5 四月のぶり返し
「やっぱり半襟は白かしらね。刺繍の」
「え? 普通すぎない? こう、もっと色みを足しても」
「……あ、あのっ」
「ん?」
「なに? 瀬尾さん」
二人の女性が同時にこちらを見つめる。
細い姿見のなか、面映ゆさに二の句を継げずにいる湊に、呉服屋の母娘は不思議そうに首を傾げた。
* *
四月初旬。
暖房はせっせと稼働中だが、風は日ごと和らぐ。
空は澄んで水色。高い場所は青をはらむ宙色。
午前の日差しはあくまでも優しく、清しく窓辺を彩っている。
湊は“み穂”の二階で早苗と実苑の両名から、よってたかって店の見本やら、彼女らの私物を当てがわれていた。
本来、水曜は定休日なのだが、今日は呉服屋のみ臨時営業。しかも、赤ちゃんの鈴音を半日保育に出させてしまったというので、余計に恐縮してしまう。
湊は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すみません……。私、手持ちのどれかは着られるかと思ったんですが。並べてみたら、ぜんぜん足りませんでしたね。恥ずかしいです」
ちら、と斜め下に視線を落とすと、紐をほどいた包み紙の山から訪問着の袖が幾枚も見える。
広げてはいない。色柄のみの確認。本業者二人が精査したあとだ。
結果、どれも左門邸の花見会(※別称『桜を愛でる婦人らの会』)にはそぐわないと判断された。
計八枚。すべて旅館の若女将だったころにコツコツと積み立てて購入した、春用の着物だった。
一点だけ、寒桜のような紅の訪問着には手を止められたものの、「――残念。柄が渋いわ。もうちょっと若いほうが」と、見事に却下された。
老女将から贈られた品もいくつかあったが、季節感の薄いモダンな柄ものばかり。
これらは使い勝手は良いものの、海老茶や濃い藍、絣の玄など、色調も抑えめで明らかに畏まった席には不向き。さりとて温泉宿等の「若女将」らしくもない。微妙なラインナップだった。
(旅館の雰囲気が……。派手な色柄は『かえって品がなくなる』って、よく諭されたからなぁ)
こっそり思い返しては吐息する。
きりっとした、辣腕の老女将。
実際、川縁に建つちいさな旅館は隠れ家風で、まるで昔、名のある僧や俳人が結んだような庵じみていた。
今も、あざやかに記憶は甦る。
木製の半月橋を渡れば見えてくる、門庭のねじくれた松に細かく砕かれた砂利、浮き島になぞらえた敷石。計算して剪定された木立の下には、石をくり貫いた器に古びた鹿威し。
中庭の池は鬱蒼と苔むし、影なす大岩は水墨画の一景に似て幽玄。暮れどきともなれば、住んでいた湊ですら時おり息をのんだ。
客層はリピーターが主で、年齢層は高め。
非日常な静けさを体現した宿だったから、視覚的な華美さは、ことさら必要ない。いぶし銀でwin-winというわけだった。
うなだれる湊に、実苑がほほえむ。
「何言ってるの。全部、とってもいいお品だわ。手入れもきちんとしてて」
「そうそう。ただ、趣旨がね……。ごめんなさいね。今回は、その……うちの看板になってもらわなきゃいけなくて。参考までに手持ちの品を見せて欲しいってお願いしたのは、こちらなのに」
「いいえ。それは、大丈夫です」
ふわり、と笑む。
母娘はひととき、それに見とれた。
近ごろ、湊は以前以上に澄んだまなざしで侵しがたく、透徹とした表情をするときがある。
元々離婚歴があるとはいえ、落ち着いて凛としたなかにも華やぎのある女性なのだ。それがいっそう、輪をかけて。
「――おかげさまで、五月のGW明けから中途採用が決まりました。しばらくはお手伝いに来れませんし、これくらいは。私にできることなら、ぜひ、力になりたいんです。お店にとって左門の奥様が主催なさる花見会は、本当は重要な『顔出し』なんですよね?」
「え、えぇ。まぁ」
早苗が珍しく引いた答えを返す。
