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桜並木の、その下で  作者: 汐の音
寒明けの章
33/48

6 ゆめゆめ、思いませんように

 不本意ではあったが、帰る、帰らないでひと悶着起こしてしまった。

 木嶋蓮也(きじまれんや)――前夫にしてみれば、今の自分は十分不愉快な対応をしているはずなのに。

 まだ、妙に優しい。

(人前だから? かれの(テリトリー)じゃないから……?)


 (みなと)は唇を引き結び、相手を見据えた。

 が、読めない。傍目にはとても落ち着いた大人の男性に見える。

 強いて言えば、睨んでも、とても興味深そうに見つめ返されてしまうのがつらい。

 ほとほと困り果てたあたりで、レジの上で頬杖をついた早苗(さなえ)が、しょうがないわねぇと呟いた。


瀬尾(せのお)さん。()()()()()()()、知ってるひとなのよね?」


「うっ」


 湊が怯んだ隙に、木嶋がにこりと笑いかける。


「夫婦でした。法的には解消していますが、心は残っています」


「あら」

「!! 蓮也さん!」


 思わず頬杖をといた早苗は、まじまじと木嶋を眺めた。

 湊は迷惑そうに抗議の声を上げたが一顧だにされない。かえってあからさまに、目の前の男性の愉しげな気配が増した気がする。


「じゃあ、こうしましょう。お二人とも、私が一杯ずつ飲み物を奢るわ。お好きなものをどうぞ。店主の権限で、一時間だけ場所を提供します。話し合えばいいんじゃないかしら」


「そんな。話なんて」

「いえ、お代は」


 元・夫婦がそろって慌てるのを、早苗は年配者の貫禄で受け流した。つい、と、視線と指先で窓側にある奥の席を差す。そこは。


(律君の定位置……)


 秋から、週末になるたび高い頻度でそこにいた。かれの背中が眼裡(まなうら)に浮かぶようで、湊は言葉を失う。

 早苗は、さらに後押しした。


「いいから。その代わり、(ここ)で問題は起こさないで。昔はともかく、今は、うちの可愛いバイトさんなの。大声も控えてくださいね。カウンターの向こうに和室があるんですけど。赤ん坊が寝てるのよ。よろしくね」



「…………わかりました」


 渋々の(てい)で木嶋が頷いたとき、カラ、と(くだん)の和室の板戸が開いた。赤ん坊にミルクを与え終えたらしい実苑(みその)が、ひょこっと顔を出す。


 藍色の着物に赤い帯。黒の帯紐の中央には母・早苗と同じモチーフだが素材は陶器の雪兎が跳ねていた。白の小花模様の刺繍襟が愛らしく、幼顔(おさながお)の実苑によく似合っている。


「どうしたの母さん?」


 小首を傾げるさまに、張りつめた空気がふわっと和らいだ。

 そうして、半ば強引に話し合いの場が持たれてしまった。




   *   *




 ――話、聞かれたくないでしょ? ちょっと呉服のほうに行ってるから。実苑、あとお願いね。 


 そう告げた早苗は、さっそく店舗の二階へと上がっていった。




 しゅんしゅんと湯の沸く音が一階を満たす。

 木嶋が紅茶を頼んだためだ。


 丁寧にお冷やまでいただいてしまい、一口それで唇を湿らせた湊は、おそるおそる切り出した。


「蓮也さん。なぜ、ここがわかったんです?」


 腕を組んで結露した窓の外を見ていた木嶋は、目線だけちろりと流した。


「母に葉書を書いたろう? 消印の地名と文面から、管轄のハローワークをいくつか絞った。個人情報は聞いても怪しまれるだけだろうから転居を匂わせて、今、参考までにどんな職業訓練が行われているか問い合わせを」


