1 装いあらたに
春、遠からじ。
雪が完全に融けた三月の初め。それでもまだまだ寒い。
(履歴書――持った。身だしなみ良し、時間良し。面接はこれで二社め。資格だって、ギリギリだけど取れてる)
なんとなく伸ばし始めた髪はそのままだと重い。ダークブラウンのそれを後頭部に束ね、ゴムが見えないよう自身の髪で一巻き。シンプルなアレンジにとどめる。
スーツは新調した。ネイビーのパンツスタイルで、インナーは白のカットソー。黒の書類鞄に黒のプレーンパンプス。まじめな中途採用希望者そのものだ。
ハンカチだけは季節感を取り入れたくて、早春らしい薄黄緑の刺繍が入った新品をおろした。
メイクも控えめながら地味にはなりすぎないよう気を付ける。アクセサリーはなし。指輪も。
(結婚してないし)
指先にピンクベージュのネイルを塗っただけの左手を目線まで掲げ、まじまじと眺める。旅館で働いていたときも邪魔だったので外していたから今さらなのだが、それ以上に。
「なんだか……。本当に独り身なのね。“逃げた”だけじゃなくて。もうすっかり」
不可抗力ながら元夫の木嶋と再会を果たし、面と向かって決別できた事実は大きい。
あのひとにとっても、自分にとっても、病んだ結婚生活など続けるだけ不毛だった。手にしたのは自由なのだと思いたい。
――自由、と一言にいっても羽目を外すためのものではなく、「一人」である自分に立ち返るためのもの。
ちゃんと一人になって、足場を築いて、それでまっとうな「独り暮らし」が出来るようになったら。
そのときは、ようやく誰かから向けられる言葉に。心に応えられるのかもしれない。
そこまで考え、ハッと左手首の白い文字盤が目に映った。
「――いけない。そろそろだ。ええと……道、混んでないといいな」
裏地の付いたベージュのトレンチコートを羽織り、鍵を閉めて我が家をあとにする。
めざす面接会場は隣市。
和雑貨を中心に取り扱う小売店がいくつか集うテナントビルの一室で、Web販売やホームページなどの管理者候補を募るものだった。採用されれば一ヶ月の試用期間という名の研修も受けられるらしく、正直、絶対に獲りたい。
湊は庭の並木道を歩いて坂を下る。
今日は徒歩。
金曜日なので“み穂”のシフトも入っていない。
今夜は隣市の駅ビルで同窓報告会なるものが催されるらしく、おかげで緊張もほぐれるというもの。軽やかにバス停まで、小走りに駆けた。
* *
「…………なんて、信じた私が愚かでした」
「どうしたの瀬尾さん。らしくもなく、くだ巻いちゃって。ひょっとして飲み足りない? 追加オーダーしようか」
「結構です」
職業訓練をともにした女性グループの面々とは十八時半、確かに会えた。そこまでは良かった。
隣市の駅ビルは前々から立ち寄ってみたいと思っていたスマートな外観で、大きな立体駐車場と通路で連結されている。その入り口で待ち合わせ。
“お酒も美味しいから、できたら電車で来てね”
と、念押されての同窓会。(※有志女子のみ)
案内されたのは雰囲気のよい多国籍料理を取り扱う店で、奥まった半個室のボックス席。女性四人で気兼ねなく語らうのは楽しかったが、気がつけば二十時を回っていた。
自分以外は全員既婚者だし、そろそろ解散か、と思った矢先のこと。
予てよりそわそわしていた女性陣は一斉に席を立ち、「ちょっと家に電話を」「お手洗いに」「わたしも」と、続々と去ってしまった。
言葉面を疑うことなくぽつん、と残されて座っていた湊の前に現れたのが、なんと勤務上がりらしいスーツ姿の篁裕一。
だ ま さ れ た。
――――こうして、まだ料理の残るテーブルに突っ伏し、現在に至る。
* *
くすくす、と長めの前髪をかきあげて篁は笑った。
「ごめん。オレは腹減ってるから注文するね。えーと、餡掛け海鮮焼きそば一つ。生一つ」
畏まりました、と告げて去る店員を横目に、篁はちゃっかりと湊のグラスにボトルの赤ワインを注いだ。
「赤か。いい匂いだね。何食べたの?」
「……真鍋さんが『面接お疲れさま会よ!』って、次々に頼んでくださって。とにかく色々です。ブランド牛のステーキ、美味しかったですよ」
