後
「育ち盛りさんには申し訳ないかな。一応タンパク源にはなるかなって、鱈の切り身は買っておいたの」
「……なんで、鱈?」
「特に。買い物に行ったら“朝とれ”って書いてあったから」
「あぁ……」
律は納得したように頷いた。たまに祖母や母がやっているやつだ。そのときの気分買い。『目が合ったから』というもの。
――玄関先で、なかなか斬新な筍の解体現場に遭遇したあと。
湊は、てきぱきと食材の下ごしらえを進めていた。
米をとぐ。とぎ汁を大鍋にうつす。白濁したぬかがほんのりと香るそれにガスコンロの火をかけ、丸裸の筍を丸ごと投入する。やはり豪快だ。
「窓、開けよっか」
こもる湯気。外で筍をさばく辺りで気づいたが、生臭さや灰汁抜きなど、えぐみのある匂いは苦手らしい。
湊は爪先立ちになり、右手をぴん、と伸ばして前方のサッシ部分――鍵を開けるべく奮闘していた。
流し台の向こう側には、小さめの採光窓が並んでいる。おそらくは換気扇では追いつかないとき、外気を直接入れるために設計されたもの。
ゆえに湊の奮闘は正しい。
が、同じく流し場で洗い物に徹していた律は、吸い寄せられるように視線を絡めとられた。
――――見入ってしまう。
柔らかそうなまとめ髪。顔まわりの後れ毛。伏せぎみの睫毛。横顔に漂うのは独特の透明感。
肘まで捲り上げたシャツから、目の毒なほどきめ細やかな白い腕が中指まで、すぅっと。
……残念ながら届いていない。
指先がふるふると震えだすのを見かねた律は、苦笑まじりに「やるよ」と一言。ちょっとした悪戯心でわざと顔を近づけつつ、楽々と目当ての窓へと手をかけた。
カチャ、と解錠の音。
「――!」
わかる。
わずかに引かれた。
伝わる、固まる気配。
(ですよね)
間違えて体が触れないよう、左手はきっちりと流し台に添えて。
目をみはった彼女の視線が左頬と耳の辺りに刺さるのを感じつつ、律は目的を達成した。
この場合は窓を開けること。
こもる蒸気が逃げてゆく。代わりに、新鮮な風が吹き込んだ。
「……ありがと」
「どういたしまして」
にこっと笑むと、彼女もいつの間にか柔らかな表情に戻っていた。やさしく包むようなまなざし。年上然としたそれが、自分だけに向けられている。
反射で、思考が停止した。
「どうかした?」
黙ったまま何も告げない律に、湊が不思議そうに首を傾げている。
律は慌ててごまかした。
「――何でもない」
「そ? じゃ、茹でてる間休憩しよっか」
「うん」
背を向けて、食器を重ねて置いた机に向かうと、エプロンを外そうと腰の後ろに手を回している。
それはそれで項に目が行ってしまった。なんなんだ。全身凶器か。
改めて(可愛いなぁ)と、思ってたなんて。今のところ言えそうにありません。
* *
宿題は持ってきた? との問いに「まさか」と答えると、見事に呆けられた。
リビングにて二人、座布団に座って円形のローテーブルを挟んでいる。目の前には茶托に乗せられた白い器。あまい緑茶の匂いが漂った。
コトン、と急須を卓に置く音が響く。
「高三。受験生よね……?」
「そうだね。でも入学してから一応、学年十位内は維持してる。宿題なら今夜、帰ってからでもできるし」
律は曖昧な笑みを浮かべた。
湊は、ふぅん……と再び首を傾げる。
「ま、いいけど」
「それより。こないだ『桜の塩漬け作る』って。どう? できた?」
「ふふ、できましたよー」
なぜか敬語になった湊が、いそいそとテーブルの下に隠してあったらしい瓶を二つ、取り出した。
両方同じ形で透明。片方は濃いピンク色の蕾が見るからにピクルス状態。片方は――
「塩……?」
「そう、桜塩。こうしてね。乾燥した塩漬けの蕾を入れておくと塩に桜の香りが移るの。天ぷらとか、抹茶塩でも美味しいけどこういう使い方もいいかなって」
なるほど。
ふんわり、甘くて柔らかい。優しくてどこか儚い――なのに、踏み込むと塩対応。
「……湊さんみたいだよね」
「どこが?」
「教えない」
「気になるなぁ」
不服そうに目を据わらせる彼女もいいな、など、やくたいもないことを考えつつ緑茶をいただく。
(やばい。俺、いま猛烈にここで暮らしたくなってる)
反省を込めて一呼吸。
律は、真摯に彼女を見つめた。
「それは置いといて。あのさ、家から材料持ってきたんで。勝手にガレージに置いてきました。今から取って来るんで、その蕾使って茶請けを作らせてください」
「――はい?」
やっぱり敬語。
湊はこっそり、スイーツ男子……? と呟いた。
そこ、聞こえてますってば。
その後。
二人は結局協力して桜のシフォンケーキを焼くことになった。
夕食は筍御飯にお吸い物。鱈のホイル焼きに季節の野菜の煮しめ。山菜のピーナッツ和え。そうそうたる和食膳だった。
「なんかさ……、ちっちゃい旅館みたい。お品書きとかあっても良さそう」
「実は前、住み込みで働いてたの。書こうと思えば書けるよ?」
「へぇぇ。どうしよう。今さらだけど料金要ります? 女将さん」
「うん?……うーん……」
瞬間、“女将”という言葉にだろうか。ほんの少し切ない表情をした。
律は目敏く見とがめたが、つとめてスルー。訊いたりはしない。
湊はただ朗らかに笑った。そのあと、ちょっとだけ伏し目がちになる。
「要りません。ご宿泊じゃないし。ちゃんと肉体労働してくれたもの」
「いやいや。『肉体労働』ってさ、湊さん……」
――――
なんて。うまい具合に誤魔化されてあげましたが。
その日は、彼女がようやくぽつり、ぽつりと自分のことを話すきっかけとなった夜だったように思う。
まだ、涼しさの残る初夏の夕べ。
守りが甘そうでやっぱり手堅い家主と差し向かい。
食後のシフォンケーキはあまくて、しょっぱくて。
口のなかに広がる桜の風味は、見立てどおり一番煎じの緑茶とよく合った。