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桜並木の、その下で  作者: 汐の音
寒明けの章
32/48

5 六花の帯留め

 しゅるり、と、締めていた帯をほどくと、背と胸下を支えていた拘束感が消えた。温もりも一緒に離れて、(みなと)は詰めていた息を、ほうっと漏らす。


 和雑貨カフェ“み()”の二階店舗の一隅(いちぐう)は、いまや更衣室状態。

『雪のあいだは(うち)で着替えるといいわ。着物で通勤するの、大変でしょ?』

 と、気さくに勧めてくれたオーナーの厚情に甘え、ありがたく手持ちの小物や着物を数点、置かせてもらっている。

 そうすると、当然のように和ものが好きな者の(さが)として貸し借りが始まる。

 今日も。


(雪の結晶の帯留め、可愛いな……。買い取りしちゃおっかな)


 六角形の東京切子細工は、青い硝子(ガラス)に細かく六花(りっか)模様が彫り込まれていた。一体どうやって削られているのか、絶妙なグラデーションがあり、一種の柔らかささえ漂う。逸品だ。


 室内灯の明かりを自然に弾く、彫り口の潔い白。彩りを添える地の青がとてもいい。

 今日、身に付けていたのは(しま)のフランネル。灰色からベージュまでの、かなり現代風でシンプルな柄。温かさ重視のカジュアルな素材ではあったが、海老茶の帯に白い紐、切子の輝きはよく映えた。


 直径三センチの切子は、絹を敷き詰めた桐の小箱に元通り。

 脱いだ着物はここで一晩掛けさせてもらう。洗わねばならないほど着てもいないが、(しわ)を伸ばさねばならないので。

 草履(ぞうり)は明日も履く。よって、持ち帰りは襦袢(じゅばん)足袋(たび)だけ。


 それらを持参の鞄に詰め、よし、と確認した湊はおだやかな気持ちで階段を降りた。


 雪は小康状態。きのう、(りつ)と雪すかしに励んだ我が家の庭は、まだ無事なはず。




   *   *




 カランカラン……と、取り付けられた鐘を鳴らして喫茶スペースの扉を開けると、珍しく和装の早苗(さなえ)がカウンターの内側で調理をしていた。

 さく、と揚げたカツの衣を切る音。オーブンで温められた美味しそうなパンの香りから、オーナーお手製マスタードを効かせたカツサンドかな、と、当たりをつける。

 それらと珈琲の匂いが混ざりあい、湊は仕事あがりの小腹をいい感じに刺激されてしまった。

 実苑(みその)は奥の和室で休憩中のようだ。




 曇り空の日曜日。時刻は午後四時。

 真ん中で勢いよく焚かれた丸ストーブのおかげで、一階はまんべんなく暖められている。客は、奥で新聞を広げている男性客が一名。窓側に女性客が三名。

 後者の女性達は、そろそろ帰る? などと話して立ち上がったところだった。


 帰参はお客様のあとだな、と判断した湊はしずかに店用スリッパを揃えたり、陳列棚の雑貨を直したりしつつ彼女たちを見送る。和気あいあいとした、賑やかな声が遠ざかってから「お疲れさまでした」と、早苗に声をかけた。


 ――お疲れ、と笑って労う早苗は和装だと、こういった店の女主人にふさわしい艶と貫禄がある。

 たすきで括った黒っぽい木綿の着物に、白地に緑の麻の葉模様が全面に描かれた帯。

 中央には(くろ)紐で結ばれた雪兎が、絵柄として『跳ねて』いた。本物の宝石だそうで、雪は楕円のオパール。耳はエメラルド。ちょこん、と付いた二粒の目はルビーらしい。愛らしくも徹底して華やかな帯留めであり、気っ風のよい早苗にとても似合っていた。

