補足 ほのかな夜道
「ご馳走さまでした」
礼儀正しく合掌一礼し、姿勢を正してふっと微笑む。
(高校生の貫禄じゃないよね……)
湊は「こちらこそ。ご馳走さまでした」と返し、立ち上がる。
食事は一人の時も大抵リビングでとっている。テレビはあるけどあんまり見ない。こういうとき、ゲームの一つや二つ置いておけば良かったのかな、と思う。
客人が来ることを想定していなかった新居は、まだ、どこか“手を入れるか否か?”を判断すべき余白に満ちている。
目下、訪れるのはこの、十年下の少年だけなのだが。
唯一知っている男性とは違いすぎて、比べようがない。そもそも『かれ』を思い出すこと自体、日常的に封印している。
だから、湊はそれ以上のまなざしを律に向けたりしない。
――ひょっとしたら、友人になれるかもしれない。桜並木の坂の上。ひょんなことで縁を結んだ不思議な少年なのだ。
『お姉さん桜の精みたいだから』
晴れた昼下がりのつむじ風。
出会った初日、花びらの嵐のあとで笑いかけられた。
今も、あのときみたいな笑みでごく自然に食器を重ねて、手助けをしてくれる。動作そのものは年相応の軽やかさだが、仕草に乱暴なところが一切ない。姿形と表情、滲み出る品格のようなもの。
それが、世間一般の男子高校生からは見事にかけ離れていて。
(――桜の精は、きみのほうですよ)
しみじみと、心のなかだけで言い返す。
* *
フローリングのリビング同様、木の床のキッチンに揃って移動する。流石に客人に洗わせるのは忍びなく、湊は有無を言わさずきょとん、と立つ律に食器拭きのリネンを手渡した。
「それ以上家主の仕事を奪ったら、律君専用のエプロンを常備するよ? ……はい、いつもすみません。拭いたら、そっちのテーブルに重ねておいて。食器棚にはあとで私が戻すから」
律は、それはそれは見とれるような、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「いいねそれ。雇ってもらえる?」
残念。警告にも脅しにもならなかった。
かえっていそいそとリネンを構え、ほんのり首を傾げて見せるかれは、どんな天然なのか。
湊はあえて渋い顔をした。
「冗談。律君は高給取りになりそう。うちじゃ養えないわ。雇う、で思い出しちゃったよ。私の職探し」
「難航してる?」
「難航……って、ほどでは。単身だし自由が利くし。幸い車も持ってるし。選ぼうと思えば何でも。ただ、できるだけ長く続けられて落ち着いた職を――となると、私の手持ちのスキルじゃ弱いの。若くないから」
「……若いでしょ」
おそらくは、言葉を吟味した上での即答。
律の徹底した紳士ぶりに、湊は思わず吹き出した。
流しの、泡立てた食器を溜めた湯のなかに浸ける。浮いて流れる泡と湯の温もり。食器を洗うのは嫌いじゃない。身の回りを整えること。客人を想定して立ち回るのも苦ではない。
和の作法も。季節の花や掛け軸を変えたりすることも。
きゅ、と栓をひねって湯を出す。
カチャ、と、まだ新しい陶器の手触りのご飯茶碗を手に取り濯いだ。
はい、と手渡す。
次々ゆすげるので、あとはどんどん重ねてゆく。
手際のよさと相反するのんびりさで、湊はおっとり、噛んで含めるように答えた。
「……もう、新しい、まっさらな感性で仕事には馴染めないかもってこと。もちろん世間じゃ二十代は若いわ。でも、職場じゃそうはいかない。中途採用なら間違いなく、ある程度経験を求められる。縁故でもない限りね」
「ふんふん?」
ほんと、聞き上手な高校生だな――と、苦笑しつつ続ける。
「そういう意味じゃ、難航かな。前の仕事、わりと好きだったから余計に。あとは自分のなかの問題。……はい、おしまい! ありがとね。あとは私が」
「はい、湊さん。一緒にやろうか。そのほうが早く終わる」
「えっ」
……一体、いつ仕舞い場所を覚えられたのだろう? 律の右手には引き出しから抜き取られた洗いがえのもう一枚の真っ白なリネン。
反射で受け取った湊は、まだ「えぇえ……」と唸りながら言われるがまま、食器拭きを手伝った。
どっちが家主なんだか、とぼやいた一言は、実に爽やかに笑い飛ばされてしまった。
帰る夜道。
足元は等間隔にちいさな灯りで照らされている。玄関からガレージまでの桜並木は、いま若葉の並木道。センサーで反応するタイプの照明は、幹と緑を夜のなかに浮かび上がらせた。
『送るよ』と言って聞かない年上の女性は頑と譲らず、『結構です』と言い張る律の間をとって自転車まで送ってもらうことになった。
これはこれで、いい。
半袖に夜風は肌寒いが、あまり気にならなかった。
ほぼほぼ、昔からあった蔵の外観をそのまま残すガレージの壁に寄せておいた愛車の鍵を外す。「じゃ」と、サドルを跨いだとき、なぜか背が温もった。
(!)
「これ。メンズだし貸したげる。着られるでしょう?」
「あ、はい」
不意打ちだった。
湊は自分が上から羽織っていたシャツを脱いでいた。
――いやッ!? 寒そうだし!! タンクトップって何事ッスか二の腕とか見ちゃうだろ、何だよその男前!!! つうか目の保養? ここに来てさらに『ご馳走さま』とか訳わかんねぇよ!!?? …………などなど。
内心は混乱の嵐だったが、辛うじてこれだけは、と伝えた。
「湊さん」
「はい?」
「たぶん、何があってもこれを今突っ返させないの、わかります。有り難くお借りするんで、すぐに家に入ってください。ここから見届けたら帰ります」
「それは」
「――見てるほうが寒いんで。抱きつかれたいんですか? 喜んで直接温めますよ」
「!! や。いやいやそれは……わかった、行きます。ごめんね」
流し目をくれると、彼女は妙にキッパリと言い切って、一目散に去ってしまった。
(早すぎる……これはこれで凹む……)
がっくりと項垂れ、うちひしがれる律に、まだ灯りのともる夜道の向こうから声が届いた。
――――暗いから気をつけて! 風邪ひかないでね!
(うっわ……)
それだけで立ち直れてしまう自分、というのもちょっと可笑しい。
ライトアップに照らされた彼女の横顔が少しは赤くなればいいのに、と、笑んだ律はペダルをこぎだした。
「……はーい、おやすみ湊さん!」
風を切って坂を下る。
肩を。背を。腕を包む温もりが彼女のものだったと思うと、張り上げた返事がやたらと機嫌よくなってしまったのは仕方ない。
下道に出て右折。はた、と気づいた。
軽快なペダルとライトのモーター音。紫紺色の闇のなか、坂の上の黒森はどんどん遠ざかる。
(やばい。夏になったらあれくらい普通に見せんの……? ちょ、だめだろ絶対。注意して聞くかな、湊さん…………??)
しまった。赤くなってるのは俺か――と、考えを改める。
あのひとと迎える季節の移ろいが待ち遠しい。だめだ、嬉しい。
浮き立つ胸はどうしようもなく、時間の流れは遅くも早くも感じられた。
〈青葉の章・了〉