8 繚乱の兆し
『息整えてね』
――いいえ、無理です。
平常心とは言いがたかったが、これ以上は留まれなかった。後ろも見ずに踵を返す。
店に戻ると、ちょうど年配のお客様二人連れが精算を済ませてこちらに向かうところだった。
(! あぶなかった)
慎ましやかに内側の扉を手で押さえ、「ありがとうございました」とかれらを見送る。
にこやかに会釈を返され、鴛鴦夫婦らしいその佇まいに、束の間ほっと息を吐いた。
すると、外扉の磨り硝子にぼんやりと長身の影が映る。宣言通り適当に間を空けたのだろう、篁だった。
胸に波立つものを感じつつも動けない。引き続き扉は押さえておく。
逆光。
キィ、とひらいた外扉で老夫婦と篁がすれ違う。紳士的にドアマンをつとめてくれた、少し垂れたかれの目と視線が交わる。
「――!」
にこ、と邪気なく微笑まれて一瞬、変な顔になった。篁は靴を脱ぎ、店のスリッパに履き替えて再入店する。
「ありがと」
「……どう、いたしまして」
我ながら頗る微妙な顔色と声色。未熟者。
手を離すとカランカラン、と扉が閉まった。
すばやく着物の袷に右手を添え、襟元を直しつつ、ふう、と息を整える。
そ知らぬ顔で素通りし、席に戻る篁が少々憎らしい。
(だめ。仕事、仕事)
頭を振り、意識して明るい表情を心がける。ちょうど窓際のテーブル席を拭き清めていた実苑に声を掛けた。
「ただいま戻りました、実苑さん」
「おかえりなさい、瀬尾さん。どうだった?」
――てきぱき、にこにこ。
恙無い様子の実苑に心底癒される。仕事って、落ち着く(涙)。
湊は左手の買い物袋を持ち上げ、かさり、と音をたてて手土産をアピールした。袋に入れておいた細長いパンフレットも取り出し、ざっと目を通す。
「サンプルの寄せ植えをお預かりしました。後日回収に参りますから、よろしければご検討を、と。家族経営の生花店みたいですね。ええと……すごい。わざわざ隣の県から」
「どれどれ」
袋を受けとって中身の西洋菊に目をほころばせていた実苑は、差し出されたパンフレットの裏面の店名と住所をちらりと確認した。
「そうね。でも、ここなら県庁に行くより近いかも」
「? そうなんですか?」
きょとん、と目を瞬く。
そんな風に例えられると、自分がこの辺の地理に疎いのがよくわかる。もっと、休日にドライブなどしたほうが良いんだろうか……。
「――うん。お花も、植えかたも綺麗ね。いいお店っぽい」
鉢を取り出してしげしげと眺め、ちょこん、と窓辺に置いた実苑曰く、ここは海に張り出した県の端だから、海沿いか山中の峠を越えればじきに隣県だという。
そちらの繁華街エリアでもじゅうぶんに通勤可能だそうで、意外だった。
「なるほど」
「だからね。左門の坊っちゃんが大学に行かれても、そんなに遠くないと思うの。行動力ありそうだし、車の免許もあっという間に取っちゃうんじゃないかしら」
「!?」
「言えてる」
「た、篁さんまで」
――いつの間に隣に? しかも、どうして話に入って来るんです……??
