10 舞台裏
賑わいが風に乗って潮騒のように届く。
客人らの気配から察するに、そろそろ呼ばれるだろうかと気を引き締めた。
腕を組んだ姿勢のまま、閉じていた瞳をそっとひらく。
右手側。
目線に近い高さで、ぱち、と篝火の薪がはぜた。家人しか使わない、奥の出入り口から中庭へと伸びる細い通路。数分前から待機している。
篝火の手前では、のんびりと暖をとる祖父が黒々とした木立の向こう側に目を凝らしている。
それは夜闇に浮かぶ垂れ桜の一端か。或いは、ほとんどの花枝を隠している近的(28メートル)用弓場の屋根なのか。
リラックスした立ち姿。まなざしは炯々としている。背は、自分のほうが少しだけ高い。
染めてはいない頭部は茶色みを帯びた灰白髪。前髪は後ろに撫で付けており、襟足はみじかい。眉も同色。目鼻立ちは自分と似ている。
腰はぴんと伸び、頑健で覇気に満ちた姿は老いとは無縁そうだが、体の厚みは年々薄くなっている。
体重はゆるやかに減っていると、由々しそうに本人が話していた。
一昨年、祖父は病を患い、軽くはない手術を受けた。
本人の熱意と地道なリハビリのお陰でほぼ全快したとはいえ、せっかくの隠居生活から勢いで引っ張りだした手前、風邪などひかせるわけにいかない。自然と眉が下がる。
「じいちゃん平気? 寒くない?」
「いや、寒いは寒いが。我慢できんこともない。暇なら行くか? 客が居っても構わんだろう」
「だめでしょ。『段取りってもんがある』って、喜恵さん、さんざんぴりぴりしてたじゃん」
「そうか」
――おそろしくマイペースだ。
淡々と応じる祖父が、やけに若い仕草で諦めた表情をして見せる。
しょうがないな、と律は笑んだ。
――――――――――
幼稚園時代はあまり覚えていないが、小学生だった頃。
同年代の友人達がこぞってサッカーなどのスポーツに夢中になるなか、自分が弓道や流鏑馬に惹かれてしまったのは、祖父の篤志による影響が大きい。
篤志は左門の親戚筋ではなかったが働きぶりがよく、曾祖父からは一際目をかけられていたという。
やがて婿として系列会社の重役や商工会の役員まで兼任し、女当主である喜恵を支え続けた。影に日向に。
プライヴェートの時間など、ほとんど無かったろう。付き合いが広すぎて多方面の折衝に気を配らねばならないし、その分、たまの余暇や趣味は必須だった。祖父の場合、それが弓だったのだろう。
どんなに忙しくとも、(ときにはゴルフに誘われようと)手放さなかった和弓一式を携え、最寄りの弓道場へと向かう祖父の顔はしみじみと、満たされてもいた。
――あのときも。
『馬? 時代劇みたいに?』
『そう。儂が若いときにいた町じゃあ、古くからある大きな神社で選ばれた者が馬上から手綱を離して的を射てな。流鏑馬という』
『へえぇ』
たしか、小四の夏だった。
ラジオ体操が終わったあとで、弓道場の外は快晴。蝉時雨だった。
どんなに暑くとも涼しげに射に没頭する祖父に、気づけば付いて回る孫になっていた。会話はなくとも。
――お利口さんにできるならな、との約束で見学を許され、弓場に通うこと月に二度。そこで、ようやく祖父の若い頃の話を聞き出せたのだ。
高校まで過ごした町の神社で、何度か射手をつとめたということ。
それらを話すときの、嬉しそうな祖父を。まだ皺の少なかった、誇らしげな顔を、今も鮮明に思い出せる。
(俺もいつか)
もっと。
もっと大きくなりたい。
大きな弓を構えて立ち、狙い定めて一直線。
その先にあるものを見たかった。
乗馬にも興味が湧いた。
残念ながら、事故があってからは学校の許可が降りず、それは断念してしまったけれど。
純粋に射手としてなら。
いつか、このひとに追いつけるんじゃないだろうか。
並び立つ。追い越す。
そして。
「……約束だ。じいちゃん。俺が勝ったら、一つ“貸し”にしてもらう」
「あぁん? 勝つつもりか。負けたらどうする」
「一々負けること考えて、試合ふっかける奴なんかいない。じいちゃんが勝てたら、そのときは好きにすればいい。できる? できない?」
「ほーーーーう? まぁ、そりゃそうなんだが。こうも構えるとは大事だな。困りごとか。詳しくは話せんか?」
「そ、れは」
――“詳しく”。
言うべきだろうか。会わせるより先に? 反射で湊の笑顔が花のように浮かぶ。
おそらく、両親は反対する。
が、何もせずに駄々をこねるだけなら単なる子ども。彼女を手にする資格なんか、最初からありはしなかった。
――――こんなにも届かない。
今日は、届かせるための布石だと、誰よりも自分に言い聞かせている。
口惜しいが。
(~~言われなくっても、篁さんのほうが彼女に『近い』ってことくらいわかってんだよ。でも!!)
