後
『こういうのはどうかな』の中身は、翌日訪れた。
律――左門律からの提案は、じつに緩く。けれど、しっかりと湊の新生活にぐいぐい迫るものだった。なぜこうも、ひとの防御壁を無視してくれるのか。
「無双なの?」
「え? 何。なんか言った?」
「何でもないです。はい、そっち、箱たたんでくれる? お願い」
「はいはーい」
軽妙な声と同じくらい、軽々と律は立ち働いた。
ダンボール箱も大きいものだと、そこそこ女手には余るものがある。自慢じゃないが湊は力が弱い。時々、ペットボトルの蓋にも苦戦してしまう。
対する律は鼻歌混じりに機嫌よく空いたものを潰していった。ビニール紐で数枚ずつ、大きさの合うものをまとめている。家具の移動も苦はないらしい。
湊は、ほう……と感心と感謝、および小気味のよさを込めて吐息した。一応荷ほどきの手は休めない。
食器の類いは初日に片付けたので、あとは衣類や小物。通販で購入した本棚の組み立てなどだ。
こうしてやってみると、ひと一人の生活にはなんとたっぷりの物が必要なのかとげんなりする。(荷造りするときは勢いがあったし、一刻も早くそこを出たかったので苦にならなかった)
今日は、律はさすがに洋服。動きやすそうな長袖Tシャツに、カーキのカーゴパンツを穿いている。
湊も負けじと作業優先体勢だ。もともと化粧っ気はないので下地と眉を補正するアイブロウ、唇に赤みを差すグロス程度しか乗せていない。髪は高い位置で一本に結い上げ、ビッグサイズの白シャツの袖をまくり、色褪せた細身のブラックジーンズを合わせていた。
動ければ何でもいい。楽ちんは正義だ。
「きみさ、左門さんって名家のご子息なんでしょ? 今さらだけど、こんなことしてていいの」
――学校は?
ちらっと頭を掠めた疑問は当初、本当にささいなものだった。
創立記念日とか。特別な休日なのかな、と。
だって、そうでもなければ平日にこんなところ、来るわけがない。
備え付けの押し入れにシェルフをセットし、ステンレスの突っ張り棒を上部に渡して衣服を収納してゆく。引っ越しにあたって数は大分減らしたが、それでもいっぱいになりそうだった。
んー……、と唸る声が背中から届いたが、湊は淡々と答えを待った。そもそも、あまり急いではいない。
月曜日。午前十時すぎ。もし、サボりだったのなら堂々とし過ぎている。常習犯なのかも。
「言ってなかったっけ? 俺、引きこもり中なの」
「聞いてない。なんで? 今、何歳?」
「十七」
「高二くらいだよね。いつから行ってないの?」
「この春から」
「…………は?」
思わず手を止め、振り向いた湊の視線を受けた律が、にやっと笑った。
え。……ん、んん? と、一瞬思考が真っ白に染まる。やばい。無職だけど社会人として非常にやばい場面に直面している気がした。
「なりたてじゃないの! なんで……律君もてるでしょ? そういう子って、学校楽しいんじゃないの? 格好いいし優しいし。頭も良さそうだもの」
「うわぁ、美人のお姉さんにベタ褒めされた……」
「うるさい。茶化さないで。ねぇ、なんで? まだ新学期始まって大して経ってないでしょ。今日の午後からでも行っておいで」
「やだよ」
やんわりと即答。
大人びた顔のまま、律がスゥッ……と視線をずらした。
「よっと」と一声あげて胡座をかき、説明書を片手に黙々と本棚の部品を箱から出し始めてしまう。
これは、お家のひとも手を焼くタイプなのでは――と判断を下し、湊は「良かれと思うこと」のごり押しを一瞬でやめた。
この若さで、こののらりくらり感。長じればとんでもない傑物かニートか、どちらかじゃないんだろうか。
追及する代わりに膝をつき、床に手を突いて近づくと、くんっとTシャツの肘の辺りを引っ張った。
ぴくり、と身じろぎした律が固まる。
「本棚、そっちじゃない。こっち。窓から光が当たりにくいところに置きたいの」
「……あ、はい。了解です」
――――今度はえらい素直だな、と湊は微笑んだ。
* *
「怪我、したんだ。事故で」
返事も相槌も打たない。湊は律の隣で膝を抱えて座り、かれの手元に視線を落としたあと、ちらりと横顔を眺めた。
あいかわらず整っている。とても穏やかで、凪いだ湖のようなまなざしだった。
「事故って言っても車とかじゃなくて。練習……、あ。弓道でさ」
「うん」
やっぱり、そっち系だったかと頷きつつ湊は先を促す。律はほんの少し間を持たせたあと、再び口をひらいた。
ぱらら……と、本棚付属の木ネジを袋を逆さにしてすべて出してしまう。数が揃っていることを確認し、ドライバーで横板と底板から組み立て始めた。
「馬に乗ってたんだけど」
「なぜ」
思わず突っ込んだ。まてまて、弓道どこ行った。
反応速度が可笑しかったのか、ふふっと律は目を細めて笑う。そのまま湊を流し見た。
「流鏑馬って知ってる? 馬に乗って駆けながら射るやつ。それ」
ははぁ……と納得し、ふんふんと頷く。その様子に再度微笑まれる。今度は少し、瞳が翳った。
「春休みにさ、馬術部に頼み込んで教えてもらって。何とか一人で直線走れるかな、て頃合いだった。で、コース走ってたら急に女の子が飛び出してきて」
「待って。なぜ、そこで女子?」
話がいちいち予測不能な方向に飛んでゆく。追いかけるのが大変だった。今度は真顔の律が淡々と答える。
「俺の追っ掛けらしい」
「はー……すごいね。でもちょっと体張りすぎじゃない?」
「『ちょっと』どころじゃないでしょ。スマホ持ってたから盗撮してたんだと思う。で、何かの弾みで乗り出しすぎて、転がったらしくてさ。
避けようとしたけどちょうど、両手離して弓引く練習してたから。手綱が間に合わなかったんだ。
奇跡的にその子を踏むのは免れたんだけど、代わりに俺が落馬した」
「あらー……」
同情を湛えて見つめると、苦笑された。
「まだ続きがあるんですが」と告げられ、「どうぞ?」と促す。律は再び、板とネジを手に取った。話しながらでもちゃんと進んでいる。さっきとは逆の横板だった。
「なんか、その子が思い詰めて自殺未遂しちゃって。……女の子同士でもいろいろ、あったらしい。ラインとかで相当吊し上げ食らったらしくて」
「聞くだけで大変だわ。それで? その子、助かった……んだよね?」
こくり、と作業の手を休めずに律が頷く。少しホッとしたが、心のなかがモヤッとした。
あれ。これって。
……まさか?
