6 秘密をあなたに
気分転換に、と提案した映画案は、さらりと棄却された。
いつまた彼女に会ってしまうかわからないショッピングモールにいるより、いったん外に出たいと。
そのまま、車で二人きりになっても口が重そうなので、湊は眉を寄せて立ち止まる。
ふと、某珈琲専門店の丸い看板が目についたので、何げなく斜め上を指した。小首を傾げる。
「じゃあ、このまま飲み物でも買って、出たとこの公園でのんびりする? 天気いいし」
――そんなに寒くないよ、と付け加えると、これは無事に採択された。
* *
珈琲専門店なのに、律はほうじ茶ラテを。湊はチャイをオーダーした。
隣接する公園には子ども向けのちいさな丘や遊具があり、簡単な遊歩道もある。いざ足を踏み入れると、さほど広さはないものの、ほど良い緑の気配に、ほっと一息つける空間だった。
外周はぐるりと桜が配され、気の早い芽は膨らみ、色づいているのがわかる。
暖かい日が続いている。
あと一週間もすれば開花だろうか――
そんな風に枝先をぼんやりと眺めつつ、遊歩道脇のベンチに腰を下ろした。
ちょうど、目の前に遊具広場がある。
就学前の子ども連れの母親や、散歩する老夫妻。休憩中らしいサラリーマンもちらほらと見られる。
やがて、ふう、と吐息した律が口火を切った。
「さっきは、本当にすみません」
「いいよ。知り合いなのも、苦手な相手だっていうのも伝わったから。平日でこんな時間に私服……ってことは、元・同級生? ちょっと、穏やかじゃなかったね」
ゆっくりと慎重に言葉を選ぶ湊に、律は、ちらりと視線を流して苦笑した。そうすると、出会った頃そのまま。妙に大人びてどぎまぎする。
湊の心中を察することなく、律は淡々とまなざしを元に戻した。
背もたれに体重を預け、手元のトールサイズのカップを両手で包みながら。
「小野……あいつ、去年までは俺のストーカーでした。湊さんと初めて会ったとき、覚えてる? 俺、不登校だったの」
「もちろん覚えてます。じゃあ、あの子が、あのときの?」
「うん」
遠い目の律に、婉曲的な指事語だけでも内容が伝わったのだと確信した。
『あのとき』。つまり、去年の春。
律は初めて会ったとき以降も四月の間はふらりと坂の上の一軒屋を訪れた。
それが、当時励んでいた馬上からの射的練習での落馬が元で、原因は側の茂みから女生徒が転がり出て来たこと。
とっさに、彼女を避けたための怪我だった。
治療や検査のため、しばらくは入院していたこと。且つ、彼女が堂の入ったストーカーだったことから根深い人間不信に陥っていたことも。一瞬にしてまざまざと思い返す。
(そう考えると律君、よく学校生活に戻れたな……。ちゃんと推薦枠も確保して。こうして卒業して)
これまであまり深く追及したことはなかったが、曰く、彼女も学校で吊し上げを食らって自殺未遂をしたあとは周囲も腫れ物を触るような扱いになり、彼女自身も律に近づくことはなかったという。
あくまで表面上。高校生活においては。
「はっきり言って、油断してました。もう会うことはないだろうって楽観してたけど。――あぁして面と向かって喋ると。思ったよりきつくて」
「律君」
「しかも、俺だけならともかく、湊さんまで抱き込もうとしたのが許せなくて。……気がついたら、不必要なほどぶち切れました。ほんと、ごめん。あ~もう。思い出したらまたムカムカと」
「まぁまぁ。もう、いいんだってば」
「よくない。俺が嫌なんです」
「?」
明らかに目に力が戻り、元気を通り越して沸々と怒っている。戸惑い、ぱち、と瞬くと、難しい顔色のまま、間を置かれた。
しばしの空白。
じっと見つめられる。
「誰にも、あなたを悪く言わせたくない。あなたは悪くない。俺の、大事なひとです。一生」
「…………り……」
なにか、とんでもないことを言われた。
白昼堂々。
まさか、公の、外の空間で。
こんなにも息の根を止められるとは思わなかった。
名を呼ぼうとしても声が続かない。
胸裡に甘さが広がる。勝手に幸福感に満たされてしまう。
――だめ。だめだ。
(『一生』なんて。軽々しく口にしちゃだめだよ律君。それは、もっと)
揺らいだ瞳に、わずかなりとも拒む気持ちを察せられたのかもしれない。律は、目を細めて身を乗り出した。
「!」
「ひょっとして、また逃げようとしてる? そりゃあ、俺は今は、未成年だよ。でも二年後、絶対に捕まえるから待ってて。『一生』なんて、そうほいほい言ったりしない。湊さんだけだ」
「…………なんで? 何で私なの」
「そんなの」
ふ、と律の瞳から剣呑さが失せた。
否、甘さを帯びて急激に拘束力が強まった。
――なんてこと。由々しすぎる。
そんな笑顔、どこで覚えたんですか?
