追記2/2 温もりと波乱の日
空が白い。うっすらと光を湛えている。
黒い枝先に几帳面に雪を戴く桜並木は、整いすぎて、いっそ写真じみている。律は足元のさらっとした新雪を踏み固めて、着実に歩いた。
下の国道から坂の上は、ほぼ雪に埋もれて道がない。よって、律の通ったあとに一本の細い道ができている。
「やっと着いた……」
喋った拍子にこぼれる吐息も、瀬尾邸の屋根も真っ白。際限なく降り来る粉雪は星のようで、見上げると吸い込まれそうだった。
庭師のサービスだろうか。玄関まわりだけは軒下に雪囲いがしてある。
裏側を木の板で補強した、白く波打つトタン板は、屋根に積もりすぎた雪を滑り台のように地面へと逃がしてくれる。
屋根雪は直撃すれば埋もれることもあるし、重みそのものが凶器。トタン板は地味で見映えはよくないが、この地域では古来から立派な安全装置だった。
そう言えば。
(湊さんって、出身どこだろ。旅館としか聞いてない。雪、慣れてんのかな……?)
彼女の醸すイメージは秋田っぽくもあり、京都っぽくもある。訛りはないが首都圏という感じはなかった。
地理上、この辺は風向き次第で立派な豪雪地帯になることを、風邪が治って元気になったら教えないと……など、妙な使命感に駆られる。
律は雪囲いの内側でとんとん、とブーツの雪を落とすとポケットから合鍵を取り出した。
――カチャリ。
解錠。カラカラ、と開ける。
「こんにちはー。……湊さん?」
わずかな隙間に身を滑り込ませ、後ろ手に引き戸を閉める。まっすぐ奥へと続く廊下は、しん、として清く、外と変わらないくらい寒い。
勝手知ったる嘗ての別宅。
律は玄関で脱いだブーツをさっと揃えて上がり、なるべく足音を立てないように歩いた。
きっと、彼女は寝ているのだと思って。
* *
(寝室。ここだよな。さすがに入浴中ってことはないだろうし……)
廊下を挟んでキッチンの向かい側。
床の間に、襖戸で隔てた和室があるのは昔から知っていた。
湊が来て、引っ越しの手伝いをしてからは一度も入っていない。若干の緊張が走る。
律は、いちおう控えめに声をかけてみた。
「湊さん、いる? 開けていい?」
「……律、くん? え、なんで……?」
硝子と障子の向こうから、微かに戸惑う声が聞こえた。
普段の彼女よりも明らかに上擦り、掠れて辛そうな声。律は躊躇なくすらり、と格子戸を引いた。
「うわ」
当然だが、思いきり非難の声をあげられた。
まだ青みのあるい草の畳に敷かれたボアシーツの布団で、湊が横になっている。
――眠っていたのか、起きていたのか。
開けられるとは予想だにしなかったらしい。かなりの驚き具合だ。
律は戸を閉めてから「入ります」と、しずかに断った。抜かりなくファンヒーターのスイッチを入れておく。
寒い。いくらなんでも病人が安静に過ごせる部屋じゃない。
半分体を起こした湊は、まだきょとん、としている。
「どうして……あれ?? 私、なにか約束してたっけ」
「してませんけど。俺、たまたま“み穂”にいたんです。欠勤連絡したでしょう? あのとき聞きました。熱があるって」
「あぁ」
合点がいった湊はゆるゆると瞼をおろし、ぽすん、と枕に埋もれた。
話しながら布団の側に座った律をまるで警戒していない。普段、厳密に引かれているはずの一線が、みごとに消えていた。
襟元のボタンを留めきっていない、ゆるい部屋着姿も。
袖から覗く華奢な白い手首も。
何より、表情が。
(やばい……!)
目が離せない。
高熱にあえぐ唇。潤んだ目許。上気して火照る頬にもれなく視線を引き寄せられる。
つい、触れたいと願い、手が伸びてしまったのは不可抗力だった。
「…………律君?」
律に前髪をすき上げられ、額に手を乗せられても湊は拒まなかった。
そのまま、やさしく髪を撫でられても。
「俺、しばらくいますから、休んで。欲しいものある? 薬は飲めた?」
「薬は帰ってすぐ……。そのせいかな、今すごく眠くて」
「ごめんなさい寝てください」
「あ、でもよかったら……ちょっと待って。甘えてもいい?」
「何なりと」
甘えてもらえるなら嬉しい。
うっかり彼女の耳朶や首筋にも指を滑らせてしまったが、あえて熱を冷やすことだけに専念した。
目をつむった湊はそれすら振り払わない。気持ち良さそうに口許をほころばせている。
(破 壊 力 ……ッ!!!)