 目が合い、にこり、と笑った湊は、気になっていたことをそうっと問いかける。



「オーナー、今日お借りしたあの帯留め。おいくらですか? 切子の」


「うん? あぁ。気に入ってくれた? うふふっ、私もあれ、好きよー。二万八千九百円です」


「うわ」


 思わずのけ反る。高い。さすがに本場の工芸品は手心のない値段だった。


「どうしよう……」


「悩んでるくらいなら買ったら? いい品よ。利子はいらないから分割にする?」


「いえ、さすがに職なしなので。贅沢が過ぎますし」


 口では建前を言いつつ、視線は二階へ。滅多にないことだが後ろ髪を引かれた。

 ほんの数時間、身に付けて心を楽しませてくれた小物にふんわりと思いを馳せる。気持ちまで結び留められたように。


「せめて……、そうですね。仕事が決まったら。試験の結果はまだなんですけど、来週一つ面接があるんです」


「あら! そう~。いよいよね。頑張ってって言いたいけど、瀬尾(せのお)さん、すっごくいい子だから。ずっとウチに居て欲しいわ」


「それは嬉しいような」


 言葉通りに口許をほころばせて、なんて返そうかな……と思案した時だった。




 ――カタン。



(あっ)

 湊は、はっと口をつぐむ。

 奥の紳士客が席を立った。いけない。つい、話に興じ過ぎてしまった。

 ちらりと流し見た、新聞を片付けた男性は。


「!!」




 かれ、は。




 戦慄して時が凍った。さぁっと血の気が降りる。

 錯覚? 動悸。瞬時に口のなかが干上がる。かれは。

 湊は、ごく、と唾を飲み、平静を装って再度早苗に向き合った。


「すみませんオーナー。私、これで……」

「――欲しい品があるの? 良かったら、買ってあげようか」


「え?」


 客の思いがけない言葉に、きょとん、と目を瞬く早苗。

 それにも構わず、男性はご馳走さま、と財布から代金を取り出し、伝票とともにレジ横の木製のトレイへと置いた。


 湊は動けなかった。

 後ろからゆっくりと近づく、かれの気配を感じたのに、足が。


 左側を通り越し、今は目の前にコートを羽織った背中がある。

 (たかむら)ほど上背があるわけではない。(りつ)よりも低い。決して長身ではないのに。なぜ、こんなに?


 かたかたと震えている気がして、湊は(逃げなきゃ)と繰り返し自分に言い聞かせた。その、甚大な労苦も甲斐なく。


「優しいね、湊。待っててくれたんだ。どうする? 本当に買おうか? ……こんな風に言っても信じてもらえるかわからないけど。会えて、嬉しいから」


 振り向き、微笑みかける前夫は目眩がするほど()()()()

 いま、自分は明らかに顔色が悪いに決まってる。かれの後ろで、早苗が心配そうにこちらを窺っているから。



(だめ、逃げたい。つか、まった……? でも)





 ――――――……ッ。


 きゅっ、と、震える歯で唇を噛む。

 思い出せ。今は違う。あの時と。


 湊は深く、深く呼吸した。それは大層大仰なため息に見えたのかもしれない。

 かれの、眼鏡の奥の目が意外そうにみはられたから。


 湊は顎を引き、瞳に力を込めて切り返した。


「結構です。蓮也(れんや)さん。私は…………話すことはないので。お会いしたくありませんでした。お引き取り、願えませんか」




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― 新着の感想 ―
[一言] ぎゃあぁぁーー! ついに来やがった! 『紳士的』 ここがめっちゃぞっとしました!
[良い点] 着物に関する描写が相変わらず溜息が出るほど素敵です。 そして、元DV夫・木嶋蓮也の登場! ものすごい緊張感と湊さんの動揺、恐怖……伝わってきました。 どうなる?どうする?! と思ったら湊さ…
[一言] うわぁん、湊さんよく言った!頑張った! でも、そこで終わりなんて……次回がどきどきどき;( ;´꒳`;): 途中は飯テロでしたね★ 冒頭の、帯からの解放シーン。 わかりみ!と頷いてしまいま…
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