唇を噛み、軽く睨むと手を伸ばされて、顎に指を添えられてしまう。親指で下唇に触れられ、思わず歯が離れた。
心 臓 、止 ま る !!!!
咎めようとした矢先、すぅっと息を吸った律が、何ごとか喋ろうとした。
そこで、ぱたぱたと幼い足音。
左側の視界に幾つかの影が落ちる。
「わ」
驚いた。いわゆるガン見。
ぎょっと固まり、慌てて律から距離をとると、お子様達三名がまじまじとこちらを見ている。
男の子、女の子、男の子。みんな四歳くらいだろうか。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。お姉ちゃんと仲良しなの?」
「ちゅーするの?」
「!?!?」
「流石にしないよ? お兄ちゃんは、こう見えてもとっても恥ずかしがりやさんだからね」
「そうなの?」
「しないのー?」
「してもいいよ?」
「しないって」
「……律君、きみ……気づいて?」
「あぁ、うん。なんか、さっきから見てるなぁって。ほら、あっちでもベビーカー突き合わせてるお母さん達がこっち見てる。三人だし、この子らのお母さんかな――あ、眼が合った。逸らされた」
「律君、ストップ。お願いだから詳細は中継しないで。ありえないくらい恥ずかしい……」
「そうなの?」
「そうなんです」
気まぐれな子ども達は、とっくに走り去ってしまった。
やんちゃそうな男の子と、そっくり同じことを聞いてくるきみは、一体どんな悪戯者なの……?
こっちはベンチの背に突っ伏すしかなくて、懸命に顔を押さえてるんですが。
くすり、と笑う声が聞こえて。
それが、あんまりにも嬉しそうで。
黙り込んでいると、再びこちらに向き直られてしまった。気配でわかる。わかってしまう。
「ぶっちゃけ、今日買い物に誘ったのは、湊さんに会いたかったから。半分以上こじつけだよ。一分一秒でも長く、あなたと一緒にいたいから」
「律く……、それは」
「聞いて。さっきは、あぁ言ったけど。いつだってキスしたいと思ってる。めちゃくちゃ好きです」
「!!」
……。
…………。
このひとは。
いつか、私を殺しちゃうんじゃないだろうか。
そんな物騒な例えで誤魔化すしかないほど。
私も。
(――好きです)
込み上げる。衝き動かされる。
何もかも忘れて応えてしまいたくなる。
耳が熱い。息がくるしい。
たすけて。
口をひらけば溢れそうになる気持ちを飲み込んで、呼気を整えるだけで精一杯。余裕なんてどこにもない。これの、どこが年上?
純粋な日向ぼっこに切り換えたらしい律は、のほほんと去った子ども達に手を振っている。
湊は、少しだけ顔を上げた。
おだやかな横顔が見えて安らぐのに、ひどく落ち着かない。口許から手を離せずにいる。
「ありがと。おかげで今回も元気になれました」
「今回?」
「そう。言ってなかったっけ。俺が学校に戻れたきっかけ。湊さんが居てくれたからだよ。去年も」
「去年……」
――――俺は、湊さんだから救われた。重いかもだけど、その時からずっと好きなんだ、と。
大切な、大切な秘密を打ち明けるように囁かれて。
(そん、なに?)
なぜか、ひとすじ。
あえぐより先に涙がこぼれた。