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桜並木の、その下で  作者: 汐の音
寒明けの章
35/48

8 氷雪のゆくえ

 ――そっか。それで、大丈夫だった? 元旦那は。


 家に電話は引いていない。スマホだ。(みなと)は帰宅後、律儀に(りつ)にLINEで帰宅を知らせてから入浴を済ませていた。




   *   *




 一人で過ごす食卓はさほど手の込んだものは作らない。朝、仕込んでおいたミネストローネに冷凍ごはんとチーズを投入し、温まったら塩コショウで味を整え、パセリを散らして即席リゾットにする。

 コトコト、と小鍋で煮立つスープの香りに、ふと隣の冷蔵庫を流し見た。


(なんというか……色々ありすぎたな。料理用に買っておいた白ワインでも飲んじゃおうか)


 そんな風に思いつき、ハウスワインをグラスに少量注いだ。見るともなくテレビをつけ、当たり障りのないクイズ番組などを流しておく。


 出来上がった料理を持ってリビングへ。

 そんな頃合いの着信だった。

 湊は、ぺたんと座布団に座り、考えながら言葉を紡ぐ。


「はい。バイトしてるお店のオーナーがうまい具合にさばいてくださって。……あのひとの家は太平洋のほうが近いから、新幹線で来たのかな……。有給で、ホテルを取っていたとしたら明日も来るかも」


 ――は? 何それ。全然大丈夫じゃないでしょ。虫除けに行こうか。勤務何時から?


「午後一時からですけど。『虫』って?」


 ピタリ、と湊はグラスを傾けていた手を止めた。訊き返すと、くすくすと耳元で笑われる。


 ――男避(おとこよ)けだよ、男避け。ちょっとした刃傷沙汰(にんじょうざた)なら、ないこともないから。相手が自衛官とか警察官とかじゃなきゃ平気。


「…………」


 条件付けが。

(すごく、生々しい)

 湊はワインで口を湿らせた。


「お申し出は大変ありがたいんですが、それ、元奥様に車で()かれる以前のお話ですよね? いえ、たぶん刃物は持っていないと……。刺される理由がわかりませんし。復縁を迫られました。刺されたら私、余計に戻らないじゃないですか」


 ちょうどリゾットは食べ終えて、あとはワインだけだった。それでちびちび飲んでいたわけだが。(ちょっと酔ってるなぁ)とは思い始めていた。


 コト、と響くグラスの音が聞こえたのかもしれない。(たかむら)の声がにわかに揶揄(からか)いの色を帯びる。


 ――……なんか、妙にしどけないと思ったら。ひょっとして家飲みしてる? 瀬尾(せのお)さん。


「!」


 ぶは、と()せそうになり、湊はちいさく咳き込んだ。

 篁は言質(げんち)をとったように晴れ晴れと告げる。


 ――もったいないなぁ。酔ってる瀬尾さんを見られないとか。駅に近くて落ち着けるとこ、いくつか知ってるよ。今度飲みに行く?



 え、いや、それは。



 若干涙目で通話画面を見ても“篁さん”と表示されているだけ。

 しかも、『だめです。外飲みはほかのご友人を当たってください』とお願いする前に切られてしまった。


 ――――じゃあ明日ね。お休み。戸締まりはちゃんとするように、と。



 表示オフ。

 アプリのアイコンが並ぶホーム画面にため息をつき、(から)になったグラスを眺めた。

 明日。本当に来るのだろうか。

 篁も、問題の木嶋(きじま)も。


「そんなに私……、無防備に見えるかしら」


 やめやめ、と頭を振り、今一人とのやり取りまで浮かびそうになるのを必死にとどめる。


 さっと流し台で食器を洗い、キッチンとテーブルを拭き清めた。

 どんなに疲れていても、それこそ酔っていてもやってしまう癖のようなもの。


「……寝よう。もう、今日は営業終了です」


 パチ、と台所の明かりを落とした。




   *   *




 和雑貨カフェ“み()”は平時、そんなに混みあわない。

 客のほとんどが常連でリピーター。ご近所の奥様方の集いであったり、散歩がてら寄ってみたよ、という風情の老紳士など。

 それで、常であれば平日は二階の呉服店舗や一階の雑貨入れ換え、事務仕事を手伝ったりするのだが。


「大盛況ですね……」


 下げた皿をカウンターの内側で洗いながら、湊はぽつりと呟いた。隣で珈琲を挽いていた実苑(みその)がころころと笑う。


「ほんとねぇ。助かっちゃう」


「本気ですか、実苑さん? 騒がしいだけじゃ」


「あら」


 古式ゆかしい黒いミルの取っ手を止めて、実苑はしげしげと湊を見つめる。


「奥の間の鈴音(れいね)がぐっすりだもの。いい子守唄なのね、きっと。何だかんだ言って()()()()()()()()()()()()