気づかず、湊は再び目を細めた。
「決めました。オーナーさえよろしければ、一式、お借り受けします。振る舞いにも充分気をつけますから。どうぞ、目一杯拵えてください。“み穂”の宣伝塔になれるよう、頑張ります」
* *
「と、いうことがあってね。午前」
「そっか。すみません、祖母がわがままで。結局、湊さんにまで色々……」
「ううん。いいよ、これを機に着物の勉強にもなったし、今までは『もてなす側』だったから。『訪問する側』の心得が不十分だったんだなって、よくわかったの」
「あぁ、なるほど」
それなりに人出のある街中をゆく。
昼前に解放された湊は隣市の駅で待ち合わせ、律と二人で歩いた。
先月、高校を卒業した律は来週から附属の大学付近でアパートを借り、一人暮らしをするという。
新生活に必要な家具等の搬入は済ませたらしいが、「こういうとき、あったほうがいいものとか。湊さんなら詳しそうだから」と買い物に誘われた。それなら、と。
お値段の手頃な店でパスタを食べ、雑貨屋やセレクトショップを回る。
ふと、ショーウィンドウに映る自分達に目が行った。
(なんか……しまった。デートみたい。それとも姉弟?)
「湊さん? いいの、あった?」
「!! う、ううん。何でも」
ぶんぶんっと首を横に振る湊に、律が目を瞬いた。やがて、ふっと顔をほころばせる。
「ごめん。なんか嬉しい。デートみたい」
「……」
――すみません。同じことを考えました。
思わず顔を伏せて口許を押さえ、視線を逸らすと右手をとられてしまう。はっと気づいたときには遅かった。しっかり握られている。
ま た か !
(また、勝手に……手! 私、これじゃ完全に犯罪だよ。わかってるの、律君? あなた、高校卒業してもまだ未成年なんだよ??)
上機嫌にフロアの別店舗へと向かう律の背に抗議の声を上げるべく息を吸った。そんなときだった。
「あれ、左門君……? うそっ。やだぁ、偶然!!」
ぴたりと律の歩みが止まる。若干、繋いだ手が動いて律の後ろに誘導された。
隠れられてはいないが、隠したい意図を察して前方の若い女の子を見つめる。長い黒髪が印象的な可愛らしい子だ。同級生だろうか。
(ええと)
いたたまれなさを感じて困り果てたとき、きゅ、と、握る手に力が込められた。律の声は固かった。
「こんにちは、小野さん。一人?」
「うん。ねぇ、後ろのひと、ひょっとして左門君のお姉さん? 嬉しい。よかったら」
「小野さん」
「えっ、……はい?」
被せぎみの律の呼び掛けに、少女はおどおどと身をすくめた。近寄ろうとしていた足が止まる。
律の顔が、少しだけこちらを向いた。指し示すための動作だとわかった。
「俺に姉はいないよ。このひとは俺の『大事な女性』。去年までめちゃくちゃ調べてたわりに、そこは知らなかった? じゃあね」
「!!」
すっ、と滑らかに律が動く。硬直する少女の傍らを、一定距離を空けて通り過ぎた。湊もつられてあとを追う。すると。
「何よ、そんな…………連れちゃって。バッカみたい。趣味わる」
低い、苦々しい呟きはモールのアナウンスにかき消されて聞こえなかった。
けど、多分。
(『年増』とか、『ブス』だよね。こういうときの枕詞って。それより)
人混みを避けつつ、ついてゆけないこともない早足に、湊は頃合いを見て横に並んだ。
案の定、整った頬に表情はない。険しい瞳に胸が痛む。
なので、とっさに提案してしまった。
「律君、どこかで休もうか。映画でもいいし、何か……静かなとこ?」
「ごめん、湊さん。せっかく付き合ってくれたのに」
「気にしてないよ。気にしないで」
「……はい」
繋いだ手を、今度は湊からそっと握り返す。
素早く側にあった見取り図を確認し、方向を修正した。
――引き返すのはよくない。回り道しないと。
とりあえず、少しだけ力が抜けたらしい律を、引っ張ってみた。