花はなくとも
「雨、降ってきちゃったね。律君」
「――ああ。はい」
手元のレポートとノートパソコンとにらめっこしていた顔を上げる。数度、瞬く。
そうですね、と、きみは呟いた。
* *
花曇りだな、とは薄々感じていた。
さあぁっ、と、時折り霧吹で吹き付けるような雨粒が窓を打つ。さほどの量ではないが、白いシェードを巻き上げた窓硝子には細かな水滴がしたたり、強弱のある波紋が見えた。風がひどい。
左門邸の花見会から一週間。
場所によっては残っていた桜も、この嵐であらかた散ってしまうだろう。そう考えると、しぜんとあの夜の篝火と枝垂れ桜が眼裡に蘇る。
若武者のように弓を携え、祖父と射比べをしていた袴姿の律も。それに――
「湊さん、どうかした? 顔が赤い」
「! あ、ううん。何でもない」
「ほんと? 無理してない?」
「ないない。大丈夫です」
ぶんぶんと顔を横に振り、湊は即座に否定した。
新しい職場の初勤務はゴールデンウィーク明けだが、少しずつ研修や前任者の引き継ぎも受けている。
いまも和雑貨カフェ“み穂”の臨時アルバイトは続けているけれど。
――無理は、していない。
ダブルワークになることをオーナーは気にしてくれたが、新しい仕事は主にデスクワーク。
それはそれで覚えることもたくさんあって大変なのだが、こんな風に着物をまとい、ゆったりとした『もてなしの空間』に関わるのは思った以上のリラックスを得られた。これでお給料もいただけるのだから、精一杯につとめたい。
アルバイトを続ける理由。それは、ここが好きだという素直な気持ちに起因している。
ふうん、ととりあえずは引き下がった体の律が、うろんな視線を流す。
湊はこれに堪えた。
サアァァ……
(……)
沈黙を彩るさやかな雨音。
花を散らしても、恵みの雨。
客足の途絶えた夕方近く。昼間は自然照明だよりの店内は、にわかに暗く感じられ始めた。
湊は、ふと夜間用の明かりを点けるべきか軽く逡巡する。その流れで胸元に抱えていた丸盆から右手を外し、甲で頬を冷やす。
――本当に火照っていたのなら、という話ではあるが。
(だめだな。意識しすぎ)
眉をひそめ、袷の内側の鼓動に気が付き、あわてて視線を逸らした。
いつもの定席。
店内最奥のテーブル席に腰掛けた彼が、ふいに微笑む。
「なら、いいんですけど。ぜったい無理はしないでくださいね。湊さん、目を離したら色々と心配だから」
「やだなぁ。そんなに危なっかしい? こう見えて健康管理はいちおう」
…………『気を遣ってる』。
そう言いかけて、昨年末に高熱で寝込んだとき、わざわざ見舞いに来てくれたことを思い出した。明らかな羞恥に頬が赤らむ。
律は、違うんだけどなぁ、とだけこぼした。それこそに目を離せなくなる。
頬杖をつき、大人びた微苦笑の端正な面差し。
黒目がちで、澄んでいるのに深いまなざしに。
それが例えようもなく鋭く、怖くなるときがあるのを知っているから。
――――怖いのは、ともすれば、迂闊にも捕まりそうな真摯さを向けられるからで。
どぎまぎと言葉を探すうち、湊はようやく告げるべきことを見いだした。
わずかでも声が上擦ったりしないよう、細心の注意を払う。
「外。自転車、濡れてるんじゃない? あとで軒下に入れてもらうとして、送ろうか? 私ももう少しで上がりだし」
「ッ! まじで!? はい、ぜひ!!」
(うわあ)
さっきまでの落ち着きは何処へやら。
とたんに喜色に輝く若さがまぶしい。
つられて笑ってしまったが、比例して罪悪感も降り積もった。
――――嗚呼、どうして。
しみじみとこぼれるため息は、こっそり盆の内側に落とす。
了解、じゃあ待っててね、と。
知らず、目許が和むのは罪だろうか。
九つも離れているのに。心が通ってしまったからと、年甲斐もなく正直すぎ?
「これ。下げるね」
「あ、はい」
目を伏せ、空になったコーヒーカップを盆に乗せた。
お代わりは? いいです、と、ごく普通の店員と客のやり取り。
……ひとまず落ち着きたい。物理で距離を取りたくて、そのあとはずっとカウンターの内側でバックヤード業務に励んでいた。
すなわち、『店の人間』である間の侵さざる聖域に。
* *
「ありがとうございました。帰り、湊さんも気をつけてね」
「うん。ええと……律君も。明日、自転車取りに来るんでしょう? 私、そのときはお店にいないから」
「! そっか。はい」
いかにも忘れてた、という風情が可笑しくて、くすくすと笑う。
すると、カシャリとシートベルトを外す音が聞こえた。
左門邸のほど近く。路肩に停めている。
チカチカと点灯するハザードランプが視界の端に。街灯のぼんやりとした明かりが翳る。ふわりと珈琲の香りが近づいて、伏せた睫毛の長さに見とれる合間に口づけられた。
(やられた……!)
「あ」
「――おやすみ。あのね、貴女のことで色々心配っていうのは、こういうところだから」
ぱくぱくと湊が口を開閉させる間、律はまじめくさった顔で、滔々と説教に走りかねない気迫をにじませた。
だめだ。
敵いそうにない。
思うと同時に恥ずかしさがこみ上げ、目が泳いでしまう。
ええと、年の差ってなんだっけ(※混乱)
あまつさえ、頭をぽんぽん、と撫でられてしまった。
降車したあとは店で借りた傘をひらき、完全に見送り体勢らしい。車に向き直ってひらひらと手を振っている。
湊にできたのは、つかの間唇を手で押さえてからハッと我に返り、困り笑いで「気を付けます。おやすみ」と言い残すくらいだった。
ハザードを消し、右ウィンカーを点けて発進。
ワイパーが行き来するのを見るともなく見つめる。
一人でも。
まだ、温もりがある気がしてこそばゆい。
「参ったな……」
独り言つ声だけは聞かせずに済んでよかった、と、気持ちの上だけで悪あがく。
(好きです)
そうそう、直接には伝えられない。
花冷えの夜も、きみを想えるから平気。未来で、きみがどんな選択をしても。
こうしてたびたび逢いつつ。
半年後の秋の行楽シーズンに「免許、取りました」と驚かされるのは、またべつの話。
〈番外編『花はなくとも』・了〉
お久しぶりです。
またしても書いてしまいました。
冒頭で挿絵に使わせていただいたのは、猫じゃらしさま(https://mypage.syosetu.com/1694034/)より賜ったファンアートです。
「光があるほう」は、本編初暁の章の「追記1/2 寒空に駆ける恋心」あとがきに。
https://ncode.syosetu.com/n3753ga/26/
「光がないほう」は、こちらの番外編に掲載させていただいています。
猫じゃらしさま。本当にありがとうございました!