と音が気持ち悪い。そうだ、この音を聞かせれば悪戯ではない証明になるかな。


「…………聞こえました? あ、そうそう、計画的犯行ですよ。これ死刑になります? ふふふ……いつ死ぬにしろ、地獄行きですよねー……妻に、会えないなぁ」


サイレンが聞こえる。どうやら電話を切らないようにさせて俺の逃走を防ぎたかったようだ。


「妻に、会いたいです。妻の手料理が食べたい、ただいまって、おかえりって……キス、して。おやすみも、おはようも、一緒に、ずっと、ずっと……ずっと一緒のはずだったんです」


警官が突入してくる。悪戯かと疑っていたくらいだ、想定の殺人現場よりも凄惨だったのだろう。妙な声を漏らす奴が居た。




捕まった。取り調べを受けた。


「なんで殺したか? そうですね……」


精神鑑定もあった、異常なところなんて何一つないのに。


「…………同じ高校の同級生だったんですけど、文化祭の時にですね」


ここには妻の写真がないから、馴れ初めでも語って妻を頭の中に描き出さなければいけないな。

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