「あこぎですね……」


 顔を目一杯しかめると、また面白がるような表情(かお)をされた。


「で、訓練を請け負う専門学校にいくつか当たりを付けた。たまたま、その一つで待ち伏せしてたら」


「待って。それ、『たまたま』じゃないですよね。思いっきり『待ち伏せ』って――」



 コト。

 カチャリ。



 実苑が近づいたことに気づかなかった。しずかに飲み物の提供を受ける。


「お待たせしました、アッサムティーのお客様。ミルクはこちらです。瀬尾さんはアメリカンね」


「あ……ありがとうございます、実苑さん。すみません。お手数を」


 おだやかな声で堂々と割って入られ、湊は目を白黒させた。ふふふっ、と実苑が笑む。


「いいのよ。お代は母からちゃんといただきます。瀬尾さん、がんばってね」


 ぽん、と優しく肩を叩かれ、眉尻を下げた湊は去りゆく実苑の太鼓結びを見送った。

 一体どこまで聞かれてしまったんだろう。

『がんばって』

 たしかに。


 今、訊かねばならないことは。

 告げるべき言葉は別にあるのかもしれない。

 執着のつよい木嶋(かれ)のことだ。いつか必然的に探し出されるのだったら、突然家に来られたり、新たな職場に来られるほうがずっと困ったはず。



 ――――落ち着いて。


 「なぜ」の中身を間違えたんだ。訊くべきは。



 すぅ、と息を吸った湊は意を決し、再び正面を向いた。絡む視線に、ぐっと堪える。逃げない。


「なぜ……来たんですか?」


「会いたかったから」


「答えになってません。会うことは禁じられたでしょう? 書面でも、弁護士さんからも口頭で説明されたはずです」


「法的処置? 慰謝料ならどれだけむしり取られても構わない。罰せられてもいい。会えないままじゃ、終われなかったから」


「そういう、問題じゃ」

「湊」


「? はい」


 視線を落とした木嶋が銀色のミルクピッチャーを傾け、白い陶器のカップに中身を注いだ。

 硬質なアッサムにミルクが交わり、まろやかな香りが鼻先をかすめる。

 無意識に、湊も目の前のセットからカップをとった。

 軽い口当たりの珈琲をひとくち含む。木嶋の言葉を根気強く待った。


 ――何を、どう言われても。




「復縁は」


「無理です」


 けんもほろろ。とりつく島もなく即断すると、警戒心しか起こらない甘い微苦笑を浮かべられる。


「わかってる」


「じゃあ、なぜ」


「もう二度と、君を追い詰めない。責めない。苦痛だと感じたならその場で言ってくれ。必ず改めるから」


「…………? 意味が、よくわからないんですが」


 呆けたように呟くと、熱のこもったまなざしで射すくめられた。

 炙られる。絡みつくような圧に喉の奥が萎縮する。

 息を殺さざるを得ない既視感に珈琲があることを忘れ、湊は、むりやり唾を飲み込んだ。


「俺は……、君に甘えていた。悪かった。戻って来てくれないか? 君がいてくれるなら、俺は仕事を辞める。家業を継ごう。母を助ける。湊。君さえ」


(……?)


 滔々(とうとう)と畳み掛けていた木嶋が、ふいに身を引き、口をつぐんだ。

 逸れた視線を追い、湊も後ろを振り返る。


「あ」



 カランカラン、とドアベルが鳴った。

 縦縞の磨り硝子(ガラス)にシルエットが映る。


 ――わかる。

 わかってしまう自分の明け透けさに、()()()()()()()()()()()湊は動転した。




「り、律君。なんで?」


「湊さん、こんにちは。いや、店主(オーナー)から家に電話があって。あなたを迎えに来てって……頼まれたと言うか。喜恵(きえ)さんが車、出してくれて」


 珍しく歯切れが悪い。浮かない顔かもしれない。

 ちょうどそこに、とんとん、と(きざはし)を降りた早苗がやって来て、立ち尽くしていた律を強引に喫茶スペースへと押し込んだ。

 ドアが閉まり、再びベルが牧歌的な音を奏でる。


「さすが左門(さもん)の奥様。坊っちゃんだけなら一時間はかかると思ったんだけど……。残念でしたね、お客様。タクシーも呼んどきましたから。お家、遠いんじゃありません? ホテルをとってらっしゃるにしても、一旦お退()きくださいな」


「いや、しかし」


 なおも食い下がる木嶋に、早苗はみずからドアをひらいて見せた。

 手振り(ジェスチャー)は『お帰りはこちら』。口上としても。

 裏腹に、どこまでも華やかに。もの柔らかに微笑んでいる。


 うわぁ、と、実苑だけがのんびりと小声で応じた。


「――あのね。うちは営業妨害で警察を呼んだっていいんですよ、色男さん。逃げた女が、たった一度迎えに来たくらいでほだされるとは、努々(ゆめゆめ)思わないことね」



 


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― 新着の感想 ―
[良い点] 『必ず改めるから』 モラハラ夫はみんなそう言うんだよ! 帰れ帰れ! 周囲のファインプレーが素晴らしいです!
[良い点] 読む前に見た題名が頭の中に残っていたので、ラストのセリフに「あぁ!」ってなりました。 格好いいなぁ、格好いいよ早苗さん そしてきっと喜恵さんも、状況を読んだんだろうなぁ こういうご婦人の…
[良い点] 早苗さんのラストの台詞ゥ~!!カッコイイ! まさかの早苗さんがヒーローだった(笑) [一言] あーでも早苗さんの一言にスッキリです。 大体元夫、余裕ありすぎ! DV夫は絶対許さないけど『間…
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