くっ、と瞑目する律をよそに、湊からは寝入りそうな甘い声がぽやぽやとこぼれた。
「そこ……、文机。お年賀状書いたんだけど、出しそびれちゃって。さすがにもう……投函しないと」
――元旦に間に合わないかも。
声音とは正反対。実に現実的な要望だった。律はあっという間にリアルへと引き戻される。
「承知しました。出せばいいの? 全部?」
す、と立ち上がり、目当ての文机へ。
黒いノートパソコンの横には、年賀状が数枚重ねられていた。宛名も書面もすでにプリントアウト済み。直筆で一言ずつ異なるメッセージが添えてあるという丁寧な仕事ぶりだ。そのなかに。
「えっ……これ、俺?」
「そう。ごめんね。本人様に」
「いやいや。嬉しい。すごく嬉しいです。ありがとう」
ボールペンでしたためられた、柔らかな筆致。目に飛び込んだ文章に心が浮き立つ。
律は、じんわりと喜びをかみしめて湊に声をかけた。
「寝ててください。投函ついでに雪、すかして来るから」
「ごめん……ね、埋め合わせ、は、また今度……」
途切れがちな声が小さくなる。
眠くて堪らなさそうな湊の珍しい姿に、思わず口の端が上がった。
――――こちらこそ、ごめんなさい。勝手に、よからぬ気持ちであなたに触れました。
「! そうだ。これ」
顔を赤くした律は、はた、と思い出して、持参したスポーツ飲料を開栓した。冷えピタは一枚だけ取り出してフィルムをめくり、寝入りそうな湊の額に乗せる。
「つめた……」
「おやすみなさい。暖かくしててくださいね。ファンヒーター、切れるまでには戻るから」
パタン。
障子戸が閉まる音に、意識が沈みそうだった湊はとろとろと思案する。
(斉藤さん、真鍋さん、坂元さん……。大丈夫、みんな書けてる。それに)
横を向いて枕に頬擦り。もそもそと掛け布団を鼻先まで被った。
かれの手が触れた箇所を温もりに埋める。他意はない。ないったらない。
(葉書……先に、女将さん宛にはお年賀関係なく出しててよかった。もう届いたかな)
届いてるはず。投函したのは先週……――
それ以上の言葉はカタチにならず。
安堵した湊は、すぅっと眠りに落ちた。
* *
いっぽう、職業訓練修了のこの日。
メンバーのなかではかなり努力していた湊の不在は、少なからず他の面々を消沈させた。
「心配だよねぇ。試験、来れるのかな」
「大丈夫でしょ、まだ日はあるし。――ね、篁さん。瀬尾さんと年末年始に会う約束って、ある?」
ご婦人がたから話の水を向けられ、篁裕一は、にこっと笑みを浮かべた。
「多分。そうですね、会うんじゃないかな。今日の講義内容とか教えてほしいってメール、ありましたから」
「ふぅ~ん。そっかぁ。よろしくね。良いお年を!」
「うん。真鍋さんたちもね。良いお年を」
ご婦人がたは揃ってにこにこしている。
『はっきりとは言わないのが大人の作法』みたいな。
(まぁ、魂胆は大体わかるけど)
条件的な安全牌ということもあり、篁は気安く微笑んで手を振った。
そうして専門学校から出てきたところを。
「すみません。今日、ここで職業訓練を終えられたかたですか?」
突然、見知らぬ男性に話しかけられた。
年の頃は三十路後半。仕立ての良さそうな黒のロングコート。眼鏡を掛けている。
中背だが立ち姿はすっきりとして、顔立ちも悪くない。怜悧といえば聞こえはいいが、感情がいまいち現れにくそうな、冷たい印象を受ける。篁は少し身構えた。
「そうですが。どちら様?」
あぁ、と、男性は初めて対人用の笑顔を見せた。
「身内が、職業安定所の訓練でここに通っていたはずなんです。木嶋……、いや、今は旧姓を名乗ってるかな」
(旧姓)
とびきりデリケートな単語だ。
篁は眉がひそめたが、警戒を出し過ぎないよう、大いにつとめた。
いやな予感がする。今は、と言った。では、前は?
おそらくは木嶋某というのだろう。男は、するりと続けた。
「瀬尾、といいます。『瀬尾湊』。ご存知ありませんか」
「さぁ」
にわかに沈黙が降りる。やばい。
危険察知も半端ないが、篁は数々の修羅場で鍛え上げた自分の鉄面皮に感謝した。出来うる限り動揺を出さず、しれっとやりのける。
「……知らないな。うちらの中にはそんなひと、いなかったですけど」
失礼しますね、と立ち去る。その心は。
(知らせる? 知らせないほうがいい??? どーすんだよ瀬尾さん。あれ、まじやばい奴だろ……!!)
真顔でしばらく煩悶していた。