「そう……ですか?」


 蛇口を閉めた湊はリネンをとり、皿を拭き始めた。



 月曜日の午後二時。

 一階には三名の客が詰めている。

 そのすべてが湊の既知(きち)でカウンター席。椅子を一つずつ開けての微妙な距離感は何なのか。

 向かって左から木嶋、律、篁の順に座っている。

 かれらは延々(えんえん)、一見和やかな牽制を続けていた。


左門(さもん)君だっけ。学校は?」

「冬休みです」

「へぇ。貴重な休みを。なるほどなるほど――ね、瀬尾さん。この子も追い払っていい?」


「いいわけありませんよね、篁さん。やめてください」


 淡々と述べると、実苑より向こう側に座る木嶋が「湊」と呼んだ。


「……なんでしょう」


 精一杯の理性で応えると、木嶋もまた不愉快と不可解の狭間(はざま)のような顔をしている。


「あんまり訊きたくないんだが。()()()()?」


「お答えする義理はありません」


 カチャ、と拭き終えた皿をかさねて後ろの棚に納めると、冷水のピッチャーを持って客席側に回る。半分ほど減っていた篁と律のコップに順に注いだ。

 お冷やにはまだ口をつけていない木嶋には、絶対に近づかない。


 勤務中は難しいと悟った木嶋が、今度は律に矛先を向ける。


「高校生かな、君は。湊の何?」


「俺は――」

「見込みあるだろ? こいつ、瀬尾さんが好きなんだよ」


「!! 言わせてくださいよ!」

「たっ、篁さんっ!?」


「えっ」


 ちょうど、実苑がカウンター越しに差し出した珈琲に手を伸ばしつつ、木嶋が凍りつく。

 受け取った器をゆるゆると置くと、訝しそうに目を細めた。


「知らないのかな。彼女は二十七だよ。三月には二十八だ。君、いくつ? ちゃんと将来とか考えてる? 言っとくけど湊じゃ遊べないよ」


「!」



 ――『遊べない』の正確な意味が瞬時に全員に伝播(でんぱ)する。


 室内の体感温度が、しん、と下がった。

 律と篁からは表情が消えている。温厚な実苑ですら眉を険しくして、湊自身も。



 カウンターの内側に戻っていた。

 おそるおそる正面の律を見つめる。

 前の主人としずかに対峙する、若いかれを。


「……『遊ぶ』って発想が、まず、()()()()()()()()()()()。俺は四月生まれだから九歳差です。大学は推薦で決まってるし、卒業前に内定が決まったら結婚を申し込みます。家族も。説得します」


「…………」


「えらい具体的だね。あ、オレも彼女とは付き合いたいよ」

「篁のお兄さんは黙っててください」



「~っ……」


 ずるずるとしゃがみ込んでしまった湊に、実苑は気遣わしげに声をかけた。


「瀬尾さん、大丈夫よ。わたし、口は固いわ。多分母はこういうお話大好きだけど、黙っててあげる」


「いたみいります」


 二階で会計事務をしている早苗(オーナー)を思い浮かべ、さもありなんと頷いた。







(――よし)

 意を決して立ち上がる。全員から注目されたが、湊はあえて無視した。


 今日初めて、真っ直ぐに木嶋を見つめる。

 不安定な、どこか傷ついているようにすら見える瞳だった。


「お勘定しますね、()()()()。もう、新幹線の時間じゃありません?」




   *   *




 心配そうな実苑と律のまなざしに微笑み、湊は店の雪駄(せった)を履いて外に出た。


 小雪がちらついている。

 表の通りに出ればタクシーはつかまるだろう。湊は姿勢を正した。浅いお辞儀をする。


「お元気で」


「もう、来るな、と?」


「そうですね」


 背を直し、記憶のなかのどの姿よりも頼りなく佇む木嶋を眺めた。微笑みはしない。きゅ、と口角を上げるだけ。


 決別を。

 (たもと)はもう、分かったのだから。


「どうか、私ではない女性(ひと)を見つけて、私よりもずっと大切になさってください。……幸せに。勝手に出てしまい、すみませんでした。そのことだけは謝りますが」


「湊」


 耳に染みついた、甘やかすような。すがりつくような呼び声。

 けれど、ふるふると(かぶり)を振った。

 もう応えない。


「お見送りしてから戻ります。さようなら」



 ――――蓮也(れんや)さん。


 心で呼び納める。もう二度と口にはしない。


「……」


 再び深くお辞儀し、(おもて)を伏せて動かない湊に無言。

 やりきれず苦悶を浮かべ、瞑目して視線を断ち切った木嶋は、首に巻いていたマフラーを外した。

 広げる。

 雪が積もり始めた元・妻の頭と肩にふわりと掛ける。

(!)

 わずかに動じる湊を切なく一瞥(いちべつ)。少しだけ微笑んだ。


「捨てていい」



 さく、と踏む雪の音。

 湊は顔を上げなかった。

 遠ざかる足音に、さまざまに追想が巡る。吹きすさぶ嵐に似て胸をかき乱す、縛りつけられていた時間を。



 いずれ終わる冬にかさね、きたる春にほどける。

 融かす。心の氷雪を砕くように。





これで「寒明けの章」を終わります。

次章で完結とします。

お付き合いくださるかたがた、いつもありがとうございます!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 季節の描写が登場人物の情感と相俟ってとても素敵だと思いました。 和装の小物や重箱。そしてバイト先の喫茶店や自宅での食事風景などの細やかな描写が、湊さんや他の登場人物の心情まで鮮やかに表現し…
[一言] 『言っとくけど湊じゃ遊べないよ』 あっさりとモラハラ夫の本性を見せましたね! 先日の言葉がいかにでまかせだったか! この手の男は直りませんもんね!
[一言] 狂気の元旦那が暴れなくてよかったぁぁ〜と、湊さんお疲れ様でした……!!が入り混じっています;( ;´꒳`;): 律くんは公開プロポーズですかなるほどなるほど。そこに茶々入れる篁さん、好きです…
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