中
短縮授業だったから午後一で帰宅。律はさっさと身支度を整えた。暑かったので適当なTシャツとジーンズ。机の上に出したままの鞄には一瞬だけ目をくれた。
――宿題? 却下。
二階の自室からとん、とん……と階段を降りると、ばちり、と祖母の喜恵と鉢合わせる。
「あ」
「お帰りなさい、律さん。もうお出かけ?」
「うん。ただいま。行ってきます」
窺うような視線をちくちくと背中に浴びつつ、足早に玄関へと向かう。喜恵の気配は離れない。
はぁ……と吐息して律は振り向いた。
靴は。厳密にはスニーカーは、すぐそこだ。
「喜恵さん」
「なぁに? 律さん」
幼いころから『ばあちゃん』とは、決して呼ばせない若々しい祖母は、いつ尋ねても正しい年齢を教えてくれない。よって、年齢不詳を体現する和風美女だ。異論は本人が認めない。
「今日は晩ごはん、いいです。おふくろにも言っといて」
「あら。どちらまで?」
「坂の上」
「あらあら」
最初の『あら』とは、明らかにイントネーションが違う。律は苦笑した。
「そんなに遅くはならないから。ね? 頼むよ喜恵さん。今度、またお供します」
「……再来週。お能ですけど」
「了解ですよー」
「……」
しょうがないなぁ、と喜恵は肩をすくめた。そうすると、たちまち雰囲気が少女めいたものになる。「ま。いいでしょ。粗相のないようにね」と小首を傾げた。
軽い小言で済んで、ほっと一息。今度こそ憂いなく玄関へ。予め出しておいたスニーカーに足を突っ込んだ。
「律さん。踵。“爪先トントン”も、お止めなさい」
「あぁ、はいはい」
靴べらは一手間が大いに面倒。
革靴でもこれをやってしまい、『靴が痛む』と、たびたび叱られる。急いているときくらいは大目に見てほしい。
――それにしたって喜恵さん、今日は手厳し過ぎやしませんか?
行ってきます、はもう告げたので「じゃ」とだけ言い残すと、硝子の引き戸を閉めた。
カラカラカラ……カタン
背に軽やかな音。突き抜けて青い空に、まだ高い太陽。解放感に自然と笑みが浮かぶ。
(えぇと……自転車だと帰り、送ってもらえないけど。夜中にガレージから家まで歩かせんのもな。いいや。自転車にしよ)
ひそかに湊とのドライブが好きだったりする律は、ほんの少しだけ眉を下げた。
が、来年は自分でも免許を取って彼女を助手席に乗せたいという野望もある。
焦りは禁物。先は長いのだ。
「あのひと、全っ然、意識してくんないもんな……」
独り言ち、心なし肩を落としてシルバーの車体から鍵を外す。
気を取り直し、繁る青紅葉を見上げながら門へと向かった。まだ乗らない。
手で押してゆく。大股のスニーカーで闊歩する敷石の白が時おり光を弾き、目を射た。
さわ……と頭上を風が渡り、梢を揺らす。葉擦れの音は一斉の大合唱。足元の影もゆらゆらと揺れて、光が遊ぶ。
白の隣は一際深い暗緑色。苔むした土の上を、自転車のタイヤが控えめに跡をつけていった。
門をくぐる。公道に出る。
近くの海から吹きつける風は涼気を含み、心地よかった。
「さて。行くか」
先ほどまでの気落ちもどこへやら。律は意気揚々とサドルに跨がった。
一路、坂の上へ。
標識「瀬尾」。小じんまりとした和風家屋にふさわしく、木の板にしたためられたそれは彼女の姓。
呼び鈴を鳴らすまでもなく、家主はそこに居た。
「あ。いらっしゃい律君」
「こんにちは湊さん。……大変そうだね、手伝おうか?」
既に自転車はガレージ横に置いてきた。手ぶらの気安さで声をかけると、あっさりと断られる。
「ううん。もう終わるとこ。ごめんね、散らかしちゃって」
「いや。いいけど……筍? すげぇ。もらったの?」
「うん」
頷き、しゃがんだまま湊は答えた。足元に新聞を広げ、ちくちくとした茶色っぽい筍の皮を無造作に剥がしている。傍らには大きめの包丁。
「なんか……魚、さばいてるみたい」
「似たようなものだよね。鮮度が命だから」
魚料理をするひと特有の手早さで、湊は口数少なく宣言通り作業を終えた。残骸を新聞紙でくるみ、そばのポリ袋に入れてきゅっと縛る。
剥き終えた筍は最初の大きさに比べるとかなり縮んでいた。うまそう。
右手に包丁。左手に筍を持った湊は、申し訳なさそうに律を振り仰いだ。
「ごめん律君。戸、開けてくれる?」
「お安い御用」
カララ……と、律の自宅よりは軽いサッシ音が響き、ひんやりとした屋内に入った。薄暗く感じるのは、それだけ外が明るかったから。
目に優しいし、ここは落ち着く。ほっとする。
にこにこと、湊はサンダルを脱いで上がった。
「今夜は筍ご飯になっちゃったね。律君、苦手じゃないよね?」
「好きですよー」
ふふっと、くすぐったそうに笑う気配。
それは良かった、と流される。
うん。今のも余裕でスルーですよね、と、今日も出鼻から彼女の手強さにやられてしまう。
ちょっと悔しかったのはおくびにも出さず、スッと彼女の隣を追い越した。台所の入り口に掛けられた麻の暖簾を左手にとり、よけておく。
「はい、どうぞ。――おじゃまします。今夜はご相伴に預かるね、湊さん。何でも言って。俺、料理とか覚えたいんで」
にっこりと笑い、やや下に位置する彼女の顔を、さりげなく覗き込んだ。