5 六花の帯留め
しゅるり、と、締めていた帯をほどくと、背と胸下を支えていた拘束感が消えた。温もりも一緒に離れて、湊は詰めていた息を、ほうっと漏らす。
和雑貨カフェ“み穂”の二階店舗の一隅は、いまや更衣室状態。
『雪のあいだは店で着替えるといいわ。着物で通勤するの、大変でしょ?』
と、気さくに勧めてくれたオーナーの厚情に甘え、ありがたく手持ちの小物や着物を数点、置かせてもらっている。
そうすると、当然のように和ものが好きな者の性として貸し借りが始まる。
今日も。
(雪の結晶の帯留め、可愛いな……。買い取りしちゃおっかな)
六角形の東京切子細工は、青い硝子に細かく六花模様が彫り込まれていた。一体どうやって削られているのか、絶妙なグラデーションがあり、一種の柔らかささえ漂う。逸品だ。
室内灯の明かりを自然に弾く、彫り口の潔い白。彩りを添える地の青がとてもいい。
今日、身に付けていたのは縞のフランネル。灰色からベージュまでの、かなり現代風でシンプルな柄。温かさ重視のカジュアルな素材ではあったが、海老茶の帯に白い紐、切子の輝きはよく映えた。
直径三センチの切子は、絹を敷き詰めた桐の小箱に元通り。
脱いだ着物はここで一晩掛けさせてもらう。洗わねばならないほど着てもいないが、皺を伸ばさねばならないので。
草履は明日も履く。よって、持ち帰りは襦袢と足袋だけ。
それらを持参の鞄に詰め、よし、と確認した湊はおだやかな気持ちで階段を降りた。
雪は小康状態。きのう、律と雪すかしに励んだ我が家の庭は、まだ無事なはず。
* *
カランカラン……と、取り付けられた鐘を鳴らして喫茶スペースの扉を開けると、珍しく和装の早苗がカウンターの内側で調理をしていた。
さく、と揚げたカツの衣を切る音。オーブンで温められた美味しそうなパンの香りから、オーナーお手製マスタードを効かせたカツサンドかな、と、当たりをつける。
それらと珈琲の匂いが混ざりあい、湊は仕事あがりの小腹をいい感じに刺激されてしまった。
実苑は奥の和室で休憩中のようだ。
曇り空の日曜日。時刻は午後四時。
真ん中で勢いよく焚かれた丸ストーブのおかげで、一階はまんべんなく暖められている。客は、奥で新聞を広げている男性客が一名。窓側に女性客が三名。
後者の女性達は、そろそろ帰る? などと話して立ち上がったところだった。
帰参はお客様のあとだな、と判断した湊はしずかに店用スリッパを揃えたり、陳列棚の雑貨を直したりしつつ彼女たちを見送る。和気あいあいとした、賑やかな声が遠ざかってから「お疲れさまでした」と、早苗に声をかけた。
――お疲れ、と笑って労う早苗は和装だと、こういった店の女主人にふさわしい艶と貫禄がある。
たすきで括った黒っぽい木綿の着物に、白地に緑の麻の葉模様が全面に描かれた帯。
中央には玄紐で結ばれた雪兎が、絵柄として『跳ねて』いた。本物の宝石だそうで、雪は楕円のオパール。耳はエメラルド。ちょこん、と付いた二粒の目はルビーらしい。愛らしくも徹底して華やかな帯留めであり、気っ風のよい早苗にとても似合っていた。
目が合い、にこり、と笑った湊は、気になっていたことをそうっと問いかける。
「オーナー、今日お借りしたあの帯留め。おいくらですか? 切子の」
「うん? あぁ。気に入ってくれた? うふふっ、私もあれ、好きよー。二万八千九百円です」
「うわ」
思わずのけ反る。高い。さすがに本場の工芸品は手心のない値段だった。
「どうしよう……」
「悩んでるくらいなら買ったら? いい品よ。利子はいらないから分割にする?」
「いえ、さすがに職なしなので。贅沢が過ぎますし」
口では建前を言いつつ、視線は二階へ。滅多にないことだが後ろ髪を引かれた。
ほんの数時間、身に付けて心を楽しませてくれた小物にふんわりと思いを馳せる。気持ちまで結び留められたように。
「せめて……、そうですね。仕事が決まったら。試験の結果はまだなんですけど、来週一つ面接があるんです」
「あら! そう~。いよいよね。頑張ってって言いたいけど、瀬尾さん、すっごくいい子だから。ずっとウチに居て欲しいわ」
「それは嬉しいような」
言葉通りに口許をほころばせて、なんて返そうかな……と思案した時だった。
――カタン。
(あっ)
湊は、はっと口をつぐむ。
奥の紳士客が席を立った。いけない。つい、話に興じ過ぎてしまった。
ちらりと流し見た、新聞を片付けた男性は。
「!!」
かれ、は。
戦慄して時が凍った。さぁっと血の気が降りる。
錯覚? 動悸。瞬時に口のなかが干上がる。かれは。
湊は、ごく、と唾を飲み、平静を装って再度早苗に向き合った。
「すみませんオーナー。私、これで……」
「――欲しい品があるの? 良かったら、買ってあげようか」
「え?」
客の思いがけない言葉に、きょとん、と目を瞬く早苗。
それにも構わず、男性はご馳走さま、と財布から代金を取り出し、伝票とともにレジ横の木製のトレイへと置いた。
湊は動けなかった。
後ろからゆっくりと近づく、かれの気配を感じたのに、足が。
左側を通り越し、今は目の前にコートを羽織った背中がある。
篁ほど上背があるわけではない。律よりも低い。決して長身ではないのに。なぜ、こんなに?
かたかたと震えている気がして、湊は(逃げなきゃ)と繰り返し自分に言い聞かせた。その、甚大な労苦も甲斐なく。
「優しいね、湊。待っててくれたんだ。どうする? 本当に買おうか? ……こんな風に言っても信じてもらえるかわからないけど。会えて、嬉しいから」
振り向き、微笑みかける前夫は目眩がするほど紳士的だ。
いま、自分は明らかに顔色が悪いに決まってる。かれの後ろで、早苗が心配そうにこちらを窺っているから。
(だめ、逃げたい。つか、まった……? でも)
――――――……ッ。
きゅっ、と、震える歯で唇を噛む。
思い出せ。今は違う。あの時と。
湊は深く、深く呼吸した。それは大層大仰なため息に見えたのかもしれない。
かれの、眼鏡の奥の目が意外そうにみはられたから。
湊は顎を引き、瞳に力を込めて切り返した。
「結構です。蓮也さん。私は…………話すことはないので。お会いしたくありませんでした。お引き取り、願えませんか」