2 桂馬か騎士か。客二人
――パチン。……パチ。
「! 待ってください、それは」
「待たない。真剣勝負だからね。オレ、いきなり飛んでくることもあるから気をつけて。ゆっくり、長考どうぞ」
「…………」
ギッ。
上背のある、長身の篁裕一が椅子に斜めに寄りかかり、光の差し入る窓辺に直接背を預けて目を瞑る。脚を組み変える。それだけでアンティークな風合いの木の椅子は軋みをあげた。が、不快ではない。
誰かがのんびりと寛ぐ気配はこの店にたいそう似つかわしいものだし、心を込めて働く身としては好ましいものなので。
土曜日午後二時。かれらの他に客はいない。
珍しく、それなりに繁忙だった昼時を実苑と二人で切り抜けた湊は、カウンターの内側で溜まった食器を洗いながら、そろりと視線を上げた。
カウンター席では実苑がしずかにペーパーナプキンを補充しつつ、布巾で端から丁寧に拭き清めている。その姿に。
「実苑さん。ここ、将棋なんてあったんですね」
「あぁ……あれね。父が一時、はまってて。囲碁もあるのよ? 瀬尾さんが来る少し前かしら。お二人そろっておいでだったから、『相席されるなら』って、母が」
「なるほど」
家で和装を整えてからシフト入りした時点で、左門家の上得意・喜恵の車があることには気づいていた。孫の律も来ているのだろうと。まさか篁と居合わせるとは。
BGMのない店内で、今日は変わった音がするな――と思ったら、奥のテーブル席で折り畳みの将棋盤を広げた二人が、差し向かいで駒を動かしていた。
把握する限り、とくに声をあげることもない。
ただひたすら、篁のいう「真剣勝負」の空気が主に律から伝わる。初心者らしい彼は、こてんぱんにのされているらしい。
(大人げないなぁ、篁さん)
ちょっとだけ、苦笑いを浮かべる。
篁は、昨年の試験の時点でいま勤めている会社に面接を受けに行っていた。企業や法人向けソフトウェアの開発や、システム構築及び管理を任される職務のようだ。
“将来的にはもっと難易度の高い資格も取らなきゃいけないかも”と。
昨夜も二十時過ぎにふらっと現れ、それからの夕食。よくよく見ればちょっと疲れた顔をしていた。
流れで“み穂”に来てくれたようだが、社会人にとってはオアシスのような休日。本当は、家で休みたかったのではないだろうか……。
そんなことをつらつらと考えていると、小首を傾げた実苑にカウンター越しにコケティッシュに微笑まれてしまった。
「ね、瀬尾さん。それ終わったら、お冷や持って行ってきてくれる? あのひとたち、最初のお飲み物を頼まれたきり、ご昼食がまだなの。きっと、勝負に熱が入りすぎて忘れてるんだわ」
* *
案の定、二人は食事を忘れていた。
ちらっと手元を窺うと、それぞれ幾つかの駒を奪い合っている。
が、察するに篁が勝つのは時間の問題な気がして、湊は律に穏やかに笑いかけた。
「今朝の朝食が遅かったにしても、軽食とか、甘いものはいかが? 根、詰めるとよくないよ。お代はこっちのお兄さんに払ってもらえばいいから」
「奢りは嫌です。理不尽ですけど、賭けを申し出られたので」
「賭け?」
カラン、と注いだ冷水から氷が落ちて、グラスのなかで音をたてた。はい、と卓上に置く。
すでにお代わりを口にしていた篁は、にこっと唇の両端を上げた。
「『気が変わった』って、言ったろう? 本気だよ。ただ、左門君には礼を尽くそうと思って」
「……話が見えないんですが?」
冷水のピッチャーを手にした湊は訝しげに、ますます首をひねる。
破顔した篁はメニューも見ずに「じゃあ、フレンチトースト」と注文した。「僕も」と盤を睨んだままの律が続く。湊は、ふっと吹いた。
「畏まりました」
カウンターに戻って伝票を差し出すと、実苑は微妙な顔をした。
「しまったわ」
「どうしたんです? ――あ、玉子?」
「そう。今日は稀にみる繁盛だったでしょ? さっき、オムライス四名様のときに使い切っちゃって。ごめんね瀬尾さん。悪いけど角のスーパーまで行ってきてくれる?」
「いいですよ。請求書、切ってもらいます?」
「お願い」
――わかりました、と頷いたとき、ガタガタッと奥で椅子が鳴った。
振り返ると、背もたれに掛けてあったジャケットに袖を通しつつ、晴れ晴れとした顔の篁が歩いてくる。
「オレも行くよ。何かあれば、他にも遠慮なく言って。荷物持ちするから」
「そんなわけには」
ぎょっと返すと、さんざんやり込められたらしい律もすたすたと近づいていた。
篁に追いつき、後ろから肩を掴む。
「俺も行きます」
「もうっ。全然、言うこと聞かないお客様たちだなぁ……!」
「まぁまぁ」
「? 実苑さん?」
相変わらずおっとりとした声がカウンターの下から聞こえて、袂を括っていたたすきをほどいた湊は、冷蔵庫や棚の在庫を確認していたらしい女性の背中に声をかけた。やはり、のんびりと返事があがる。
「せっかくだし、いまは母も動けないし。お願いしましょう? 瀬尾さん。その代わり、お二人にはサービスでお飲み物とシャーベットを進呈するわ」
「いいんですか……」
「いいのよ。ね? 騎士様がた」
「もちろんです」
「えぇ。でも、『騎士』だとチェスみたいですね。将棋だと何になるのかな」
「桂馬じゃないか? ほら、両方障害があっても飛び越えてくだろ。動きがトリッキーで」
「桂。そうか。――あ、ちょっと、篁さん!」
いつのまにか、実苑が書き付けたメモを受け取った篁が戸惑う湊の袋帯の下に手を添え、さっさと外に連れ出そうとしている。
声を荒げてあとを追う律に、店主の一人娘はくすくすと口許に指を当てた。
「行ってらっしゃい」
カラカラン。
扉の鐘を賑やかに鳴らし、湊たちが店を出る。お使いをお願いした実苑は、そっと後ろの引き戸を開けて、すやすやと眠る大物の我が子を確認してから内線の受話器を取った。
「もしもし? 母さん。まだ左門の奥様は――そう、良かった。ううん。お孫さんと背の高いお客様。それに湊さんでちょっと、買い出しに出てもらったから。…………うん。うん、もう少しゆっくりしていただいて。わたし、鈴音が起きたら身動き取れないわ。できれば奥様と階下にいてもらえると――えぇ。ありがとう」
章題と前話のサブタイトルを変えました。
(やっぱり終章は四話に収まりそうにありません。申し訳ありません~!)