「まじか。次はそれにしよう」
「次回は、こんな騙し討ちみたいな残り滓じゃなくて。ちゃんと女友達のかたといらしてくださいね」
「なんで?」
「……なんで、って」
きょとん、と瞬く篁に湊は言葉を詰まらせる。どこから食い違ったんだろう? 酔っているかもしれない頭で懸命に考えた。小首を傾げると、うっかり眠りたくなる。
「篁さん、今日は真鍋さん達に『飲もう』って誘われたんですよね?」
「そうだね」
「じゃあ」
「でも、きみが居るって言われなきゃ来てない。さっさと帰って寝てる」
「え?」
「あ、焼きそば来た。早いな」
「お待たせしましたー」
ジャストタイミングでほかほかと湯気をあげる鉄板を運ぶ店員が近付き、「熱いのでお気を付けて」と卓上に置く。
さらに目の前で餡をかけられて、じゅうじゅうと音をたてる堅焼きそばに目を奪われている隙に、到着したてのビールのグラスを差し出してにっこりする篁に否やも言えず、湊は渋々と六分目まで満たされたワイングラスを差し出した。
とりあえず、お疲れさまの乾杯。
――危ないし、送る。
いつになく決然と宣言され、一緒に電車に乗った。終電には充分余裕のある二十一時。
駅に着いたらタクシーを呼ぶと言っても頑として首を縦に振らず、「美人はこういうとき、交通機関に乗る前から厄介ごとに狙われるんだ。知らない?」などと真顔で煙に巻かれる始末。
(厄介ごと……。『これ』は、違うか。違うよね)
いつになく目が真面目だが、篁の言い分の大半は本来、冗談でできている。
面接で気を張っていたこともあり、女同士のくだけた飲み会を経たため、幾分か酔っている自覚はあった。
「じゃあ」
二度目の『じゃあ』は、すなわち『お願いします』の意。
湊は酔いを醒ますべく、電車を降りてからは、なるべく無駄のない動作で篁の隣を歩いた。
改札を出てすぐ、タクシー会社に電話して一台寄越してもらう。田舎なので、夜間にひとが駅に降りることはまばら。
よって、タクシーが常時ロータリーに待機していることはない。そんなこともこの一年で学んだ。
コートのポケットにスマホを落とし込み、「すみません」と謝りつつ親切な騎士を窺う。篁は「全然」と柔らかく微笑んでいた。ちっとも酔ったようには見えない。二人、適度な間隔を空けて並んで駅舎を出る。
「面接どうだった?」
「良さそうな人事担当のかたでした。質問すれば求人票には書かれていない『あったほうが良いスキル』も教えてくれましたし。前職のおかげで、そっちは何とかなりそうです」
「和系の仕事?」
「はい。お箸や器、暖簾に浴衣まで。“生活に取り入れやすい和テイスト”をコンセプトにしてる会社みたいです。新人作家さんの染め付け絵皿や吹き硝子コーナーとかもあって。直接仕入れて商品展開して……その在庫管理やWeb販売、ホームページを担当していたかたが退職なさるそうで」
「へぇ……合いそう。人員交代で中途枠が設けられたんならラッキーだったね。結果は来週?」
「はい。書面で通知が来ます」
「なるほど。あ、来た。本当、気を付けて」
「ありがとうございます」
「……」
「篁さん?」
ゆっくりとタクシーが止まる。す、と後部座席のドアがひらいて、乗り込もうとした湊は振り返った。
駅舎からの光を背に、篁が珍しく口を引き結んでいる。
心もち顎を引き、伏し目がちに問われた。
「……明日はバイト?」
「はい。昼前から午後のシフトで……。来られます?」
「行こうかな」
「ご随意に」
わざと古めかしく答えると、いっそう色男めいて笑われる。バタン、とドアが閉まり、ひらひらと手を振られた。
うとうとと眠気が押し寄せるが、まだ寝るわけにはいかない。
車中で行き先を告げ、走り出すタクシーのなかでスマホの振動音がした。
(あ。え?)
手に取り、確認して湊は目をみひらく。
“ちょっと気が変わったかも。明日またね”
――?
さっき、じつに意味深な笑顔をしていた。
篁からのメッセージだった。
2021.5.14記
章題とサブタイトルを、がらっと変えました。書けば書くほど没になり、どうも四話に収まらない気がして(泣)
最初に読んでくださっている方々、申し訳ありません~!
(深く礼)