6 ゆめゆめ、思いませんように
不本意ではあったが、帰る、帰らないでひと悶着起こしてしまった。
木嶋蓮也――前夫にしてみれば、今の自分は十分不愉快な対応をしているはずなのに。
まだ、妙に優しい。
(人前だから? かれの家じゃないから……?)
湊は唇を引き結び、相手を見据えた。
が、読めない。傍目にはとても落ち着いた大人の男性に見える。
強いて言えば、睨んでも、とても興味深そうに見つめ返されてしまうのがつらい。
ほとほと困り果てたあたりで、レジの上で頬杖をついた早苗が、しょうがないわねぇと呟いた。
「瀬尾さん。そちらのお客様、知ってるひとなのよね?」
「うっ」
湊が怯んだ隙に、木嶋がにこりと笑いかける。
「夫婦でした。法的には解消していますが、心は残っています」
「あら」
「!! 蓮也さん!」
思わず頬杖をといた早苗は、まじまじと木嶋を眺めた。
湊は迷惑そうに抗議の声を上げたが一顧だにされない。かえってあからさまに、目の前の男性の愉しげな気配が増した気がする。
「じゃあ、こうしましょう。お二人とも、私が一杯ずつ飲み物を奢るわ。お好きなものをどうぞ。店主の権限で、一時間だけ場所を提供します。話し合えばいいんじゃないかしら」
「そんな。話なんて」
「いえ、お代は」
元・夫婦がそろって慌てるのを、早苗は年配者の貫禄で受け流した。つい、と、視線と指先で窓側にある奥の席を差す。そこは。
(律君の定位置……)
秋から、週末になるたび高い頻度でそこにいた。かれの背中が眼裡に浮かぶようで、湊は言葉を失う。
早苗は、さらに後押しした。
「いいから。その代わり、店で問題は起こさないで。昔はともかく、今は、うちの可愛いバイトさんなの。大声も控えてくださいね。カウンターの向こうに和室があるんですけど。赤ん坊が寝てるのよ。よろしくね」
「…………わかりました」
渋々の体で木嶋が頷いたとき、カラ、と件の和室の板戸が開いた。赤ん坊にミルクを与え終えたらしい実苑が、ひょこっと顔を出す。
藍色の着物に赤い帯。黒の帯紐の中央には母・早苗と同じモチーフだが素材は陶器の雪兎が跳ねていた。白の小花模様の刺繍襟が愛らしく、幼顔の実苑によく似合っている。
「どうしたの母さん?」
小首を傾げるさまに、張りつめた空気がふわっと和らいだ。
そうして、半ば強引に話し合いの場が持たれてしまった。
* *
――話、聞かれたくないでしょ? ちょっと呉服のほうに行ってるから。実苑、あとお願いね。
そう告げた早苗は、さっそく店舗の二階へと上がっていった。
しゅんしゅんと湯の沸く音が一階を満たす。
木嶋が紅茶を頼んだためだ。
丁寧にお冷やまでいただいてしまい、一口それで唇を湿らせた湊は、おそるおそる切り出した。
「蓮也さん。なぜ、ここがわかったんです?」
腕を組んで結露した窓の外を見ていた木嶋は、目線だけちろりと流した。
「母に葉書を書いたろう? 消印の地名と文面から、管轄のハローワークをいくつか絞った。個人情報は聞いても怪しまれるだけだろうから転居を匂わせて、今、参考までにどんな職業訓練が行われているか問い合わせを」
「あこぎですね……」
顔を目一杯しかめると、また面白がるような表情をされた。
「で、訓練を請け負う専門学校にいくつか当たりを付けた。たまたま、その一つで待ち伏せしてたら」
「待って。それ、『たまたま』じゃないですよね。思いっきり『待ち伏せ』って――」
コト。
カチャリ。
実苑が近づいたことに気づかなかった。しずかに飲み物の提供を受ける。
「お待たせしました、アッサムティーのお客様。ミルクはこちらです。瀬尾さんはアメリカンね」
「あ……ありがとうございます、実苑さん。すみません。お手数を」