険しい顔になった湊に気付いてか、律は重たげに口をひらいた。
「ん。ちゃんと普通に学校来てる。でもなんか、俺が行きたくなくなった」
「…………」
「あんまり、特定の女の子を怖いとか言いたくないんだけどさ。その子のスマホ、俺の画像だらけだったらしい。実際病院にも毎日見舞いに来たし、退院したら家にも来た。
……正直、参ってる。会いたくないし見たくない。できれば転校したいくらい。どっか、遠くまで」
(!)
ちく、と刺さるものがあった。
律の告白を他人事にはできない理由が、湊自身のなかにある。
湊も。振り返りたくない、二度と会いたくない人物はいた。
(しかも。こうして実際、逃げ出してる)
無事に逃げおおせたはず。もう、追っては来ないはず。なのに漠然と恐怖が消えない。
それは――見ようとしてないから、なのかもしれない。相手じゃなくて。
…………怖がってる自分を、ぜったいに認めたくないから。
きゅ、と湊は唇を噛みしめた。
がまんできず、「ごめん。いやなら言って」と断りを入れて立ち上がり、律の後ろにまわると膝をつく。背から肩越しに腕を回し、抱擁した。
「!!!!」
とんでもなく固まっている律にお構いなく、湊は深く息を吸い込むと、モヤモヤを吐いてしまいたくて、訥々と言葉を紡ぐ。
――ひとに。こんな風に自分から触れるのは久しぶりだった。
「私はね、本当に逃げ出した立場だから。強いことは言えない。正しいことも言えない。けど」
抱きしめた律の肩や首筋のぬくもりに、ゆるゆると溶かされる氷が胸のなかにある。
溶けて、泣いてしまいたくなる。
(……参ったな。慰めたかったのに)
湊はため息をつき、目の前のさらりとした黒髪に頬を寄せ、力を抜いた。
かれの鼓動がすごいことになっている。自分の鼓動かもしれない。でも、もうどっちでもいいや――と、振り切る。
「あなたのこと、そんな風じゃなく受け入れてくれるひと、いるんじゃない? 友達でも。親御さんでも。……初めて会ったとき……昨日、着物だったのはなぜ? ご両親は、ほんとにあなたがここの鍵を持ってるの、知らなかったのかな」
「……」
そこから。
ぽつり、ぽつりと律はこぼした。
日毎、怪我が治っても顔が曇ってゆくかれに、わざと着物を着せて茶会へと引っ張りだし、家から距離をとらせようとした祖母のこと。
避難所としての、坂の上の家をまるごと奪うのは忍びなく、せめて入居者が決まるまではと黙認していたかもしれない両親のこと。
(――先週末、夕方滑り込みの下見で即決。引っ越しが昨日。で、今日が月曜日……か。役所からの知らせは電話だとして、今ごろかな? 慌ててなきゃいいけど。親御さん)
ふ、と笑い声がもれた。
「なに」
「ううん。何でも」
ふふふ、と笑いが収まらない彼女に、律がふて腐れたように呟く。
「ちょっとは、こう、フラッとしてくれりゃいいのに……」
湊はそれを、きちんと聞き流した。
「――さ。やっつけちゃおっか。うまく片付いたらお昼おごってあげる。どこか、お店教えてよ。食べたら家まで送ったげる」
にこっと笑う。
その、桜色の微笑みに律がどんなまなざしを向けているのか。
それはひとまず、置いておいて。
十歳差でも、友人にはなれるのかな――? と、和らいだ気持ちの女性と、ちょっと先々を考えて春の間に逞しくなり、初夏には同級生のストーカーとかどうでもよくなった、あやしかった少年のお話。
――――その後、どうなったのか?
きっと、坂の上の桜並木は知ってるんだと思う。