諦めたくない。
やっと、触れられたのに。
なかなか首を縦に振らない彼女を観念させるために。
求めてやまない言葉を引き出すために。
おろした両手を、ぐっと握る。
弓掛けの下手袋の布地がきりりと引きつれた。挑むように、呟く。
「今は、まだ。でも『そのとき』が来たら一番に味方になってほしい。話せなくて……ごめん」
「ふむ」
灰色がかった眉を跳ねさせ、興味深そうに佇む篤志の顔は一見無邪気だ。愛情深くもある。
なんだかんだ言って、見守られている。
花見の余興にと申し出た弓試合を許容し、弓場の増築を後押ししてくれたのは、ふだんは家のことに口出しをしない祖父母だった。
――いつも、桜と酒に世間話ばかりじゃ飽きるだろう。律を可愛がってくれるお客さんも喜びそうだし。儂も筋力維持に丁度いいんじゃないか? と。
渋っていた両親は、みごとに折れた。
引退しても二人の存在と発言力の重みは現役時とさして変わらないのだと学んだ。
試合の相手は間違いなく、このひと――存在がでかすきる祖父なのだが。
本当に越えたいのは。
(じいちゃんじゃない。篁さんでもない。他人じゃないんだ。つまらないことにこだわって、ぐずぐず燻ってる、俺を)
ふぅぅ、と息を吐く。頭が冷える。
余人の声も焦りも苛立ちも、すべてが遠退く。
いま、この時を。
篤志が灰色がかった眉を、ぴん、と跳ね上げた。
「お。やっと弓を引ける面になったか」
「おかげ様で」
ゆるく微笑みが広がる。肉親であり、先達。師に自然と頭が下がる。胸の裡が澄みとおる。
「本日は、お付き合いくださりありがとうございます。どうぞ宜しくお願いします」
「こちらこそ」
かたや軽妙に答えつつ、泰然と返される一礼。上体を戻した篤志は、にやりと唇を歪めた。
「フフ。身内の集まりとはいえ、まさか自分家の庭で孫と射を披露できるとはな。いい冥土の土産ができた」
「喩え……。頼むから長生きしてよ、じいちゃん」
「努力はする」
「ふつうに大事にしろ」
「老骨に鞭打つ孫が何を言う」
「はぁっ!? 何言ってんの。俺の提案からこっち、口実ができて、めちゃくちゃ嬉しそうに練習してたって聞いたよ? 吉野さんから」
「なんだ。ばれとったか」
呵呵と笑う篤志に、つられて口許が緩む。
「――あのう、すみませんご両方。そろそろ」
「ん」
「わかった」
ちょうど噂の的になっていた吉野が呼びに来て、歓談終了。
ずいぶんと楽しそうでしたね? などと話しつつ歩む彼女を先頭に、篤志と律が続く。
三者一列で中庭へと向かった。