狼狽して、はくはくと口を開閉する湊を面白そうに見下ろした篁は、つい、と視線を滑らせた。対面の実苑に穏やかに問いかける。
「すみません、もうすぐ花見会ですよね。オレ、流れで誘われたとは言え、左門君家のこと全然知らないんですよ。場所も。良かったら教えてもらえます? 当日のドレスコードとか」
「まぁ」
口許に手を当てた実苑が、ぱっと驚いた顔をした。
「やだわ。母ったら篁さんには何のケアもしてないのね。しょうのない……」
「申し訳ない」
ほとほと困り顔の大人が一対。見守る当事者が一名。現在、店舗一階にいるのは自分達三名だけ。
賑わっていたご婦人達は、オーナーと二階で反物など広げているのだろう。時おり気配は伝わるものの、だいたいは潮が引いたように静かだ。
湊は入り口の斜め上を見た。
年季の入ったローマ数字が刻まれた壁掛け時計が指すのは午後三時半を過ぎたところ。勤務上がりにはまだ早い。
が、律の家のことは自分もきちんと聞きたい気がした。
「あの」
そぅっと実苑に伺う。
店主の跡取り娘は、にっこりと人の好い笑みを浮かべた。それこそ、まだ何も言っていないのに。
「いいわよ。瀬尾さんもどうぞ。せっかくだから、私が知ってることなら何でも教えてあげる」
「え、いや、それは。仕事しながらで……!?」
途切れがちな訴えは流され、ぐいぐいと背中を押される。
結果、すとん、とカウンターの席へ。
篁の右側に座らされた。
* *
「左門家はね、もとは、古くから続く醤油の醸造元なの」
「おしょうゆ……ですか?」
「そ。おいしいのよ? 昔は港で鰯が取れ過ぎて漁師さんが弱った時期があってね。鰯醤油なんかも作って買い取りや消費に一役買ったらしいわ。――自然と、大豆に戻ったらしいけど。それはさておき」
「はい」
湊は姿勢を正す。あとは、いかにもありそうな話だった。
ブランドとしての醤油や関連商品の製造・販売はしているが、あくまでも緩やかな一族経営。本家は今のところ昭和の終わりに立ちあげた不動産業に本腰を入れているらしく、そちらも繁盛。
いっぽう、律の大叔父は市議会議員。亡くなった曾祖父は元市長。一族のなかには県庁の要職に就く者も多々いるらしく、とにかく手堅い。
「……つまり、地元の名士で資産家?」
「そんなところです。雇用の面でお世話になってる家も多いし。道の駅が建ってる辺りの地面はあそこの土地だったから、そういう収入も」
「うわぁ」
ぽんぽんと会話する篁と実苑についてゆけず、次第に固まる湊。やがて、おそるおそる口にした。
「あの……そういうお家の跡取りって、ふつう、家格の釣り合うお嬢さんとかと、婚約しません?」
「ん~……どうかしら。確か当代のご夫婦は職場内恋愛結婚って聞いたわ。母経由だけど」
「左門君のご両親?」
「ええ。しかも、首都圏の。まったく畑違いの会社だそうよ」
こく、と頷く実苑の顔はあっけらかんとしている。情報元を考えれば、もっと込み入った事情も聞けそうだが触れずにおいた。
知りたいのは。
「本当に……私でいいんでしょうか」
ぽろっとこぼれた声に自分で驚く。はっ、と目をみひらいて口を塞いだが、時すでに遅し。
妙ににまにまとする実苑に「はい」と何かを差し出される。
ショットグラスほどのちいさな硝子の器に、ミントの葉を一枚飾ったシャーベット。
「実苑さん、これは?」
「試作中のデザート第二弾。商店街の青果店さんが、マスカットが売れ残ってもったいないって言ってたから。箱買いしちゃったの」
「はぁ」
コト、と篁の前にも供される。
いただきます、と拘りなくスプーンを入れた篁は、やがて目許がほころばせた。
「うまい」
「でしょ?」
ほくほくと嬉しそうな実苑につられて、湊も一口。
(!)
美味しかった。舌の上の熱がひんやりと甘さに溶かされ、爽やかで品があって優しい。メニューの一品として加えても良さそうだ。
それをそのまま伝えると、実苑がいっそう笑みを深める。目を奪われた。
どこか、オーナーの早苗にも通じる。芯のある華やかさに。
「売れ残りだなんて。誰が決めたのかしらね。美味しいものは、美味しいのよ。ほんの一手間加えるだけで。……ね? 篁さん」
「うん。異論なし。オレも、こうして美味しく味わいたい派」
「あら」
ふふふ、クスクスと笑い合う男女だが、どこか牽制し合うようにも映る。言うなれば、ちょっと怖い。湊はおそるおそる申し出た。
「あのう……。それで、当日はどうしましょう。自家用車で乗り付けていいものでしょうか。家の場所は知っています。近くに駐車スペースがあるのも。でも、お客様は多いでしょう?」
「あ、そうね」
ころりと態度を変えた実苑が向き直る。
やや思案したあと、さも名案と手を打った。
「日が暮れてからの集まりで、例年、専用の別棟に泊まられるかたも多いのよ。つまみやすい軽食や飲み物も用意してくださってるわ。お酒類も。念のためタクシーがおすすめね。二人、乗り合わせるといいわ」
「えっ」
「わかりました」
ごちそうさま、と器を戻す篁から、なぜか流し目をもらう。
必然的に、坂の上の自宅を教える羽目になった。