おだやかな声で堂々と割って入られ、湊は目を白黒させた。ふふふっ、と実苑が笑む。
「いいのよ。お代は母からちゃんといただきます。瀬尾さん、がんばってね」
ぽん、と優しく肩を叩かれ、眉尻を下げた湊は去りゆく実苑の太鼓結びを見送った。
一体どこまで聞かれてしまったんだろう。
『がんばって』
たしかに。
今、訊かねばならないことは。
告げるべき言葉は別にあるのかもしれない。
執着のつよい木嶋のことだ。いつか必然的に探し出されるのだったら、突然家に来られたり、新たな職場に来られるほうがずっと困ったはず。
――――落ち着いて。
「なぜ」の中身を間違えたんだ。訊くべきは。
すぅ、と息を吸った湊は意を決し、再び正面を向いた。絡む視線に、ぐっと堪える。逃げない。
「なぜ……来たんですか?」
「会いたかったから」
「答えになってません。会うことは禁じられたでしょう? 書面でも、弁護士さんからも口頭で説明されたはずです」
「法的処置? 慰謝料ならどれだけむしり取られても構わない。罰せられてもいい。会えないままじゃ、終われなかったから」
「そういう、問題じゃ」
「湊」
「? はい」
視線を落とした木嶋が銀色のミルクピッチャーを傾け、白い陶器のカップに中身を注いだ。
硬質なアッサムにミルクが交わり、まろやかな香りが鼻先をかすめる。
無意識に、湊も目の前のセットからカップをとった。
軽い口当たりの珈琲をひとくち含む。木嶋の言葉を根気強く待った。
――何を、どう言われても。
「復縁は」
「無理です」
けんもほろろ。とりつく島もなく即断すると、警戒心しか起こらない甘い微苦笑を浮かべられる。
「わかってる」
「じゃあ、なぜ」
「もう二度と、君を追い詰めない。責めない。苦痛だと感じたならその場で言ってくれ。必ず改めるから」
「…………? 意味が、よくわからないんですが」
呆けたように呟くと、熱のこもったまなざしで射すくめられた。
炙られる。絡みつくような圧に喉の奥が萎縮する。
息を殺さざるを得ない既視感に珈琲があることを忘れ、湊は、むりやり唾を飲み込んだ。
「俺は……、君に甘えていた。悪かった。戻って来てくれないか? 君がいてくれるなら、俺は仕事を辞める。家業を継ごう。母を助ける。湊。君さえ」
(……?)
滔々と畳み掛けていた木嶋が、ふいに身を引き、口をつぐんだ。
逸れた視線を追い、湊も後ろを振り返る。
「あ」
カランカラン、とドアベルが鳴った。
縦縞の磨り硝子にシルエットが映る。
――わかる。
わかってしまう自分の明け透けさに、こんなときでありながら湊は動転した。
「り、律君。なんで?」
「湊さん、こんにちは。いや、店主から家に電話があって。あなたを迎えに来てって……頼まれたと言うか。喜恵さんが車、出してくれて」
珍しく歯切れが悪い。浮かない顔かもしれない。
ちょうどそこに、とんとん、と階を降りた早苗がやって来て、立ち尽くしていた律を強引に喫茶スペースへと押し込んだ。
ドアが閉まり、再びベルが牧歌的な音を奏でる。
「さすが左門の奥様。坊っちゃんだけなら一時間はかかると思ったんだけど……。残念でしたね、お客様。タクシーも呼んどきましたから。お家、遠いんじゃありません? ホテルをとってらっしゃるにしても、一旦お退きくださいな」
「いや、しかし」
なおも食い下がる木嶋に、早苗はみずからドアをひらいて見せた。
手振りは『お帰りはこちら』。口上としても。
裏腹に、どこまでも華やかに。もの柔らかに微笑んでいる。
うわぁ、と、実苑だけがのんびりと小声で応じた。
「――あのね。うちは営業妨害で警察を呼んだっていいんですよ、色男さん。逃げた女が、たった一度迎えに来たくらいでほだされるとは、努々思わないことね」